イグニス王国への亡命
「みんな、また明日。」
そうして私たちを送る青い光と共にフィルと別れ、その後は晩餐を一緒にするでもなくそれぞれの自室へと戻ったのだった。
ふう、とベッドで一息ついたところで、いつもならばすぐにおやすみの挨拶をして立ち去るリータが、今日は珍しく立ち止まった。
「……リータ?」
「あの、わたくし……」
様子のおかしいリータに首を傾げて問うと、蝋燭の火に照らされたリータの顔はとても赤く、迷っているような瞳が小さく揺れている。
「もう一人、花姫様がいらっしゃったと、城中で噂になっておりますが……その、わたくし、わたくしの花姫様は、ジュリア様たったお一人でございます……!」
「リータ……」
「さ、差し出がましい事を申しました、申し訳ありませ、」
「いいえ。」
「ん、……!」
「ありがとう、リータ。……とても、嬉しいです」
私が頭を下げようとするリータの手を取って微笑むと、リータは更に顔を真っ赤にして何度も何度も頷いてくれた。
花姫様の夢物語に憧れて理想を抱く少女が、今の私をたった一人の花姫様だと認めてくれたことが何より嬉しい。
……シルヴィオも、私を唯一だって言ってくれたっけ。
ふと、唯一、という響きがシルヴィオの声で思い出されて、私は思わず両手で顔を覆った。
「ジュリア様?」
「ああ、その、ごめんなさい。……急に眠くなってしまって」
「そうでしたか、お時間をいただいて申し訳ございませんでした。おやすみなさいませ、ジュリア様」
「ええ、おやすみなさい。リータ」
リータが天蓋の布の外へ出たのを確認して、私はすぐさま布団に倒れ込んだ。
……うう、顔が熱くて今にも火が出そうだ。こんな顔、誰にも見せられない。
ごろごろとベッドの上を転げ回っても、耳に残ったシルヴィオの声がいつまでも再生されて、無理に眠ろうと目を閉じれば青い瞳がこちらを見る。
……ぐぬぬ。少女漫画よ、これが恋だって言うのか。
転げ回るうち、不意に今日読んだ本の和歌が思い出された。
「思いつつ、寝ればや人の見えつらん……夢と知りせば覚めざらましを……」
小さく呟いて、それがふっと胸に落ちる。
こんなにシルヴィオのことを思いながら眠ったら、またあの夢を見てしまうだろうか。……なんて。
世界を渡って子を成したおばあちゃんは最期、一体誰のことを想って眠りについたのだろうか。
……今となってはわからないことばかりだけど。幾千年経っても、置かれた環境がどんなに違っても。人として同じような思いを抱けるなんて、ほんとうに不思議なことだなあ。
そうしてフィルが形作った女性の姿に重ねて和歌の想像をするうち、私はいつの間にか深い眠りに落ちた。
……何か、夢を見た気がする。白髪の長い髪の女性が、花畑で和歌を詠んでいる、ような。
微睡みの中でそんなことを思って、朝一で記憶を探してみたけれど、当然のように何も引っかからなくて。
完全に目が覚めた時には、もう夢を見たことすら忘れていた。
「おはようございます、ジュリア様」
「ええ、おはようございます。ブルーナ」
ブルーナのいつもと変わらぬ態度に癒されながら、朝食ときっちりとした身支度を済ませたタイミングで、ロベルトを連れたシルヴィオと、ジャンのお迎えが来た。
ブルーナが扉を開けると、その三人の横には何故かレオも居て、並ぶ全員の表情がみんなどことなく険しい。
「……何か、あったのですか」
「ああ。……詳しい話はまた後程」
私の問いに答えたのはシルヴィオで、昨日と同じくみんなで連れ立って玉座のある広間へと向かった。
いつもは静かなはずの廊下が、あちこち慌ただしい声に溢れている。
そのことを不思議に思いつつ広間へ入ると、そこにはエドアルドとアイリーンの二人が既に待っていて、玉座に座るアルヴェツィオが私たちの姿を見て頷いた。
……あれ、二人だけ?どうして、この場にアドリエンヌの姿が見えないのだろう。
見上げたアルヴェツィオの隣には憂い顔のナターシャしか見つけられず、昨日は確かにあったはずの、空席だった椅子そのものが無くなっていた。
私が声を潜めてそれをシルヴィオに問うより早く、アルヴェツィオが静かに口を開いた。
「皆、集まったな。……一つ、残念なことがあった」
王の一声で、エドアルドの顔が何故だか大きく俯かれる。
……その理由は、問わずともすぐにわかった。
「他でもない第一妃アドリエンヌが、昨夜、イグニス王国へと亡命した。」