立ち尽くす男女
「ええ、それこそがわたくしの出番です」
イグニス王国との位置関係は、すでに読んだ本でなんとなくは把握出来ている。
さすがに、国家機密に値するような詳細な海図とまではいかないけれど。
私が頭の中であれこれ考えていると、ナターシャが頰に手を添えて首を傾げるのが見えた。
「花姫様の出番、というのは……?」
ナターシャに心配そうに瞳を細めて問われるのは、やっぱりどうにも弱い。それでも今は弱っている場合ではない、ないのだ。
……それに、もしかするとこの作戦ならば誰一人として危険な目に合わせることなく海戦を終わらせられるかもしれないし。
一つ深呼吸をして、心配そうなナターシャへ敢えて微笑んで見せる。
「出番と言っても、何もわたくしが直接陽動に赴く訳ではありませんわ。……それ以前に、誰も矢面に立たせずに済むかもしれません」
「……海戦、ですのに?」
「ええ、海戦だからこそ、ですわ。」
「それは願ってもないことですけれど……」
私が笑って頷いても、尚更不思議が増えたとばかりにみんなが首を傾げている。
……まあ、そうだよねえ。私も海戦とだけ聞いたら船の上を走り回って敵の船に乗り移ったり、船同士で大砲をどんぱちし合う絵しか思い浮かばないもの。
頭の中にある内容を出来るだけわかりやすく説明しようと整理をしながら、ゆっくりと口を開く。
「まず、イグニス王国からフィレーネ王国までの航路は、位置関係からして緩やかな曲線を描くように辿っているものと思いますが、……その航路の一部にフィレーネ王国の景色をいくつか配置して、船の進路そのものを、こちらで予め指定しておいた位置へ誘導してしまうのです」
「ほお、となると。イグニスからして見れば、視認出来るフィレーネ王国を目指す内に知りもしない海域へ迷い込み、……いざ海戦を始めようにも肝心の国は見つからず、相対する船がどちらから来るやもわからない、ということになるのか」
感心した様子で頷いたアルヴェツィオに、にこりと笑って応える。
「左様でございます。海から見た景色を移した布を用意するのは、他ならぬわたくしの役目かと思いまして」
「なるほど、それで花姫様の出番、と……」
みんなが納得した様子で頷いたところで、ふと私の中に疑問が浮かんだ。
……布で誤った位置に誘導するのは良いけれど、そもそもどうやってその布を固定すれば良いのだろうか。柱を立てられる陸の上ならばまだしも、海の上には柱は立てられない。かと言って船を動かせば、操縦する人が犠牲になってしまう可能性もある。
うーんと唸って、ああでもないこうでもないと小さく呟く私を他所に、広間には男性の姿に戻ったフィルが現れて、いつの間にか青い四角をいくつも浮かべていた。
祝祭の時と同じ数のそれに向かって、立ち上がったアルヴェツィオが力強く指示を出す。
「皆、海戦に際して今一度の通達となるが、これより五日後に我が国は臨戦体制に入る。港を有する領地はただちに閉鎖、のち、皆で力を合わせて街中の建物の壁や括りつけられる場所の全てにインキで青く染め上げた布を掲げること。これは花姫様の案で、不得手な者の力をこそ借りたいとのことだ。そして五日後までに、海戦に備えた船に備蓄を積んで出航し、追って通達する位置で敵襲に備えよ」
アルヴェツィオの掛け声に青い四角の中から男女も様々な声が応えて、先程の作戦も含めた情報のやり取りがなされる。
……あれが海の上でも、労力なしで常に使えればなあ。人も船も、余計な布も使わずに景色だけを海に浮かべられるのに。
そんなことを考えている間に一瞬にして場が静まって、不思議とみんなの視線が私に集まる。
一人首を傾げた私に、聞き覚えのある笑い声が届いた。
