5話
扉を開けるとフロントに青年が一人立っていた。身長が高くガタイがいい。受付嬢と話しているらしく、女性の声も聞こえるが彼の体で見えない。リーゼロッテは青年の隣から少し顔を出すと、女性が『あら』と目を瞬いた。話していた青年はリーゼロッテを見て驚いている。
そうなると分かっていたが、一気に視線が集まると居心地悪い。目を逸らして頬を掻きながら青年の横に立った。
「話の邪魔をしてすみません。今日予約していたリーゼロッテ・ブラントですが」
「申し訳ありません。…ブラント様ですね。ようこそいらっしゃいました。こちらの紙に氏名をお書き下さい」
「わかりました」
記入箇所を埋めて女性に渡す。女性は確認した後、笑顔で『こちらが部屋の鍵でございます』と鍵を置いた。リーゼロッテは感謝を述べながら手速く鍵を取る。
荷物を早く置きたいのもあったが、早くここから離れたかった。何故か、青年から突き刺さるような視線を感じるからだ。
「(何もした覚えはないのだが視線が…)」
出来る限り男性を見ないように顔を伏せて地面に置いた荷物を持つ。目が合ったら駄目な気がする。感じた事はないがこれが殺気というのなら大いに同意したい。これは殺気だ。殺す気だ。平和なノースレイク育ちのリーゼロッテは冷や汗をダラダラと流す。
まだ村に着いたばかりなのに幸先が悪い。リーゼロッテは駆け足と言ってもいいぐらいの足取りでその場から離れる。早く部屋に逃げ込みたい。枯れてると思っていた涙が今ばかりは顔を出しそうだ。リーゼロッテが階段を上がろうとすると、青年が口を開いた。
「ブラントと言ったか。すまないが待ってくれないか?」
「へ?」
リーゼロッテはびくりと体を震わせる。なぜ呼ばれるんだ。私は何もしていないぞ。思わず拳銃に手を添える。しかし、よく考えたら何も悪いことをしていない。会話をするだけだ。リーゼロッテはごくりと喉を鳴らしてぎこちなく振り向く。
彼は紫の瞳をしていた。蒼に縁どられた綺麗な紫の瞳だ。宝石のように揺らめいている。
リーゼロッテは青年の目をどこかで見たような感覚に陥る。つい最近だ。それなのに記憶があやふやとしていてわからない。こんなに綺麗な瞳、忘れるはずがないのに。おかしい。どこで見た? 記憶を手繰り寄せようと手を伸ばすのに、届かない。
リーゼロッテは惚けた顔で青年の顔を見る。一方青年も、リーゼロッテの顔をじっと見て、小さな声で『やはり…』と呟く。
「俺は君と会った気がするんだが、君は俺と会ったか?」
何とも不思議な質問だ。ナンパにしては拙い不確かな質問。しかしリーゼロッテは息を呑む。彼は私と同じことを考えているのだ。
『道端ですれ違った別人と勘違いしているのではないか』。
普通なら行き着くはずの答えが今回ばかりは不正解に感じる。何故かはわからない。思考はそう考えるのに、記憶が違うと訴える。じっと見つめる青年にリーゼロッテは答えた。
「会った気がする」
青年は目を伏せて静かに『そうか』と頷く。少し考え込む仕草をした後、受付嬢に言った。
「やはり昼食はここで食べる。用意してもらえないか?」
「わかりました」
青年はリーゼロッテに『荷物を置いたらレストランまで来てくれ』と言って去っていった。
リーゼロッテは彼の気配が消えるのを注意深く観察した後、大きく息を吐いた。だらりと垂れる腕に漸く自分の体が強ばっていたのだと気が付く。荒事を避けていると過剰に反応してしまうからいけない。リーゼロッテは改めて仕事は選り好みするべきではないと反省した。
「(それにしても、私と彼が知り合いである…か)」
