綴る二重夜天
埃くさい。
そこは誰も整備してくれはしない、静かというには寂れすぎた図書館。
埃は積もり、蔓も窓を割って堂々と侵入している。その本の嘆きは誰も聞いてくれはしない。まぁ、一人聞く物好きがいたが。最後の最後までここにいた本好きのシャレコウベである。
しかし、その頭蓋骨は幾年か昔より動こうとはしてくれない。生臭なのだ。本の嘆きを聞いても、天空よりおりて来る事だけはしない。出不精な奴だと本が罵っても、唯静かにそれを聞くだけであった。
その本は、少なくとも人の手が届く高さにはない。どこの阿呆が作ったか、八メートルを優に越した本棚の、最も上の段に入れられた本の殆ど、朽ちて落ちたりすべり落ちたり。何はともあれ、いまやその本だけになっていた。
名を"夜天"。数百年も昔、幾人もの物語る者が綴り、果てていった本であった。
呪いの本であった夜天は、次々に物書きへ移り、そして書きたい、という衝動を生ませる者であった。否、呪いと言うのは可哀想にすぎるか。唯、祈りが強く篭り、過ぎただけであろう。
要するに、夜天とは一人の物書きが完結させられなかった作である。執念、後悔、悔やみ諸々。全てひっくるめ、一つの神が宿りし本だ。
完成せし神が宿りしそれ、夜天は。一時たりとも同じ物語ではない。常に宿りし神が傑作を綴って行くのだ。幾度も神を宿らされた神束は、何時しか自らも物書きになった。それでようやく完結まで漕ぎ着けたのだ。
惜しむらくは、そこな本好きのしゃれこうべが神を宿し終わってから、誰一人として読む者がいない事か。
本は嘆くが、神が宿りても紙は紙。所詮動けぬ物なれば、どうする事もできなかった。自ら読まれにいくのは本の仕事ではない。本を売るのは本屋、本を読ませるのは物書きだ。どちらにせよ、夜天に手段はなかった。
『誰ぞ、読んではくれぬか』
遥かな夜天に問いかける夜天に、返す物はいない。風に吹かれてギィギィ鳴く古扉が、己は聞いていると言っていた。
本は暗闇で絶望していた。
本は聞いてくれぬと分かった夜天に、尚も問いかけた。
『誰ぞ、我を本にしてはくれぬか……』
それは本として切実な嘆きであった。
本は読まれずして本とは呼ばれぬ。読まれてこそ、ようやく本と呼ばれるのだ。天空を舞い見られぬ絵が絵と言えぬ様に、本の海に沈みし夜天は、本とは呼べぬものであった。
静かに嘆く夜天の声は。
しかし、どこにも届かず、無意味に朽ちた。
初めて純文学っぽいものを書けた気がします。
が。正直、自分で書いててよく分らなくなったっていったら、怒られてしまうのでしょうかね?(笑)