読めない文字
「……どうして、そんな……」
その様子に私が首を傾げると、それを見たフィルがおもむろに深呼吸を繰り返した。
「花姫チャン……花姫チャンは、花姫サマのこと……知っているの?」
ぎこちなくそう問うフィルの目が、何かへの期待と、同じだけの衝撃に揺れている気がした。
「……はい。知っていると言うか、アリーチャさんとお話して思い至ったと言いますか。……でも、この本でそれが確かなものとなりました」
「そう、……そうなのね。」
ふう、と一つ息を吐いて、フィルが持っていた本を棚に戻した。
「花姫チャンの知ってる花姫サマがどんな人なのか、聞いてもいいかしら?」
「わたくしの知る花姫様、ですか。……ちゃんとしたお話はわからないですけど。わたくしが知っているおばあちゃんのお話は、」
私は小野小町の逸話として伝わるもののうち思い出せるだけの歴史を並べて、紐で綴じられた本を捲りながら最後に生没年がまるで不詳なことを付け加えた。
「生没年が、不詳……」
「はい。いくつもの伝承があって、生まれがどこだったのか、死する場所やその理由も様々で……ただ一貫して身持ちの堅さだけは共通して伝わっているようですけれど」
そう言ってふとフィルの顔を見ると、その表情はなんとも言えない複雑な色をしていた。
……今、何を考えているんだろう。
「……フィル?」
「あ、いえ、いいの。続けて頂戴」
呼びかけにぱっと表情を変えたフィルにゆっくりと頷いて、私は本の最後のページを捲った。
「言った通り伝承が一人歩きする程たくさんあるんですが、この本にもあるような、……小野小町としていくつもの名歌を残したことは、幾千年の時を経ても確かなことなのです。……でも、最後のこれはよくわからなくて」
ただ一文、最後に書き添えられたそれを指差すと、フィルがそれは楽しそうに笑った。
「ああ、それはねえ。花姫サマが元いた場所に帰る前に記していった言葉だよ。……咲いた花はいずれ散ってしまうものだけど、根を張って水を得て、幾度も繰り返し咲くように。人々の前に立つ私に、いつまでも咲きほこる花で在りなさいって。」
「……それで、咲きほこる花の名は……」
古くから和歌に記された花の意味は、その時々でそれぞれ違う意味を持つ。
季節によって違うだけでなく、前後に歌われた情景を含めてもまるで違うものになる。……でもきっと、この一文にはそれ以上の想いが込められているのだろう。
この手記は全て、まるごとフィルに贈られたものなのだと思うと、それだけでなんだか心が温かくなった。
ほっこりして思わず本を閉じたところで、私は裏表紙に書かれていた読めない文章のことを思い出した。
「……そうだ、これは何と?」
「っ……それは」
「この本て、きっと花姫様がフィルに贈ったものなんですよね?」
「……ええ、そうね。そのはず、なのよ」
「その、はず?」
再び顔を強張らせたフィルに、私はそっと首を傾げる。
「花姫サマが帰る時、私に……アタシにこの本を贈ってくれたの。いつでも共に在れるようにって。」
そうして私から紐綴じの本を受け取ると、またも複雑そうな顔で読めない文字をなぞる。
「これは精霊文字よ。……花姫サマが帰る時には書かれていなかったもの。それから幾度かこの本を開いた時にも書いていなかったものだわ」
「え……」
「今日初めて、目にしたの」
そう呟いたフィルが、ふとこちらを見た。
「わ、わたくしではないですよ!?」
焦ってブンブンと首を横に振る私に、フィルが少しおかしそうに笑った。
「わかってるわよ。……だって、どう見てもこれはアタシの大好きな花姫サマの字だもの」
「……へ」
懐かしそうに目を細めてそう言うフィルに文章の内容を問う前に、ジャンから限界の声が上がった。
「少し、休憩にしましょうか」
言われて初めて、大分時間が経っていたことに気がつく。
フィルの先導で書庫の外に出ると、降り積もった雪が消えて、代わりに辺りを夕焼けが照らしていた。
庭の池がオレンジ色の光を反射して、木の天井を影の魚が泳ぐ。
幻想的にも思えるその光景に一つ溜息を吐いて、フィルが魔法のように一瞬で用意してくれたテーブルセットに腰掛ける。
「……ここでも日は暮れるんですね」
テーブルセットのある廊下から庭を眺めてそう言うと、なんでもないことのようにフィルが肩を竦めて言った。
「花姫サマは幼い頃から情景を大事にする人だったもの。当然よ」
「……たしかに、そうでした」
ふふ、とわかり合った様子で笑い合う私とフィルに、シルヴィオが不思議そうに首を傾げた。
「その顔は、何かわかったのか?……こちらは真新しい情報は見つけられなかったが、」
「え?」
「ジュリア様が、やけにすっきりとした顔をしておられるからでしょう」
首を傾げる私にそう言って、お茶を傾けながらジャンが笑う。
「そう、ですか?……たしかにわかったことはあります、けれど。肝心の元の世界に帰る手がかりはさっぱりでした」
言いながら肩を竦めて、湯気の昇るお茶を飲む。すぐに口に広がったほのかな苦味と甘味は、他でもない。
「……日本茶だ」
「ニホンチャ?」
「私の生まれ育った場所では一般的な、……お馴染みの味なのです」
昔から和菓子が好きなお母さんと一緒に、よく緑茶を飲んだものだっけ。ちっちゃい頃はただ苦いだけで美味しいだなんて思えなかったけど。……今となっては、何よりも懐かしくて。
ほう、と溜息を吐いた私に、ニホンチャと繰り返すシルヴィオが心配そうに眉を寄せた。
「……ジュリア」
あまりにも切ない声で名前を呼ぼうとするものだから、私はすぐに慌てて違う話題を考えた。
件の精霊文字の話は、ジャンとシルヴィオの居るここではなんとなく難しそうだし。……きっとフィルのあの表情を見るに、人前では聞かれたくないことかもしれないし、ね。
うーん、何か良い話題、話題は。
……あ。
「そうだ、二人の幼い頃のお話も聞かせてください!」