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グレアムの失踪

 私はあなたに賭けてもいい。政治の世界で、事件が偶然に起こることは決してない。そうなるように前もって仕組まれていたと…

 第三十二代米大統領 フランクリン・ルーズベルト



「総理、申し訳ございません。グレアムの息子が失踪しました」

公安部長の八木沼が震える声で耳打ちすると、江田島一郎は穏やかな微笑を浮かべ、そばにあった議事録を手に取った。そして口元の動きを周囲に悟られないように隠すと、「すぐに行く、執務室で待っていろ」とだけ告げた。

来月に控える衆院選。その選挙対策を巡り召集した緊急閣僚会議。週刊誌は政権内部に流れたとされる莫大なヤミ献金の噂について書き立てていた。あの金の出所だけは言える訳がない…身内とはいえ、動揺を見せる訳にはいかなかった。冷静さを装うほどに、乾いていく喉。江田島はテーブルの上に置かれた水を口に含んだ。

「それでは、野党対策におきましては三十四ページをお開き下さい」

言われたままに手を動かすが、言葉は一文字も頭に入ってこない。

グレアムの息子が失踪した…八木沼の言葉を反芻する。

首相となって迎える初めての総選挙、よりによってこんな時期に何故だ。いつ見失った…そして、あいつは今どこにいる…何より公安は何をしていたんだ…いくつもの疑念が脳裏をよぎる。江田島は平静を装いながら、時が過ぎるのを待った。


3階へ続く階段の手前まで、政治記者たちが追いすがる。

「ヤミ献金の総額は数億円と言われています。この事について一言お願いします」

「衆院の解散は、その疑惑と何か関係があるのでしょうか」

 ノーコメントを意味する笑顔を振りまきながら、執務室へと急いだ。敷き詰められた絨毯は、海岸の砂地のようにその足元をさらっていく。踊り場で足を止め時計に目をやると、針は十二時半を指していた。昼食を抜けば、次の会議まで三十分以上ある。息を整えドアを開けると八木沼が立ち尽くしているのが見えた。一緒に入室しようとする秘書官を制し扉を閉めた。

「グレアムの息子は、いつ姿を消したんだ」

ネクタイを外しながら問いただす。

「答えろ、グレアムの息子を見失ったのはいつだ」

 江田島はもう一度声を荒げた。八木沼は何度も頭を下げるばかりで目を合わせようとさえしなかった。

「昨日までは居たんだろう。報告書にはそう上がっている」

 普段なら周囲を威圧するその体躯が今は小さく見えた。悪い予感が脳裏をよぎる…江田島は急いで本棚へと向かった。

数冊の本を取り払い、震える手で隠し金庫を開く。そして束になった封書を取り出すと、隅々まで目を走せた。詳細なレポートの末尾を締めくくる言葉。「終始一日も家から出ず」「バイトから直帰、動きなし」…気づかなかったが、数日ごとに似た文面があった。

まさか、お前ら…

八木沼は、か細い声で答えた。

「弁明の余地もございません。ただ現場から情報が上がって来るのが遅くなってしまい、このような事態を招いてしまいました」

当たって欲しくはなかった予感は的中した。

「言え。いつなんだ、グレアムを見失ったのは」

口に当てた手を震わせながら、八木沼は声を絞り出した。

「む…6日前になります」

 江田島は目の前が真っ暗になるのが分かった。

グレアムの息子が失踪して6日間…

あの怪物はその間ずっと野放しに…

汗の引かない八木沼の顔を見ていると、さらなる疑念が浮かびあがった。

「お前の所に上がってきたのは、いつだ」

「2日前です」

その顔に三十枚ほどの紙が投げつけられた。

「じゃぁ、俺の所に来ていた報告書は嘘だったんだな。それをでっち上げて、あざ笑っていたのか」

「いえ、そのようなつもりは。本当に、本当に申し訳ございません」

 八木沼は執務室の絨毯に頭をこすりつけた。

 江田島はソファーに腰を下ろすと、両手で顔を覆った。公安の連中は、いつだってこういう事をする。外に向かっては威勢がいいが、内部で問題が発覚するとすぐに保身に走る。恐らく八木沼に情報が上がって来たのは、もっと前だそれを、どうせすぐに発見出来るだろうと高をくくり、こんな事態を招いたのだろう。視線を落とすと、まだ頭を床につけたままだった。散らばった書類が、その姿を余計哀れに見せた。江田島は胸ポケットから煙草を取り出すと、火をつけた。

