血を継ぐ子
「他でもない第一妃アドリエンヌが、昨夜、イグニス王国へと亡命した。」
衛兵のざわめきの隙間で、誰かの歯をくいしばる音が聞こえる。
そんな中届いたアルヴェツィオの言葉に耳を疑って、私は思わず前口上も無しに問いかけた。
「そんな、昨日の出来事からたった数時間で亡命などと……ただの、旅行という訳では無いのですか……」
言っている自分でも、周りの空気からお門違いな事だというのは理解出来たが、それでも問わずには居られない。
……だって、それならば、どうしてあの二人がまだ此処に居るのか。
アルヴェツィオは私の非礼を責めるでもなく、ゆるりと首を振って、それから痛ましそうに目を伏せた。
「……残念ながら。アドリエンヌはこの辺りの海図や、プリンチペッサの街の図を共に持ち去ったようだ。」
続いた言葉にはざわつく衛兵達も途端に言葉を失って、しんと静まった広間にアルヴェツィオの声だけが響く。
「アドリエンヌが亡命したイグニス王国には既に海戦の備えがある。……一王妃が亡命ともなれば、その花嫁を送った側として攻めるには又とない好機だ。」
沈む声音に誰もが近い将来を悲観して俯く中、ただ一人エドアルドだけが、ぐっと顔を持ち上げてアルヴェツィオを睨み付けた。
「母上がそのようなこと、なさるはずがありません。少なからず母上は貴方を、父上を……愛していたはずだ」
「……エドアルドよ、何故そう思う」
「でなければ、……私を産むはずが無いからです」
握り締められたエドアルドの手は、見るだけで痛いほど震えて、隣に立つアイリーンがそっとその背を支えていた。
「そうか。……確かに産ませたのは私だが、いや、この話は後にするとしよう。エドアルド、それにアイリーンとやら。お前たちはアドリエンヌと共に亡命することも出来たであろうが。何故、そうしなかった?」
「……どういう意味です」
アルヴェツィオの問いに、エドアルドが心底から怪訝な顔をした。
「言ったであろう。隣国に捕らわれた精霊を救うことへの答えを聞くと。……それがアドリエンヌの選択した亡命なのだとすれば、」
「お待ちください、アルヴェツィオ様」
並べられる言葉を遮って、今度はアイリーンが顔を上げた。
「昨日、昨日のことを、……どうかこの場より暇をいただいた後のことをお話させてください」
「……良かろう」
「ありがとうございます。……昨日は、一連の事をエドアルド様が懸命に問われても返事はなく。ずっと上の空で、アドリエンヌ様はとてもお話が出来るような状態ではございませんでした。」
そこで一度言葉を止めたアイリーンが、横目でエドアルドの顔を窺ったように見えた。
「そうして、時を改めた頃にはもうこの城のどこにもそのお姿はなく。……ですから資料と共に亡命するなどということは、わたくし達は決して知らされなかったことなのです」
「……ふむ」
「アイリーン様まで亡命などと、……っ母上が、唯一愛した父上のいるこの国を裏切る筈が」
堪え切れず、といった様子で声を上げたエドアルドに、アルヴェツィオが小さく溜息を吐いた。
「エドアルド、……私はいよいよ、お前に話さねばならない時が来たようだ。」
「……父上……何を、話すと言うのです」
すぐに怖い顔をしたアルヴェツィオに、ひどく狼狽えた様子のエドアルドがじりっと一歩後ずさった。
「フィル。……例の事柄を」
一言アルヴェツィオがそう言えば、すぐに柱の影から現れたフィルが、珍しく表情のない顔で頷いた。
……昨日別れた時のフィルの顔とは、全然違う。それだけの出来事を、この場に居る全員がこれから目にすることになるのだ。
たしかにエドアルドはいろいろと気に食わないタイプの人間ではあるけれど、……それでも、大丈夫だろうか、なんて思ってしまうほど。この光景を見ているだけで心が苦しい。
「……これよりお目にかけるは、第一妃アドリエンヌ様と我が王アルヴェツィオ様との婚礼の儀の後のことでございます」
口上を述べたフィルがぽつりと何かを呟いて、それを合図に青い四角が宙に浮かぶ。
途端にざわめく衛兵達を手振りで黙らせて、やがて静かな空間に映し出されたのは、大きなベッドで一人、青い光を浴びて眠るアドリエンヌの姿だった。
「……これは、どういうことだ……」
「この光は、眠りのフィレーネレーヴ。……エドアルドよ。私とお前の母アドリエンヌは、出会ってから一時も寝間を共にしていないのだ」
広間に響くアルヴェツィオの言葉で、不意にすっとナターシャの目が伏せられて、それと同時に映像も消え去った。
ざわめきに揺れる声は留まることを知らないようで、広間のあちこちで混乱した言葉が衛兵達の口をついて出る。
「寝間を共にしていないって……」
「わ、我が王、ということはエドアルド様は……!?」
交わされる無数の声に、全てを引き受けたアルヴェツィオが頷いた。
「かの記録を証拠として……第一王子エドアルドは、正統に私の血を継ぐ子ではない」