10 思惑 10
トライドの東地区。その日、フォーベルト伯爵邸は異様な光景だった。枯れ草色のファルド帝国の軍人が、我が物顔で邸内を出入りしている。町の人々は遠巻きにそれを眺めていた。
「ミギノを逃したってな」
背後からかかる不躾な問いに、エスクは無表情で振り返る。悠然と門から侵入してきた者はステル・テイオンだった。エスクと同じ階級の同僚。今は第三班の班長としてエルヴィーを追っていたが、同じくそれを追っていた第一班より少し遅れて合流した。
平然と歩いているが、エルヴィーに踵でやられた肋骨は今も完治してはいない。
「失策だった。まさか白狐が、確保したミギノを奪いに来るとは予想していなかった」
珍しく苦虫をかみつぶしているエスクの背後には、塊になって兵に簡易毛布を支給されている少年少女達が踞る。
「まあ、彼等の救出に間に合って、よかったじゃないか」
「奴隷保護法の限界を感じる。これは氷山の一角だろう。一軒一軒馬鹿な貴族の屋敷に踏み込む、暇も労力も無い。これは偶然の産物だからな」
それにファルドで貴族院の判決が下るまで、フォーベルトは現状伯爵のままなのだ。グルディ・オーサのリマのように、今回は即爵位の剥奪では無い。
現行犯ということで、大聖堂院の介入を防ぎはしたが、即剥奪の権限を持っている者は公爵位を持つ団長以上が、貴族院の承認を得ている場合のみなのだ。
この間に、ファルド帝国内のフォーベルト一族は財産を何処かに隠したり逃亡を図っているだろう。犯罪者の莫大な財産の、国庫への回収分が減ってしまうのだ。金銭を大切にしているエスクには、それも憤る理由の一つではあった。
(内情を軍が掴んでいれば、ファルド帝国のフォーベルト一族と一斉に抑える事が出来たのにな…)
逃した金銭の概算をエスクが脳内でしていると、遠くで爆発音がした。
「なんだ、」
程なく各方面から不審者の知らせが入る。それは、黒髪の少女が連れ去られる内容を含んでいた。
******
ーーぬるり。
ーーホワイ?
少女の手刀が瞬時にソーラウドのこめかみを叩き付けたが、それは男の大きな白い手に阻まれた。
色気の無い少女の抵抗に、ソーラウドはこれが処女かと初めて納得すると、いやらしく見せつけるように離した白い唇を赤い舌で舐め上げる。
そして少年のように笑った。
(くそ。)
オルディオールは、ぐいぐいと袖で何度も桜色の唇を拭う。そして、自分の中に内在する黙したままのメイの出現を願ったのだが、少女の反応は全く無い。むしろ初めて強靱な精神力で、入れ代わりの拒絶をされた気がした。
(おまえの身体のことだってのに。なんで表に出て来ないんだってんだ! 気色の悪い!)
メイは黙したまま考える。
(スキル〔自己逃避〕発動。そして流れるように自己防御システム〔妄想〕連鎖発動。成功)
**
(なんか、あんまり……)
漫画やドラマでは、キッスってもっとぶちゅっとなったその時から、すぐにいやらしくアハンウフンな雰囲気なのに、なんか、あんまり……。
エロスと恋愛は奥深い。
それをたった一コマで気まずいエロさを表現し、その後の性的描写まで連想させる漫画は、我が国における最大級の精神破壊兵器と呼ぶに相応しい。
江戸時代における浮世絵、そして漫画。
ある意味世界遺産である……。
そう、つまり何が言いたいかというと。
キッス。
ムードとやる気が無いと、ただなんか、ぬるっとしただけだった……。
おい、待てよ。
これ、私の初キッス?
イヤイヤイヤイヤ。
『…………』
いやいやいやいや! ノー・カウンッ!
これは絶対にノー・カウント!!
(ムリムリムリムリ。しかも何故、初めてがビーエルの狭間で、本人の意思とは無関係のままに終了されなければならないの?)
私は男同士でのアハンウフンな状況に、涎を垂らすことが出来るほど、熟成発酵した女性の人格形成には至っていないのである。
(あれ? 身体は私だよね? ならばこれって、ティー・エール?)
