03 私。大人の、女。
滑落、そして軽やかに岩棚にスタッと着地。
我が国古来のハイスペック・マスターニンジャでは無い。そんなこと出来るはずも無く、どこかに何かが引っかかって、かろうじて生存。
おそらくジャケットの袖、脇口に下から突き出した岩が嵌まっている。運が良い。左腕の布だけで崖から滑り落ちることを防いでいる、そんなラッキーかつ危機的な状態だ。
「ミギノ! 大丈夫か!」
エルビーの声がする。どうやら大して落ちなかったみたいだ。
(しかし、下は見れない。私は岩肌にへばりついているが、足が地に着いていないのだから…)
イコール?
そう、この左袖口がビリリといけばおしまいだ。
呼吸は最弱。自力で支えている手は汗ばんで滑る。左袖口の引っかかりが無ければ、右手は滑って意味が無くなるだろう。ここには、クライマーの為の手に付ける滑り止めの粉粉は無いのだ。
(助けて……)
なんて思っているが、大声は出せない。
空から落ちて、どうにもならなかった時とは違う、助かりそうで助からなさそうなこの恐怖感。
(やっぱり、気絶無理。都合よく気絶無理。せめて小声でエルビーに生存を、)
ーー伝えなければ。
『た、たすけ……』
[*****! *********!]
突然、騒音と共に声がした。思ったよりも近くで声が。しかし、振り返ることなど出来ない。私には今、落下した時の悲鳴と情景しか頭には浮かばないのだから。
(消しても消してもネガティブな、シミュレーションだけは何度も何度も現れる、)
ネガティブに対抗できるのはポジティブしかいないのだが、ポジティブ恋愛ゲームで培った脳内のステキな彼氏が肉体を持って実体化し、何処に持っていたのか長いテグス紐でくるっと助けてくれる、そんな奇跡は訪れはしないと、最終的にはネガティブとなって返ってきてしまう。
ーーだから、妄想している場合では無いのだ!!
(ピンチ、ピンチ。絶体絶命)
焦れば焦るほど、くだらない事ばかりが浮かんでくる。
これはけして、テストや仕事の時に、注意力散漫、集中力が途切れる駄目な子ね、の、あれとは違う。
だって、死にそうなのに、それに対する恐怖だけに、集中力を持続したくはないじゃないか!
(待てよ、声?)
そうだそうだ。ここ、ファンタジーワールドでは無かった。そうだよ、ケモミミ様は、異郷地域の結界の中に存在したって、さっき結論づけたじゃないか。
現実、現実。
リアルレスキュー隊が存在するのだ。
ドローンが空を滑空する時代。
山に引っかかる私をピンポイントで発見。
優秀な山岳救助隊が救助に来てくれたのだ。
「動くな!」
「分かります。私、動くな」
背後から鋭い注意を受けた。これを言われたら、本当に動くなとフロウ・チャラソウ様が真面目な顔で何回も言っていた。
(というか動く気は無い。むしろ動けない)
バサリ、バサリと騒音が聞こえる。
ヘリ? ドローン?
ちらり、首をずらし、目線を壁から横へ、慎重に。
何か、黒い物が上下に。
最新式の救助ヘリ?
(音が遠ざかっていく…。待って、今の、確認だけだったなんて、ヤメテ……)
ドローンだけでした。
音声機能装備してました、なんて。
これから救助チームを組んで、登山を開始します、とか。
ぬか喜びは、ヤ・メ・テーーーー!!!
ーーーーゴォウ!!!!
『ウギャ!!!』
〈******、******〉
(た、…助かった…?)
男性救助隊が、まさかのすり抜けながらのかっ攫いを実践。
きゅん。
これはきゅんとする。男らしい腕に巻きつかれてきゅん。しかし、荷物のように担ぎ上げられていることは仕方が無い。お姫様だっこなどの要求は厚かまし過ぎる。が……。
最新式の救助ヘリ?
肩に担ぎ上げられている私は正面が見えない。ヘリの後部座席が見えるはずなのだが、座席?
(あれ、何だ? ……鳥のシッポ? いや、ウナギのシッポ?)
