07 来る。きっと来る。
私は悪だ。
ある宗教では、人間とは原罪を持ち、生まれた時から罪を背負うということらしい。
私はその宗派の者ではない。そして盆暮れ正月メリークリスマスを企業戦略として乗りこなすことを、海外の人々からは無宗教と揶揄されるのだが、土地神様の御守りを毎年新調して身に付けている、一般的かつ立派な宗教信者だと自負している。
しかし、宗教は違えど、我が国にも悪はもちろん存在する。
その悪の一人が私。
ケガレ・ハラエ・タマエ。
つぶらな瞳、可愛い声で「にゃん」と鳴き、傷つく私を癒してくれたこの猫を、悪党の私は生贄に差しだそうとしたのだ。
今思うと、胸が張り裂けそうだ。
私に両手を広げ、首筋に顔を寄せてくれた可愛い黒猫。実は私、白狐面の医師達のテンションがただ下がりなのを良いことに、この黒猫で、奴らの注意を引こうとした。
野良でもたまにいる、警戒心の薄い猫。
餌を与える人間は、良い人か悪い人かは人間から見ても判断が難しいのだが、猫はそんなことお構いなしでニャンしてしまう。
無防備な野良猫を見ると不安になる。
そして残念なことにこの黒猫は、ニャン判断を間違え私という悪人に出会ってしまったのだ。
ーー人懐っこいこのこなら、奴らの気を引いてくれるのでは?
そんな邪な考えで、白狐面の医師にこの子を差し出してしまった。その単純な目論見は、悪の道百戦錬磨の悪党どもには簡単に見透かされ、露と消えたのだが。
残ったものは罪悪感のみ。
幸せのおすそ分け!
猫って可愛いよね!
皆で抱っこ抱っこ作戦は失敗した。
(私の想定では、奴らは三人共、猫にノックダウンされていた。完全なる失敗だ。甘かった)
そしてその生贄にしようとした黒猫に、私は酷く罪悪感を背負ったのだが、天使黒猫はそんな私の首筋に寄り添って、今も「にゃん」と、甘えてくれるのだ。
(ごめんね、黒猫ちゃん。あなたが飽きるまで、旅の仲間として共に居ようね)
所詮は野良猫。おそらくこの旅の仲間ごっこも、にゃんこテリトリーから抜け出してしまえば、居なくなることはわかっている。だが、それまで私はこの子への罪を償おう。
そういう訳で、多少、いや、結構重いこの猫を、私は腕が痺れることに耐え忍び運んでいる。
(でも、野良ってあれだよな。何処を歩き回っているか分からないから、不用意に撫で回して、テルチャンぼこぼこに腫れてたな…大丈夫かな。私)
何かのアレルギーで、かゆいかゆいと大騒ぎした猫好きの友人を思い出す。
(……カユミ、ナシ)
今のところは大丈夫そうである。
やはり、私は悪である。
心が狭いのである。
しかし、現実問題として、私には早急に片付けなければならない問題がある。そう。
鈴木医師に会うことだ。
こんなところで輩に絡まれている場合でも、猫と遊んでいる場合でもない。鈴木医師は確実に存在した。この異国の地で、懐かしい母国語を聞いたのだから。
(さっきのホテルに居たんだ)
もう少しで会えたのに、こいつらが邪魔しやがった。
私から金品回収は出来ないと思ったのか、それともこいつらが、別の誰かに私を譲渡しようとしたのかは分からない。
臓器? 買春? カンガエタクナイ。
病院で治療してくれたりもしたが、怖い市場へ行かずに、やけにあっさり居なくなったと、実は疑ってはいたのだ。
だが、あのタイミングでの再登場はあり得ない。
テンションは、私の方がだだ下がりだ。しかし、ほとんど言葉も通じないこの連中に、何を言って何をしようとかは思わない。
私はただ、隙を突いて逃げるのみ。
(絶対、あのホテルに逃げ込むんだ)
腕の痺れに耐えて、薄暗い道をしたくもないドナドナリベンジしている時だった。
ーー『こっち、こっち、』
『!、』
(来た。また、聞こえた)
待って待って、絶対聞こえた!