今や神聖なるキッスがべろちゅーなのはマストである。
ディープ、フレンチとはあえて口にはしないのである。
(口内キッス……十九の冬……)
だが、私の意思とは無関係である。
**
唇が赤くなるまで拭うと、オルディオールはソーラウドを睨みつける。いや、情けないが睨み上げた。身長が足りないのだ。オルディオールが騎士団に居た頃にも、軍の中には同性同士での付き合いのある者はいたが、それは少数派だった。
(改めて新境地を切り拓こうとは思わない。否定もしないが、肯定もしない)
何故かテルイドは温かい目でこちらを見守り、アルドイドはホわぁと口を開いたままだ。
「!」
(まずい、)
オルディオールは辺りを素早く見回す。少年のようなソーラウドを放置し、エルヴィーが居た付近に目をやった。
(危なかった)
壊れた塀の隙間から覗き込むと、エルヴィーは獣人達と猫に餌をやっている。
(今の事故現場を覗き込まれて、ソーラウドを殺されてはここまで来た事が無駄になる)
オルディオールはソーラウドを振り返り、再度袖口で口を拭うと静かに言った。
「シオル商会へ連れていけ」
***
ーーートライド南。とある貴族の屋敷。
くちづけをした後の少女は、可愛かった。
(まさか、これも初めてなのか?)
少女は飛び下がると、辺りを見回してきょろきょろしている。そして恥ずかしがって何度も口を拭い、擦れて赤くなる。
傷になるかもしれない。
それはソーラウドが残した痕になるのだ。
傍で見ていたアルドイドが「やっぱり仔猫みたい」と、笑って馬鹿にしたが、それさえも何だかくすぐったい気持ちになった。
死ぬ前に、新しい感情が手に入った。
そう思った。
「だから忠告したんだよ」
シファルとの約束の場所に着く間際、突然男達に拉致された。もちろん大切な少女とも引き離された。これはシファルの使いだと理解して、情けないが連れの者の解放を願い口にする。
意識がなくなると戻される。何度も何度も酷く暴行を加えられたが、それは何故か突然終わった。引きずられて部屋を移動し、膝裏を蹴られて足をつく。目立つように伸ばしていた白い髪を掴まれて首を上げ、腫れた目を開くとシファルが立っていた。
「大切な者が出来ることは良いことだ。たが、それを弱点とするような弱い者では何も成せない」
シファルは相変わらず優しい笑顔でソーラウドを見ている。彼の父親も、同じ様な顔、同じ様な表情で初めて出会った幼いソーラウドを眺めていた。
(…………)
確かに、軍の予定外の介入以前に、ソーラウド自身に大きな油断があったのだ。
珍しい玩具が手に入ったばかりの浮ついた気持ち。それが仕事に対する周到さを欠いた。
「だけどね。大切な者が居ない者には、何を成せても信用が無い。信用が無い者は仲間には出来ない」
両脇に立っていた男達が、二の腕を掴むと上に引き上げる。ソーラウドはふらつく足に力を入れ、正面のシファルに身を正した。
(……え? なんで?)
シファルの横には、何故かミギノが居てこちらを見ている。その表情は相変わらず生意気で、散々に痛めつけられたソーラウドを見ても、悲鳴を上げて心配するどころか顔色一つ変えなかった。
だが、無事だった。
シファルに会いたがっていた少女は、ソーラウドの願いが届いたのか傷一つ付いてはいない。
「今回の失敗、君の命一つで済むとは思っていないだろうが、生憎、私には死体を収集する趣味はないんだよ。大聖堂院とは違ってね」
それは理解していると、ソーラウドはシファルに頷く。
「それに、君が彼女や部下の命乞いをするとは思わなかった」
最大級の侮辱だが、発言を撤回する気は無い。それを見てとったシファルは軽く顎を上げた。
「新しい依頼を受ける気持ちはあるかい?」
足りない命を差し出していたソーラウドは、シファルの意外な一言に目を張る。
「この依頼を受けると、今までの様にはいかなくなる。それでも受ける?」
「別に何であろうと構いません。俺は流れに乗る」
シファルは頷き微笑んだ。
「では私が持っているファルド国内の権利を、君にあげるよ。使えないとは言わないよね」
ソーラウドは赤い目を見開いた。
そして息を飲んで呼吸を整える。
「もちろんです」
力強く答えを返す。
「それによって、シオル商会へ正式に入会してもらう。辞める日は、もちろん死ぬ日だ。そして同じ日に、君が手にした大事なものを全て失う」
「惜しくはありません」
「惜しくなるものを得たから、この会に入れるんだよソーラウド。惜しむ柵みの無い者は、シオル商会には入れない」
「……?」
「金、地位、名誉、こんな当たり前の柵みではないよ。今さっき、君が命乞いしたものが力となり、本物の枷となる」
「命乞い、」
「部下の命、恋しい女、大切な家族、君がシオル商会を辞める日は、その全てを不幸にし、失うという事だ。誓約してくれるかい?」
**
この日ソーラウドは、ファルド帝国内におけるシオル商会の全権を任された。文字通りの昇格である。つい最近、物珍しさから頭が一つ出たばかりの新参者が、一気にファルド国での裏の頂点の座を委譲されたのである。
シファルとソーラウドの誓約の場を、黒髪の少女は腕を組んで見つめていた。