黒い物が、青い空にふりふりしている。
「ミギノ!!!」
(あ、エルビーだ! ……はぁ、よかった……)
本当に、助かったのだ。
地上にエルビーとイグくんの姿が見えた。安心すると高低差に意識は遠のくが、やはり気絶なんて繊細なスキルは発動しない。
他にも数名……? なんだ、あれ。大きな黒い塊が、三つ。
(最新式のヘリ……生っぽい……)
私を救助した山岳救助隊員は、なんと私を憧れのお姫様だっこへ持ち直す。
顔を見る。
おお、やはり顔の彫りは深い。日に焼けた肌、赤茶髪、金色の瞳、涼しげな顔立ちの美青年。
(しかも、赤道国民の様な長いギチギチの三つ編みが、カッコイイ!)
目が合う。どきん!
〈***********、*******?〉
「ミギノを離せ!」
はっ、そうだ、そうだ、エルビー居たんだ。大丈夫、大丈夫。私は無事に生還致しました…って、おい。そうだよ。元はお前の所為じゃないか。
まあ、いい。彼には返しきれないほどの恩がある。私は過ぎたことは蒸し返さない、大人の女である。
「エルビー、大丈夫、私、大丈夫」
にこり。
(あれ、)
気が抜けた。
力が抜けた。
涙出た……待てよ。
「……」
ヤバイ。マジヤバイ。
足の力が入らない、きっと腰が抜けているのだ。きっと。
(気のせいかな? お尻が、温かい)
〈……〉
お姫様だっこ。憧れのシチュエーション。
オシャレメンズの顔を見上げるワタシ。
オシャレメンズがワタシを見下ろす。
彼は両腕に抱いた、ワタシのお尻の下を支えていた腕を、おもむろに掲げた。
(高い)
そう、やはり彼も背が高い。持ち上げられた私は、山岳救助隊員の目線まで上げられた。そして、屈辱にも下から尻を覗き込まれたのである。
十九の女性にする行為では無い。
通常であれば、断固抗議すべきことなのだが、今は通常では無い。何故ならば。
(何故ならば……?)
乳幼児が社会へ出る為の一つに上げられる、重要なトレーニング。大人としては不可抗力。体調不良が主な原因に上げられる。
(そう、これは不可抗力)
山岳救助隊員は私をそっと降ろしてくれた。意外にも腰は抜けてはいなかった。走り寄るエルビー。しかし、私はそれを片手で制する。そして彼の袋から数点着替えを取り出し、心配したままのエルビーを見上げる。
『大丈夫。本当に大丈夫。』
黒くて大きな生っぽいヘリの事など、どうでもよくなった。
私は他の救助隊員を横目に、クールに最寄りの藪の中へと歩み進む。そして人目が無い事を確認し、半パンツと下着を素早く履き替えた。替えは一枚ずつだが持ち歩いていたのだ。もちろん山に登る前に、エルビーが揃えてくれた。
ありがとう。エルビー。
藪から出て来た私は、何事も無かった様にエルビーとイグくんの隣に立つ。右手には小さくコンパクトにたたみ込まれた洗濯物。もちろんスキニータイツとパンツは、厳重に内側に巻き込んである。それらの被害は特に大きかった。
救助隊員の皆さんは、顔を見合わせてこそこそ何かを話している。
分かっている。
やってしまったのは私だ。
それを否定するような事はしない。
潔く認めているのだ。
それ以上、非難の目を向けるのは止めてほしい。
程なく私が粗相をしてしまった隊員が、エルビーに何かを話しかけた。
構わない。
彼は私の保護者なのだ。
今さら、粗相の一つや二つ、保護者に報告されることに反論は無い。
その後私達は、救助隊員の皆さんに連れられて山を降りた。途中、木の実摘みに出かけていたアピーちゃんとヤグくんも無事合流。何故か私達と一緒に居たはずの、くろちゃんとぷるりんも彼らが連れていたが、まあ、合流出来たのだから良しとしよう。
そう、私は大人の女である。
過ぎたことは気にしないのである。