今日初めてハスターに来てペンションに入ったのに何を言ってるんだ。と、頭のどこかから聞こえてくる。冷静に考えたら私は彼の名前も知らないし、姿も顔も知らなかった。ただ、瞳だけ印象的に覚えていた。過去にそういう写真を見ただけかもしれないし、別人と勘違いしているのかもしれない。だがそう考えると記憶が違うと主張し始める。思考と記憶の乖離がこれほどまで気持ちの悪いものだとはついぞ知らなかった。
部屋に荷物を置いた後、リーゼロッテはレストランに足を運んだ。四人席の机が十ほど並んでいる中、一番扉と厨房から遠い位置に先程の青年が座っているのを見つける。リーゼロッテはごくりと唾を飲んで、深呼吸をする。青年の視線だけが怖いと思っていたのだが、遠くから見ると更にいかつく見える。怖い。力んで固まる足を動かし、ぎこちなく彼の元へ歩く。
考え込む様子で導力写真機―――カメラを眺める青年はリーゼロッテを視認すると『早かったな』と言った。リーゼロッテは恐る恐る眼光鋭い青年に近寄り、半ばここに来たのを後悔しながら席に座る。
「来て早々呼び出して悪いな」
「いえ…」
「俺が君に聞きたいことは三つだ。それさえ答えてくれればいい」
リーゼロッテは体を固くして小さく答える。何故だろう…彼と会話すると日曜学校時代に先生に怒られていた記憶がフラッシュバックする。あくまで静かな声音で淡々と言うからだからだろうか。怖い。
質問の形をとっているが有無を言わさぬ命令にしか聞こえない。答えなければどのような結果が訪れるのか。リーゼロッテは恐怖ですぐさまこの場から逃げたくなる。彼は私の知り合いであるらしいが、だからといって恐怖が薄れるわけがなかった。寧ろ今の方が怖い。何故真面目にレストランに来たのか、数分前の自分に問いたくなった。
青年は緊張するリーゼロッテに目を鋭く尖らせる。行動から全ての情報を引き出そうとするような視線だ。絶対何人か殺してる。リーゼロッテは震える声ではいと唱える。
彼女のそんな様子に青年は少し考えて、考えて、考えて…答えを見つけたようにはっとする。何故かぺたぺたと自分の顔を触ったかと思うと納得したように頷いて、情けなく眉を下げた。後悔を顔に滲ませて申し訳なさそうに言う。
「す、すまない。仕事の調子が抜けなくて…その、怖がらせてしまったんだな。何も無いし何もしないから安心してくれ。俺は怖い人じゃない。こんな顔だが不審者じゃないんだ…!」
必死の二文字が出てきそうな勢いの謝罪にリーゼロッテは目を白黒させる。誰も青年が大きな体を縮ませて言い訳をすると思っていない。先程まで嫌という程威圧的だったのに急にどうした。別人のように謝罪を繰り返す青年にリーゼロッテは固まるしかない。脳はこの異常事態を処理しきれないようだ。
ただ、なんとなく笑みがこぼれた。処理することを諦めた笑みか、過剰に恐れていた自分自身の滑稽さへの笑みか、気を張る必要がなくなったことに対する笑みか。そのどれもが含まれているのだろうが、一番は私に心を開こうとするこの男への笑みだった。
過剰な緊張感が抜けて、同時に体の強張りも解ける。叱られた子供のように顔を窺う青年にリーゼロッテはちゃんと目を合わせて答える。
「大丈夫ですよ。私も変に怖がってしまってすみません」
「本当に大丈夫か…? 怖いなら離れるぞ?」
「話しにくいので結構です。このままでいきましょう」
「あ、ああ…」
腰を浮かして遠ざかろうとしていた青年を止めて、リーゼロッテは笑みを浮かべる。未だに心臓がどきどきするが、彼は案外可愛らしい人だ。怖がるな。リーゼロッテは彼を可愛らしいものと認識するように無理矢理意識する。
確かに彼は怖い。瞳は綺麗だが鋭いし、顔は整っているが眉間に寄った皺のせいで怖い。綺麗な金髪は短く刈り込んでいるせいか厳つく見える。体格も相まって威圧感が相当だ。雰囲気さえ違えばイケメンに部類されるのだろうが、如何せん顔面が殺人鬼じみている。怖い人ではないと自称されても信じられないし、町中で歩いていたら通報したくなる。物凄く怖い。