慎重に耳を澄ます私。辺りは静かで薄暗い。雑音は砂を掃く足音と水滴の音だけだが、それすら邪魔だ。白面達が何か言ったが、今は喋らないでほしい。
ビー・クワイエット、ビー・クワイエット。
(…………)
『ここだよ』
こっちだ!
私は走りだした。
後ろから声が聞こえる。
今は何も恐くない。輩なんて、まいてやんよ!
これを逃すわけにはいかない。
薄暗い猫の小径にダイブ! 全力疾走だ。だが、その猫が重い。しかし、先ほどの償いに、私は重たい黒猫を抱え直す。放り出したりはしない。ずり下がるたびに抱え直す。
でも、ホント、重いな!
息が切れる。
ペースダウン。
自慢ではないが、長距離走は苦手である。私の中で、五十メートル以上は全て長距離走である。
『ここに居るよ』
聞こえた。はっきりと。耳元で。
(え? …耳元?)
私の周りに人は居ない。
薄暗い猫の小径。その横に更に暗闇に続く細い道。その暗闇から、二本の腕が伸びてきた。
これって、心、霊……?
『!!!』
腕は私に巻きついた。
反動で、ここまで大事に抱えていた、黒猫を落としてしまった。
(……速い、)
私を拉致した二本の腕は、片方の腕で荷物の様に抱え直す。それも走りながら。なすがままに振り回されて走り去るこの体勢。
(二度目……)
先ほどの白狐面の医師を思い出す。しかし、今はさっきより速い気がする。家とかに飛び込んでないからかな? 速すぎてアトラクション感が満載である。
流れ過ぎる道しか見えない。ぶら下がる足は、振り子のように右、左。ぜひこの滑稽な姿を、外野席から見てみたい。
いや、それどころでは無い。冗談では無い。
(この人誰? ……鈴木さん?)
人通りの少ない通りに連れ込まれる。
なんとか顔を上げて辺りを見回すと、そこにはマント姿の三人組。怪しい。だが、一人が片手を上げて言った。
『こっちこっち』
(鈴木さん?)
まさか、鈴木さんが私を助けてくれたの?
いつの間にか私は地面に降ろされていた。マント姿の人達。鈴木さんに近寄る私。それを邪魔する無粋な腕が、後ろから私を引っ張った。
落ち着いて、落ち着いて。
この人はここまで私を運んでくれた人。
感動の再会は、後からとっておくもの。
慎重に私を抱えていた人物を見上げる。
あ。
『エルビー!』
エルビーだ!生きていた!
彼は相変わらず綺麗なお顔だち。怪我も見当たらない。エルビーは優しい灰色の瞳で、私に笑いかける。
『よかった、よかった。生きてたね。よかった』
私に巻きついていた、細いが逞しい腕をぽんぽんすると、未だ慣れない強烈ハグで返された。
苦しい。でも。
「まってまって、」
私には、更に鈴木医師との感動の対面が待ち構えているのだ。しかしエルビーの力強い腕は解かれない。仕方なく、身体をよじよじ捩って脱出を計ろうとする。
『ここにいるよ?』
『え?』
私は目を見開いた。
なんて言った。今。
声は頭上、優しく笑うエルビーから聞こえた気がした。そして、マントを外した三人組はケモミミ様達だった。
(………)
にっこり。エルビー。
(………)
ああ、そうか。
なぁーーーーんだぁー……。
そして遅れて現れたのは、鈴木医師では無く白狐面の医師だった。ハゲテルとヤセテルの助手を伴っている。
おや?助手がもう一人、いや、もう一匹増えた。先ほど私が不義理を働いた、黒猫さんも足元に。
あああ。
がっかり。




