第30節:問答
コウが自分の工房に帰るのに、ハジメは黙って着いて来た。
中に招いてドアを閉めると、明かりがつく。
ハジメが、何も言わないままドアの脇に立つ横をすり抜けて、コウはインスタントコーヒーを二つのカップに注いでそれを手に振り向いた。
入り口に立っているハジメに、応接用の椅子に座るように促す。
「……何故、俺を助けた?」
ハジメがコウの勧めに首を横に振って入口の横を動かないまま訊ねるのに、コウも椅子に腰掛けずに答えた。
「あなたが、姉さんを救ってくれたからです」
「俺は殺しただけだ」
ハジメは、感情の読めない声音で言った。
「もう、俺に関わらない方が良い」
「何故です?」
「指名手配され、人を殺し、司法局に追われている俺と関わりがあると知れれば、君も拘束される」
「バレなければ良いでしょう。ジンさんがそう取り計らってくれています。……座って下さい」
ハジメは溜息を吐き、ようやく工房に入ると椅子に座った。
「本音を言うと。俺は、貴方に頼みたい事があるんです」
「聞こう」
ハジメは即座に答えたが、コウは逆にその言葉を口にするのを躊躇った。
「ハジメさん。俺は、非適合者です」
「……ああ。知っている」
答えるハジメの声音は、少し柔らかくなった。
彼は他の人々と違い、非適合者であるコウを肯定しているように見える。
だが、コウにはその理由が分からなかった。
「何で、貴方は装殻適合者を疎むんですか」
「……どういう意味か、よく分からないが」
コウの問いかけに、ハジメは僅かに首を傾げる。
「装殻を作り出して世の中に広めたのは貴方だ。俺は、それに関する恨み言を言う気はありません。度重なる戦乱で疲弊した日本を救ったのは、確かに貴方が作り出した装殻だったからです」
ハジメは黙ってコウの話に耳を傾ける。
「でも、装殻を生み出した筈の貴方は、装殻に対して否定的なように見えます。人体改造技術の秘匿にしてもそうだし、装殻を纏えない俺に対して好意的な理由も分からない。そして、追われている事が分かっていてなお、この街を離れない理由も」
「理由については、君も知っているだろう?」
ハジメは、ごく普通に答えた。
「君の姉を利用し、死に追いやった連中に報いを受けさせる為だ。それに、Egの事も解決していない。ミスター・サイクロンとシープを殺すまでは」
「貴方に、そこまでする理由はない筈です」
コウは語気を強めた。
「ハジメさんがEgを作った訳じゃない。姉さんを殺したのだって、他に救う方法が無かったからだ。貴方は何故、貴方を追う人々の為にそこまで頑に逃げようとしないんですか?」
「ベアーも、同じ問いかけを俺にした。答えも同じだ。それが、必要な事だと思うからだ」
ハジメの言葉には、まるで躊躇いが無い。
「誰かがやらなければならない事で、俺には為す力がある。他に理由が必要か?」
「力があるから悪を倒して。その結果が、指名手配ですか」
「人々の選択は関係がない。コウくん。俺の行いで人々が、君が、平和に暮らせる事そのものに価値があるんだ」
「その平和の中に、貴方自身はいない! 人々の為に敵を殺して、それで貴方は、何が得られるんですか!」
コウは、自ら修羅道を歩む彼に対して、遂に声を荒げた。
ハジメは黙した。
言うべき事を考えているように見える。
「もう一度、聞きます。何故、俺達の為にそこまで奴らを追おうとするんです。あなたにとっては、大した相手じゃないでしょう。『黒殻』の総帥である貴方にしてみれば、ミスター・サイクロンなんて権力を使えば叩き潰せる程度の存在じゃないんですか。何故、自分の手でやろうとするんですか!」
「……それが、力を持つ俺の、存在理由だからだ」
ハジメは、遠い何かを見るようにコウを見ていた。
「人の手に任せる事はしない。自らの手で苦しむ人々を救う事が、俺に与えられた責務だ」
コウは、体から力を抜いた。
この人は自らを犠牲にして、人の為に力を振るう。
どれほどの疑問を投げても、揺るぎなくそこに在る。
