1話
気が付けば私は玄関の前に立っていた。黒い屋根と焦げ茶色の木目のペンション。空はいつも通り晴れていて、見慣れた紫苑の花が微風に揺れている。
今までと一緒だ。きっと扉を開けると変わらぬ世界が広がっていて、変わらぬ一日が始まるのだ。息苦しさが心臓を鷲掴みにする。
―――ああ、今回も駄目だったんだ。
絶望で目の前が暗くなる。諦めろと耳元で騒ぎ立てる。繰り返す【今日】は何度目だろうか。何度初めてを経験すればいいのだろうか。
彼女本来の天真爛漫な威勢の良さはとっくの昔に消えている。終わらない悪夢に精神が叫び声を上げている。辛うじて繋がっている糸は擦り切れて千切れそうで、どうして気を保っていられるのか本人にもわからない。
膝から崩れ落ちそうになるのを耐え、喘ぐように呼吸を繰り返す。自分を鼓舞するために無理矢理声を張り上げた。
「諦めないもん」
少女はドアノブに手をかけた。
☆☆☆
朝、起きるとまず一番に冷たい水を飲む。喉から胃へ、引き締まる冷たさがぼやけた頭を覚醒させる。朝ごはんはパンと目玉焼きと一欠片のバター。ブレンドしたコーヒーには少しばかりミルクを入れ、一口大にカットした果物を皿に乗せる。
コーヒーを飲みながら軽く新聞を読んだ後、スラックスとシャツ、サスペンダーを身に着けて、革張りの椅子に腰掛ける。勿論机にはコーヒーと新聞紙。客が来るまでゆったりとコーヒーを楽しむ。
これが彼女の朝の一幕。探偵であるリーゼロッテ・ブラントの朝である。
ここで少々この町、ノースレイクについて説明しよう。
ノースレイクはその名の通り、帝都から北にある湖の周りに栄えた町である。その最大の特徴は町の中央にある大きな湖と湖を囲むように建てられた赤レンガの家だ。温かみのある家と澄んだ湖のコントラストに惹かれて訪れる者も少なくない。
ただそれ以外は特に見るべきものがない、というのが外から来た人間の感想だ。外を出れば遥かに技術が発達した街が肩を並べる中、この町は良くも悪くも昔の趣を残している。それは交通機関においても言えることで、一日に何十と行き来する列車はこの町では日に片手あるかないかほどしか運行しない。導力車が主流となった今でも馬車を使っているといえば町の様子がわかるだろう。
豊かな緑ばかりが広がる田舎。それがノースレイクという町である。
リーゼロッテはそんな平和な町で異色の探偵事務所―――平和すぎて手伝い程度の依頼しかこない何でも屋―――を営んでいた。
探偵の仕事とは依頼主があってこそ成り立つ職業である。頭と体を使い、トラブルを解決し、名声を上げる職業である。本来ならば都市にでも出てこそ生業になるものであって、平和で閑散としたノースレイクでするものではない。依頼は来るには来るが雀の涙ほどしか稼げぬ仕事が大半で、最早探偵業でなく何でも屋になっている。そんな訳で今、探偵事務所は火の車であり、閑古鳥と両手を繋いでいる状態にあった。
それでもこのノースレイクで営むには理由があった。といっても、リーゼロッテは知らないが。
今日も今日とて依頼が来ない。リーゼロッテは雑に置かれた書類の間にコーヒーカップを置き、嗜好煙草を燻らせる。苦くなった舌を甘くし、ハーブのような香りが鼻を抜けていった。
やることがない。
リーゼロッテは至極暇そうに椅子を回転させる。窓から覗く光景は相変わらず平和で、事件の影はまったくない。そういう土地を選んだのだから仕方が無いのだが、もう少しどうにかならないだろうか。この町の住人は温厚すぎる。
敢えて外に出るのはどうだろうか。いや、町に繰り出したところで何でも屋のような扱いをされるだけだ。小遣い程度の金を貰ったところで今日の食卓は賄えない。リーゼロッテは緑色の目を細めて再び煙草を燻らせる。
仕方がない。一旦営業をやめて昼食でも作ろう。どうせ食べる人間が自分一人のため、自ずと朝食と同じようなメニューになるが問題あるまい。
まあ、とりあえず煙草を吸い終わってからにしよう。湖を見ながら細く息を吐くと、背後からドアノブをひねる音がした。
「あらあら、暇そうね」
