嵐の前の静けさ
あれから一夜が明けて、今、私は海の上に居る。
いや、正確には複数枚の布を積んだ船の上、だけれど。
私が目覚めた時に乗っていた舟とは大きさも動力も、やはり桁違いで。
ただ、帆を広げて海上の風を利用して進むので、構造自体は私の知る帆船とほとんど同じみたいだ。……花石が所々に埋め込まれた大砲が見える以外は。
いくら国内が平和でも、大事なものを守る為に、有事に備えておかなければならないこともあるのだな、と今一度考えたりして。
……どうして、等しく感情を抱えて生きているのに、人を羨んで、他と違うことを疎んで、自分の他から無理矢理奪おうとするのだろうか。人を呪わば穴二つって言葉があるように、誰かを害することはきっと、悲しい連鎖を生んでしまうだけなのに。
目を伏せて自分の中でわだかまる気持ちに俯きそうになったところで、ふとシルヴィオの声が耳に届いた。
「……ヴェルーノも微笑む穏やかな良き日だな。すぐには警戒体制だというのが信じられない程だ。」
はっと顔を上げて声のした方を見ると、風に揺られる銀髪が煌めいて、その奥に覗く透き通った海色の瞳がフィレーネ王国を見つめていた。
「私はいつだったか、あなたの前でこの国を守ると誓ったが、……私一人の力だけではほとんど無力と言っても過言ではない。臣下や、精霊達、そしてあの地に生きる民の力がどうしたって必要なのだ。……王は、王とはただ、その声を正しく統べる者であるだけだ」
「……シルヴィオ様」
「と、あなたのおかげで気付けました。……あなたが私の曇りかけていた目を晴らしてくれた。ありがとう、ジュリ」
自分の頰に拡声でもするように手をあてて、私を見たシルヴィオが声を潜めて笑う。
その明るい笑顔につられて笑うと、そのままシルヴィオの隣に手招かれた。
「それにしても。コホン。……あなたと見るこの国が、こんなにも美しいものだとは」
少しの咳払いをしたシルヴィオの言葉が、なんだか急にぎこちないものになった。横目でその顔を見ると、頰がほんのりと赤い気がする。
「……それは、もしかして」
「一応。この国では、有名な口説き文句だ」
素っ気なく言ったその顔が、やっぱり赤くて。口説き文句を言われて嬉しくなるよりも、その面白さで思わず笑ってしまったのだった。
ひとしきり笑った後でヴェルーノの強い日差しに今一度目を細めて、シルヴィオの隣できらきらと輝く海の向こうのフィレーネ王国を眺める。
初めて見た時と変わらず、美しいプリンチペッサの街と、丘の緑を挟んだところに王城も見えた。
……初めは当然名前すら知らなかった場所が、実際に歩いて、触れて、名前を知るだけでこんなにも愛着が湧くだなんて。
「……ジュリ」
「はい?」
「あれだけ笑ったのだ。……ジュリの世界には、どんな口説き文句があるのかは教えてくれないのか?」
言いながらわざとらしく唇を尖らせたシルヴィオにはもう一度笑って、思いつく言葉を探す。
頭の中を探してみて、やっぱりどんな世界だってどんな国だって、大切な人と見る風景は、どうしたって綺麗なものなのだと面白くなった。
「ジュリ?」
「ふふ、いいえ。どの世界でも共通して、普段から見えるものが、より美しく見えるんだなあと思いまして。……わたくしの知ってる有名なものは、ですね」
「うん?」
首を傾けたシルヴィオの瞳を見上げて、思いついた言葉の一つを口に出す。
「月が、綺麗ですね」
目を見て、発音して、初めて恥ずかしくなった。
こんなに綺麗な音なのに、いや綺麗な音だからこそ、その意味を知っている分だけ自分の耳に残ってしまう。
瞬きをしたシルヴィオがその意味を問うより早く、私は目を逸らして聞こえた衛兵の声に応じる。
かっと熱くなる頰を誤魔化しながら、私は広げられた布の全てに、美しいフィレーネ王国の景色を染め上げていくのだった。
「花姫様、凄まじい働きぶりだな……」
「それにしても不思議だ、本当に景色が染め上げられるとは」
「おい止せ、シルヴィオ様に叱られるぞ」
ひそひそと聞こえる声がちょうどよく、私の熱を冷ましてくれる気がした。
そうして全ての布を染め上げた頃にはもう日が暮れ始めていて、空を照らす夕焼けと夜空に染まった半分ずつの色合いがなんとも美しい。
港へ帰る船によって揺らめく水面に月の光が反射して、その先に映るフィレーネ王国も昼間とはまるで違って見える。
「……確かに、綺麗だな」
シルヴィオはシルヴィオで一仕事終えたのか、少し疲れたような顔をして隣に立った。
「はい、綺麗ですね」
景色を眺めて至って普通に答えた私に、今度はシルヴィオが吹き出した。
「え、なんですか、一体」
「はは、いや、その」
「その?」
「……ジュリが言っていた口説き文句は、離れにあった資料に載っていたのだ」
「……な、」
そうして月の光を受けた銀髪を揺らすシルヴィオが、青の瞳を愛おしそうに細めて囁く。
「月が綺麗だな、ジュリ」
あまりに綺麗な光景にきゅんと胸が締め付けられて、その言葉の持つ意味に、より一層胸が苦しくなる。
「……っ!もう、わたくしをからかってたんですね!?」
「そういうことにしておこう」
両頰を覆って騒ぐ私と、肩を竦めて笑うシルヴィオとの二人を、フィレーネ王国に昇った月が穏やかに照らしていた。……それと、船に乗っている人々の微笑ましげな視線も。
それはまるで、嵐の前の静けさのようで。