「……俺には、貴方が眩しい。力も、頭脳も、人を思いやる心までも持ち合わせている貴方が」
コウが震える声を吐き出すと、ハジメは首を横に振る。
「俺は、そんな大した人間じゃない」
「俺に力があれば! 貴方の手を汚させる事はなかった! 姉さんだって、俺の手で殺せた。せめて俺に、力さえあれば!」
体の脇で拳を握りしめるコウを、ハジメが痛ましそうに見てくる。
「……力を持つ事が、そんなにも良い事だと、俺は思わない」
「力がなければ、何も出来ないじゃないですか! 見て下さい、俺を! 何も出来ない俺を! 俺は!」
コウは、自分の胸に叩き付けるように手を当てる。
「俺は……自分の力の無さが憎いんです……」
そう呟き、コウは自分が口にしようとしていた言葉を、ようやく口にした。
非適合者が、唯一装殻を纏えるようになる方法を。
「ハジメさん。俺に、力を下さい……誰かを救える力を」
「……コウくん」
「お願いします。俺を、人体改造型装殻者に―――」
コウは、懇願した。
「【黒の装殻】に、して下さい……」
コウの震える声に対して、ハジメはあくまでも静かだった。
「……その選択は、君が、君自身を殺す選択だ」
ハジメはコウの言葉を否定した。
「俺は君に、そのままで居て欲しいと思う。人体改造型になれば君は、やがて闘争の中で死ぬ事になる。それでも、力を望むのか?」
彼の声が、鋭さを帯びた。
「人を殺す、力を」
「―――ッ!」
「守る為に振るう力であっても、それは暴力だ。加減を誤れば罪の無い者も殺し、守る為に敵を殺す力だ。そんな血塗られた力を、君は望むのか。今在る平和と引き換えにする程の価値があると、本当に思うのか?」
コウは、答えられなかった。
人を殺すどころか、彼は他人に暴力を振るった事さえない。
それでも。
「それでも……俺は。もう、誰かが不幸になるのをただ見ているだけなのは、嫌なんです……」
涙が溢れそうだった。
今、このタイミングで。
シュリが死んだ悲しみが、彼女の生前の笑顔が、何で浮かぶのか。
装殻者になんかならなくても良い、と。
そうコウが言った時に笑ってくれた姉の顔が、何故今、ちらつくのか。
「……もう一度、よく考えるんだ。俺は君に、そのままで居て欲しいと。心の底から願っている」
ハジメが立ち上がった。
「教えてくれ。君はジンから伝言を受け取っている筈だ。俺は、何処へ向かえば良い」
コウは、うなだれたまま、力なくジンからのメッセージを伝えた。
ハジメはそのまま出て行き、コウの脳裏にフラッシュバックするのは、闇夜に浮かぶ光景。
路地裏で。
ビルから逃げる途中で虚脱状態になったアヤを背負い、汗まみれになって歩きながら見上げた空に。
満月を背景に、遠いビル群を足場として、黒の一号とそれを追う白い装殻者が跳び回っているのが分かった。
彼らを暗く澱んだ目で見たコウは、己の無力さに絶望しながらしばし彼らの消えた空を眺め。
遠くから響くサイレン音が近づいて来るのを耳にして、再度足を動かし始めた。
見つかる訳にはいかなかった。
発見されてしまえば、逃がしてくれた黒の一号の厚意を無駄にする事になる。
足は重い。しかし、歩かなければならない。
夜の闇に火花を散らす彼らと、湿った空気の中で重い足を歩くしかない自分。
そこにある、途方もない隔たりは何だ。
人を背負って歩く。たったそれだけの事すら、自分は満足に出来ない、とコウはその時、奥歯が軋む程、顎を噛み締めて思ったのだ。
力のない自分が、途方もなく憎い、と。
コウは、ハジメの背中を追って、工房を走り出た。
彼は既に漆黒のバイクにまたがり、エンジンに火を入れていた。
「ハジメさん!」
呼び掛けるコウに、ハジメはミラー越しに目を向けたようだが、そのままアクセルを吹かす。
その音に負けない声で、コウは吼えた。
「俺がもう一度考えて、本当に力を望んだら! 貴方は応えてくれますか!?」
その呼び掛けが聞こえたのか否か。
ハジメは、そのまま地面にタイヤの残痕と甲高いエンジン音を残して、走り去った。




