あたたかな愛
「……エドアルド様は、尊敬するところなどはございません!」
傍から見ればとんでもないエミリアの宣言に、より早く反応して吹き出したのはジャンだった。
「っふ、はは!……っくっくっく、」
視線だけで笑うジャンを諌めると、途端に声を押し殺してより一層肩を震わせる。埒があかないと匙を投げてエミリアを見れば、エミリアもまた厳しそうな目をジャンに向けていた。
「笑い過ぎよ、ジャン」
「っく、……いやしかしエミリア、……面白過ぎるじゃないか、っふふ」
「……エミリア、一旦ジャンのことは置いておくとして。エドアルド様に尊敬するところがないというのは?優秀な方ではあったのでしょう?」
エミリアに向けて問うと、ゆっくりこちらを向き直ったエミリアが深く頷いた。
「……そうですね、ジュリエッタ。あの方は幼い頃から一個人としての能力は確かに優秀でしたが、それと人を統べる者としての能力は別です。……特に今のエドアルド様は、本人も仰った通り周囲の視線や目に見えないものに日々怯えて、形にならない愛にすがり続ける可哀想な方なのです。盲目にお母様の愛を求めるばかりか、その態度を当然と見て育ってしまったエドアルド様は、だからこそ身分下の者や、権力にすり寄ってくる者にはその対応も無礼極まりなく……統べる者としてはあまりに未熟ですし、社交の上では何よりも重要な女性への礼儀もなっておりません。ブルーナ様や他のメイドと共に教育しようにも、お母様を絶対として育った事により中々話を聞き入れてもらえず……と、いった具合に、決して仕える者として尊敬出来る方ではございません」
それは長々とした愚痴にしか聞こえず、実際に目にしたエドアルドの失礼すぎる態度も思い出して私は相槌がてら深々と頷いたのだが、エミリアはそこでふっと視線を逸らした。
そうして、事実わたくしがお側に仕える時も両親にはひどく反対をされました、と付け足したエミリアが横で寝息を立てるルイーゼ夫妻を見る。その瞳は優しく、とても懐かしそうに細められていた。
「それでも、わたくしは幸せでした。……幼い頃のエドアルド様を、知っていたから」
「……ふう、……何と言ってもエミリアのプリモ・アモーレだものねえ」
一通り笑って落ち着きを取り戻したらしいジャンが目尻の涙を拭いながら言うと、途端にエミリアの頰が赤く染まった。
「ち、違」
紺の髪が揺れる白い肌に朱が入って、少し慌てるその様子がなんとも可愛らしく、にわかにはエドアルドの後ろに控えていた物静かそうな女性と同一人物とは思えないほど活き活きとして見えた。
「違わないだろう?僕には誤魔化すだけ無駄だってことは、もう幼い頃から知ってるじゃないか」
「っ!」
「……その、プリモ・アモーレって?」
あっけらかんと笑うジャンと、頰を赤く染めたエミリアが睨み合っているところに、とりあえずの質問を投げる。……プリモという音はプリマヴェーラにちょっと似ている気がするけど。それに、アモーレってなんか聞いたことあるような。
「ああええと、……時季のはじめをプリマヴェーラとして、芽吹きのあたたかな愛に重ねて、初めて人を見初めた時の様をプリモ・アモーレと言うのです」
「まあ!ではエミリアの初恋がエドアルド様ってことなのですね!?」
なんてことだ、こんなところにも少女漫画みたいな展開を経た人が居たとは。幼い頃に初恋をした人に仕えて、罪を共にするだなんて、それはなんて物語的なのか。
いきなりテンションを上げた私に、顔を真っ赤にしたエミリアが言い淀む。
「……そ、それは、その」
「ね、エミリアはどのようにエドアルド様と出会われたのかしら」
「は、……初めてお城に集まった時、迷って、心細くて泣いていたわたくしを助けてくださったのがエドアルド様だったのです」
「そうなのですね!ねえ、エミリア。エドアルド様を見初めたその時、どう、思ったの?」
……くう、元が美人だというのはわかっていたが、それ以上に恋する女の子ってこんなに可愛いのか!
テンションを上げて野次馬よろしくぐっと身を乗り出して問えば、真っ赤なエミリアがやっとのことで言葉を絞り出した。
「う、美しい人だと思いました。たおやかな金の髪に、微笑みに輝く赤の瞳が……まるで、私とは正反対の、太陽のようだと」
「……素敵……エミリアはエドアルド様を愛しているのですね」
ほう、と感嘆の息と共に呟くと、深い夜空のようなエミリアの瞳からぽろりと涙が溢れた。
「あ、ご、ごめんなさいエミリア、決して泣かせるつもりでは、」
ぎょっとして慌ててハンカチを取り出すと、エミリアがゆるりと首を振る。
「謝るのはわたくしの方です。ジュリエッタ。わたくしの想いは愛などではありません。……だってわたくしは、父母の想いを無碍にし、大切な伝承を私欲に利用して、古くから続く伝統を歪めた罪人なのですから」
「……エミリア、」
「わたくしは如何なる罰をも受けます。……けれど、どうか、ただただ可哀想で、ただ愚かだったエドアルド様だけは……その、命だけは」
言いながら次から次へ涙が溢れて、エミリアの滑らかな頰を伝ってお仕着せのような服に濃い染みを作っていく。
不意に気遣わしげな様子のジャンがソファの横に移動したかと思うと、くるりと背を向けて肘置きに浅く腰掛けた。……エミリアの顔を見ない為の配慮だろうか。
「良いところは、たくさんあるのです。幼い時分から努力が出来るところ、必要とあらばしっかりと自分の頭で策を練れるところ、意外にも字が綺麗なところ……」
涙の中で呟かれる思いは、当初に言った主従のそれを遥かに超えていた。
「ただ、ただ愛に恵まれなかった可哀想なあの人をお救いください……わたくしは、わたくしはどうなっても良いのです……」
そうしてずっと、ただあの方だけは、と繰り返す嗚咽が、ぐっと私の胸を締め付けた。
「……これが愛でなくて、なんだって言うのか」
「え?」
思わず出てしまった声に、涙を一杯に溜めた夜空の瞳がこちらを見る。
先程受け取って貰えなかったハンカチで、尚も溢れる涙をそっと拭った。
「……大丈夫、大丈夫ですよエミリア。きっと大丈夫だから、貴女の大切な想いを否定しては駄目。その想いこそが、エドアルド様を確かに救うはずです」
エミリアが不思議そうにぱちり、と瞬きをしたところで、廊下が騒がしくなった。
「……衛兵達が目覚めたようですね。」
静かにジャンが立ち上がって、廊下へ向かう。その横顔は完璧にシルヴィオを模しているものの、何故だか少し寂しそうに見えた。
私も立ち上がりかけて、俯くエミリアを思って留まる。
「エミリア、これだけ聞かせてください」
「……はい」
「貴女は今、公に今までの身分を失ったエドアルド様のことを、……どう思っているの?」
真っ直ぐに問いかければ、少しの間息を詰まらせて、やがて意を決したように意志の強い眼差しが返ってきた。
「……今も変わらず、お慕いしております」