「ちょっとフィレーネ、アタシのフィネストラを花姫様に向けとくれよ」
肩を竦めて渋々といった様子でフィルが手をかざすと、青い四角の一つが私の元へすうっと下がって来た。
「ご機嫌よう、花姫様。さっきのは良い作戦だね」
勝気に笑ったその姿は、ほんの数日前に別れたばかりのアリーチャだった。……ということは、あの四角に映っているのは全て各地の領主ということになるのだろうか。
「ご、ご機嫌よう、アリーチャ様。お褒めに預かり光栄ですわ」
「ああ。人も船も犠牲にしない為にフィネストラを海で使えれば、ってのもね。」
そう言って悪戯っぽく笑うアリーチャに、私は慌てて自分の口を覆った。
そのままの勢いでばっとシルヴィオを振り返ると、シルヴィオもまた、王子スマイルを貼り付けたまま頭を抱えている。……これはまた、間違いなくやってしまったやつだ。しかも、今回は全領地に向けて、だ。
もう遅い後悔に胃を締め付けられていると、アリーチャがなんということもなさそうに笑う。
「気にしてるとこ悪いけど、話を続けさせてもらうよ。さっきの花姫様の作戦は確かに何よりも良い作戦なんだけどねえ、精霊の力には相性ってのもあって。……海で消耗無しにそれを出来るのが一人いるが、呼びかけるにはどうしても時間がかかっちまうのさ。」
捕らわれた精霊達を救うなんて言えば喜んで力になってくれるだろうけどね、と笑って、アリーチャが肩を竦めた。
「代わりに、無人で動かせる秘蔵の小型船を出すから、花姫様が景色を染めた布で諸々の時間を稼ごう。その為にアタシも近々そちらへ行くよ」
「……!アリーチャ様、ありがとうございます。……くれぐれも、お体に気をつけてくださいませ」
「やだね、そんな顔しなくたって大丈夫よ。……でも、お気遣いありがとうございます、花姫様。……フィレーネ」
丁寧に一礼をしたアリーチャを映す四角が、呼びかけと共にフィルの合図で元の位置へと戻っていく。
「アリーチャ。私からも礼を。」
「礼なんてまだ早いだろ、アルヴェツィオ様。それは無事海戦を乗り切って、この子が産まれた時にたんまりと頼むよ!」
アリーチャの笑い声と一緒に、賛同する複数の男女の笑い声が響く。それを聞いたアルヴェツィオの目元が、不意に優しく緩められた。
「それも、そうであるな。違いない。……皆、それぞれの地に生きる民のことを、よろしく頼む」
アルヴェツィオが深々と頭を下げて、それと同時に青い四角が光となって消えていく。
「……さて。これまでの開戦の推定は七日後だが、花姫様の作戦によって精霊達を救う為の時間が稼げるやも知れぬ。」
「ええ、けれど、アルヴェツィオ様。具体的にどの海域に導くかを決めなければなりませんし……今の段階ではまだ不確定要素が有り過ぎるかと。」
「ううむ。確かに。……救い出す日を明確に何日と定めず、あちらの軍隊が位置不明になった混乱に乗じて潜入するのが良いやも知れんな。そうして精霊の解放と共に此度の戦を終える、と。……ひとまず五日後まで様子を見るということで良いだろうか」
会話をしながらこちらを振り返ったナターシャとアルヴェツィオに、私とシルヴィオで顔を見合わせてからこくりと頷いた。
「……では皆、家族や友と力を合わせ、急ぎ支度を整えよう。どうか良き花の導きが得られん事を」
広間に立つ人々に力強くそう促して、アルヴェツィオの口からこの場の解散が命じられる。
「エドアルド、並びにエミリア。……この両名のオシオキに関しては緊急事態ゆえ、一旦保留とする」
苦しげに目を細めてそう宣言すると、それを最後にアルヴェツィオとナターシャが玉座を後にした。
そうして慌ただしく動き始めた人の中で、壮年の一組の男女だけが呆然と立ち尽くしていた。