しかし、可愛いのだ。そうだ。可愛いのだ。可愛いだろう。可愛いんだよ。洗脳じみた思考操作でバグりそうな頭に叩き込む。かれはかわいいんだよ。
「…こほん。改めまして自己紹介からさせていただきます。私の名前はリーゼロッテ・ブラント。探偵です。依頼のために来ました。どうかリーゼロッテとお呼びください」
「俺の名前はジルヴェスター・アルムガルドだ。苗字も名前も長いからジルとでも呼んでくれ。今は休暇中だから観光に来た」
リーゼロッテとジルヴェスター―――ジルは自然と握手をする。リーゼロッテは青年の手の大きさに驚きつつ、彼の苗字に首を傾げた。アルムガルド。どこかで聞いたことがある。
対してジルもリーゼロッテの紹介に何かを思い出そうとしていた。ブラント。探偵。依頼。たった三つの単語であるのに頭に引っかかる。しかしこの少女には関係の無い話に思えたので隅に置いておくことにした。
「話を戻そう。俺は君に聞きたいことがある。今はないだろうが君も話しているうちに疑問が出てくるはずだ。遠慮無く口に出してくれ」
「わかりました」
何故そんな前置きをするんだ? 少し怖くなりつつ了承する。ジルは小さく息を吐き、目を閉じて考えた後、覚悟を決めたように目を開ける。心地よい声と共に流れる内容はリーゼロッテにとって疑うものだった。
「先ほどフロントで君は俺に会ったことがあると答えたな。実は俺にも君に会った記憶があるんだ。多分、君と同じ記憶だ。君は…昨日の記憶があるのか? いや、この村で過ごした昨日と思われる記憶はあるか?」
「…は?」
「おかしいことを話しているとわかっている。だが、答えてくれ」
リーゼロッテは考える。昨日の記憶は昼から馬車に乗って夜にホテルで寝た記憶だ。今日来たのにこの村で過ごした記憶があるはずがない。
「ないです」
「本当か? 俺が扉を開けると君が倒れ込んできたような気がするんだが、この記憶は嘘か?」
「私が倒れ…? そんなこと…」
言葉が続かなかった。確かに記憶があったからだ。
リーゼロッテはピースがはまり込んだと思った。それほどきっちりと記憶が合ったのだ。何故今まで忘れていたのだろうと思うほど鮮明に、彼とのやりとりを思い出す。そうだ。扉を開けようとして、バランスを崩して、彼に支えてもらった。そして、その後…
「……カメラ。あれ、カメラは?」
リーゼロッテはカメラを見る。手入れをされたカメラはどこも壊れていない。
「あれ? じゃあジルさんのカメラは…?」
「俺のカメラもこの通り。レンズが割れてるわけでもなければ、中身がいかれているわけでもない」
「なんで私の、割れて、使えないはずじゃ」
あれ、あれ、あれ。
おかしい。なぜ、なに、なんのきおくだ?
リーゼロッテは底知れぬ不快感に背筋が冷たくなる。カメラは壊れてないのに、私の記憶ではジルさんのレンズが壊れてた。そのあと私のレンズと交換して、形だけ元に戻した。それなのに、それなのに、なぜ。
「大丈夫か?」
「っ、私の記憶が…おかしい。なぜ? 思い出せない。何がおかしい? 何が見つからない? 思い出せない、ジルさんと会った後は…?」
「落ち着いて深呼吸しろ。まだそこまで考えるな」
「だって、ない。記憶が。あれはいつ? 今日はいつ?」
「今日は十月十二日だ。覚えているだろ?」
「違う。十月十二日は依頼人に受け渡す日だ。手帳に書いたから間違いない」
「…なんだと?」
思案するジルを尻目にリーゼロッテは手帳を確認する。六日にシモン青年が来て、七日は移動日。だから今日は八日のはずだ。それなのにジルさんは十二日と言った。言い間違えか?