四十を過ぎているだろうか。茶髪の髪の女性が扉を開けて入ってくる。穏やかな笑みを浮かべる女性はソファに座り、机に紙袋を置いた。一連の自然な動きは彼女が依頼主ではなく、何度もこの探偵事務所に足を運んでいることがわかるだろう。だがリーゼロッテは女性に体を向けることなく、ため息混じりに言った。
「ご依頼はなんですか」
「あら、面白いことをおっしゃるわ」
ころころと上品に笑う女性にリーゼロッテは顔を顰める。煙草を揉み消して体を向けると、想像通りの女性―――リーゼロッテの母であり探偵事務所所長であるカミラ・ブラントが座っていた。
「久しぶりね、リーゼロッテ。お仕事頑張ってるかしら?」
「生憎ノースレイクは平和でね」
「素晴らしいことね」
商売あがったりなのに何を言っているんだ。リーゼロッテはじっとりと睨むがカミラは再びころころと笑う。よく笑う女性だ。そういえば母はよく笑う人であったか。忘れていた。
母、カミラは放浪癖がある。リーゼロッテが幼い頃からの悪癖で、彼女が町の住人に探偵事務所所長と勘違いされているのはそのせいである。
母の旅は町の中で収まることもあれば国外まで足を伸ばすこともあるらしい。ふらりと姿を消したかと思えば数ヵ月後に土産を持って帰ってくる。止めたところで直らないため、ここ数年はもっぱらの放置である。
一応探偵業を営んでいる母なのだが、私は彼女が依頼されているのを見たことがない。私が知らないところで受けているのであれば安心するのだが、そんな様子は一切ない。せめてノースレイクより帝都にすれば自ずと依頼数は増えるはずなのだが…と意味もないことを考えて、リーゼロッテは頭を振った。我が母ながら母のことはわからない。収入源もわからない。
コーヒーカップにコーヒーを注ぎ、カミラの前に置く。母は甘党だったような気がする。冷蔵庫から牛乳を、砂糖も瓶ごと持ってきて机に置く。ある種の嫌味を込めての行動だったが、母は『そういうところが好きよ』とにこやかに笑い、零れんばかりに砂糖と牛乳を入れた。なんと意地の悪いことか。香ばしい香りを放つコーヒーは香りと熱を失い、最早コーヒー風味牛乳となってしまった。満足げに飲む母に溜息をつく。砂糖牛乳にコーヒー豆を持ってくればこのような悲惨な光景は見ずにすんだのだろうか。
「今までどこにいたの?」
「あら、母を案じてくれるの? 珍しいわね」
「残念な事に母さんが収入源だからね。財布が寒くなるたびに考えていたよ」
「うふふ。母冥利に尽きるわね」
「で、今までどこをほっつき歩いていたの?」
「観光名所を」
「……仕事だよね?」
「やりがいのある仕事だったわ。今度一緒に行きましょうね」
冗談に聞こえない声音でカミラが言う。冗談じゃない。誰が親子で化石発掘に勤しまなければならないのだ。紙袋に入ったアンモナイト化石発掘セットを尻目に『絶対行かない』と宣言する。はっきり言わないと後に困るのはリーゼロッテだ。以前言葉を濁して誤魔化したら国外へ連れ回された。ただの旅行だった。リーゼロッテとカミラしか探偵事務所のメンバーはいないのに二人して空けたら依頼が来ないではないか。旅行に行くなら食費が欲しい。
「…とりあえず昼食にしよう。母さんも早く着替えてきなよ」
「私も手伝うわ」
「臭うから風呂に入ってきて」
「あら、冷たいのね」
ころころと笑いながらカミラは部屋を出る。通過儀礼となった掛け合いは初めて聞く人間からすれば冷たい娘と優しい母の会話に聞こえるが、実の所そうではない。現にリーゼロッテは普段の昼食よりも豪華にしようと算段を立てている。カミラも気にする様子もなく荷物を置きに行く。ただ、親子の距離感を忘れたが為の言葉の掛け合いであった。
さて、何を作ろうか。伸びをしながら玄関に向かう。プレートをCLOSEにしなくとも客は来ないが一応の礼儀だ。脳内でレシピを探しながらプレートをOPENからCLOSEに変える。
その時だ。不思議な依頼人がやってきたのは。
この世界の煙草は依存性や発癌性が無い煙草です。甘かったり酸っぱかったりするのでお菓子に位置付けられます。香りを楽しむ嗜好品としての煙草は嗜好煙草と言われます。