「もういい。分かったから、ここに座れ」

手前のソファーを指差す。こいつの茶番に付き合っている暇はない。

「いいから座れと言ってるんだ」

八木沼は何度も頭を下げながら、ようやく席に着いた。

「それで、逃亡先の検討はついているのか。最後にグレアムを内偵してた奴は何と言ってる」

「それが…その男も姿を消しておりまして」

 事態は江田島が思っていた以上に最悪だった。八木沼は、ハンカチで汗を何度も拭いながら説明を続けた。一緒に消えたのは五十三歳のベテラン捜査官だった。名前は小野寺公康。3年前の首相就任の際、この案件を秘密裏に持ちかけると、すぐにリーダーとして名前が挙げられたのが彼だった。十五年前に起きた新宿駅爆破事件では、犯行を行った宗教団体の中枢まで潜入し教祖の逮捕にまで結びつけた経歴があると聞いていた。特に盗聴に関しては卓越した技術を持ち、すぐにグレアムの住む部屋の会話を筒抜けにさせていた。『ファイルO』と書かれた報告書は、チームを組ませている他の2人よりも群を抜いて素晴らしく、グレアムのその日の行動を鮮明に浮かび上がらせていた。江田島は煙草の火を消しながら尋ねた。

「何故、小野寺とグレアムは一緒に姿を消したんだ」

 沈黙が執務室を支配する。表情から察するに、手がかりは掴めていないらしい。それに、一緒に逃亡したのが歴戦の捜査官だ。思いつきの発想とは考えにくく、準備にも時間をかけたに違いない。簡単には、尻尾を掴ませるはずも無かった。その時だった。八木沼の携帯のバイブ音が響いた。ジジジ、ジジジと執拗に続く。出ていいのか迷っているようなので、手で促した。八木沼は一礼すると部屋の隅に行き、小声で話し出す。江田島は気を落ち着かせようと、また煙草に手を伸ばした。医者からは控えるように言われているが、ここ最近は、ストレスからか本数が増えている。深い溜息とともに、火をつける。煙を吐きながら目をやると、八木沼は口を押さえながら会話を続けていたその時、一番恐れていた言葉が耳に入った。

ジクリード…

いや、間違いなくジクリードと聞こえた。すぐに立ち上がると、携帯を奪い取る。

「首相の江田島だ。ジクリードが検出されたのか」

通話相手も驚いたのか、口ごもる。

「早く言え、どこで被害者が出たんだ」

「内閣情報室の小川と申します。昨晩、東京警察病院に運びこまれた男児が2時間前に急性心不全で死亡いたしました。そして検死の結果、体内からジクリードが検出されました」

江田島は、すがるような声で言葉を続けた。

「場所は中野か。医者の口は押さえてあるな」

「はい。幸いにも運び込まれたのが警察病院だったので、スムーズに手は打てました」

「遺族の方は大丈夫か」

「医師の方から、男児には元々心臓に持病があり、それが突発的に発作が起きたと説明させてあります」

「で、被害者はどうして運びこまれた」

近くに人が来たのか、答えに間があいた。電話越しに院内放送が聞こえる。

「昨日の午後、家の近くの公園の自販機で買ったジュースを飲んだ直後から体調不良を訴え、夜に激しい嘔吐を繰り返したため緊急搬送されたそうです」

 思わず目を閉じた。想定される範囲内で、最悪の事態が起きた。

十六年前に、あいつが使った手口と同じ手法だ。あのグレアムの息子が動き出した。しかも2期目の政権運営を目指す、この時期に何故だ。このような事態を避けるために、公安に二十四時間体勢の内偵を続けさせていたのだ。電話越しに呼びかける声に、力なく返事する。

「分かった、ご苦労だった。あとは情報漏えいの回避に全力を注いでくれ」

 丁寧な挨拶の後に、通話は切れた。

 目を開けると、八木沼の顔からも血の気が失せていた。倒れこむようにソファに腰を掛ろす。頭を切り替えようと思っても、思考は一点に留まったままだった。もし犯人がグレアムなら、第二、第三の被害者を生んで行くだろう。いや、それだけでは済まない。これはグレアムの息子の再犯なのだ事態をマスコミが嗅ぎ着ければ、騒ぎ立てるだろう。判断を誤ると、政治家生命を失う事態も招きかねない。江田島は、壁に並んだ歴代総理の肖像画を、虚ろな目で見つめながら、十六年前の事件について思いをはせた。


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