「ジルさん。今日は何日ですか? 私は八日だと思っているのですが」
「俺は十二日と思っている。…どういう事だ?」
「私が間違っているのかもしれません」
「俺が間違っているのかもしれんぞ。俺も君と会った記憶以外思い出せない。まあ、確認した方が早いか」
ジルはジャケットの内ポケットから機械を取り出す。見たことのない機械だ。リーゼロッテはまじまじとそれを見ていると画面に様々な柄の四角が浮き出す。上部には数字が書かれており、『1580-10-12』と書かれていた。彼も間違っていないようだ。
それにしても…ふむ、これは小型の導力通信機か。リーゼロッテは混乱よりも嫌な予感に支配される。世間に出回っている導力通信機は家に備え付ける大型版だ。機能は通信以外無く、役所などの機関が主に使っている。あまりにも高すぎるので一般家庭には普及しておらず、勿論貧乏探偵事務所の我が家にもない。それの小型版は言わずもがな高級品であり、ごく一部の人間しか持っていない。自ずと青年の身元が見えてくる。
リーゼロッテが苦い顔でジルを見ると、ジルはこうなるとわかっていたような顔で小さく笑って人差し指を口に当てる。見逃せということだろうか。それはこっちのセリフだ。案外可愛らしい笑顔をじろりと睨む。
「お仲間さんに連絡を入れたらいかがですか? 助けてくれるかもしれませんよ」
「リーゼロッテ。俺は君と敵対するつもりは毛頭ないぞ。俺は休暇を楽しみたいただの一般人だ。仕事の話はやめてくれ」
「貴方のような一般人はそうそう見たことがありませんよ」
「し…職場にはたくさん」
「でしょうね」
リーゼロッテの冷たい一言にジルが呻く。リーゼロッテのみならず探偵業をする人間はジルの職業の人間が苦手だ。一方的に敵対してくるだけならまだしも邪魔までしてくるからだ。リーゼロッテも邪魔をされた事がある。晩ご飯はパンだけになった恨みは大きい。
「…まあ、この状況での仲間割れは好ましくありません。ジルさんは一般人ですし、邪魔はしてくれませんよね?」
「一般人は何もしない。一般人だからな。解決には手を貸してもらいたいが」
「それは勿論。帰れなければ達成できませんから」
そう言うとジルはほっとした表情で感謝を述べた。彼は表情が豊かなようだ。見てるこっちが面白い。
「これで私達が間違っていないことはわかりましたね」
「そうだな。…気持ちが悪いもんだな。無いはずの記憶を思い出すのは」
「私も同感です。どっちが本当かわからなくなる。私達は今日、その日だと思ってここに来ました。初めて来たはずです。合ってますよね?」
「ああ、間違いない。今日は八日であり、十二日だ。しかし、俺達はペンションに泊まることが出来た。君は予約を取っていたんだろう?」
「はい。今時期は繁忙期らしいので。ジルさんも?」
「そうだ。同じ理由で十二日の予約を取った。あとは現在の日にちを確認するだけか」
ジルは徐ろに席を立ち、厨房へ向かう。恰幅のいいシェフとジルが言葉を交わした後、ジルはなんとも言えない顔でレストランから出る。リーゼロッテはジルの表情から予想外の出来事が発覚したのかもしれないと顔を固くする。数分後ジルが帰ってきたのを見て、リーゼロッテは恐る恐る質問する。
「日にちが違いましたか?」
「ああ…まあ、日にちは違ったな」
ジルは難しい顔で口ごもる。顔が怖い。リーゼロッテは少し目を逸らして質問を続ける。
「何日でしたか?」
「十月三日らしい。………一五五〇の」
「…………は?」
―――三十年前?