トライドの城下町 03
オルディオール・ランダ・エールダー公爵。
トライド王国騎士団長イエール・トル・アレを裏切った、邪悪なる黒蛇。
ファルド領土拡張の功労者。豊穣なる田畑を戦地と化し、トライドから男達を奪い去り、それをファルド兵の盾として竜騎士団の前に差し出した張本人。
黒蛇は、善意と道徳、博愛と勇気を身に纏い、トライド王が誇る騎士、小さな王国の騎士団長イエール・トル・アレに近づいた。そして彼を偽りの友情で欺し、イエールの友人である伯爵令嬢ミルリー・プラームを誑かして婚約までしたのだ。
大きな力を持つファルド帝国。その国の騎士を束ねる騎士団長が西の小国と友好関係を築き、さらにトライド貴族と縁戚になる。
常に蹂躙戦争となるファルド帝国領土の拡大に、豊かな農地で育まれた領土を、荒れた戦地にはしたくないと懸念していたトライド国王は、オルディオールとイエール、そして婚約者のプラームの偽りの関係に気がつけず大いに歓迎してしまった。
だがその関係は突如破られた。
ファルド帝国は東大陸西方のガーランド竜王国への進軍を宣言し、トライド王国を属国にすると一方的に通達してきた。その報せを持ってきた者こそオルディオールだったのだ。
トライド王国には、反意を掲げる刻も力も無かった。その後、国民は為す術無く農地を軍に取り上げられて、自国を守るためだと男達を兵士に差し出す事を強要される。
ガーランド竜王国との最前線は、国境線の山脈を有するトライド王国領土、西のグルディ・オーサだった。
西端の領土を戦場とするために、軍団が徒歩や馬犬で移動する。トライドの牧歌的な美しい街中は、ファルド帝国からの行軍により見るも無惨に踏み荒らされた。
曇天の空、灰色の雲より黒い影が空を舞う。
西の山脈から鋭槍と強弓を構え、黒く空を覆う竜騎士団を前に、戦経験など碌に無いトライドの兵士達は、国境線のグルディ・オーサに配置された。
彼らは後方に陣取るファルド帝国兵士の前に、まるで盾の様に並べられる。そしてファルド帝国の魔法士による、大掃上という大魔法の発動によって、最前線の大勢の命が失われた。
オルディオールに裏切られ、ファルド帝国の盾にされたトライド兵士達は、死して身体は大地へ還り、魂は天へ帰るはずなのだが、彼らは悲しみが深すぎて天へ帰れず地へ縫い止められ、森に潜む魔物になってしまったという。
悲劇はそれだけでは終わらなかった。
男達を奪われたトライドは、彼らの帰りを待つ女や子供達が大半を占めていた。農地を奪われ、夫や兄弟や息子を奪われ、幼い子供達を養う彼女達には、職業に限りがある。
王の救済も間に合わない状態の中、ファルド帝国貴族、商人が、トライドの国に我が物顔で入り込むのに刻は掛からなかった。理不尽な戦禍に巻き込まれた国民は、貴族も平民も等しく、ただ蹂躙された。
帰って来るはずの父や兄、息子を待つ残された力無い者達は、商人に財産を騙し取られ、奴隷や娼婦、ファルド貴族の妾に落とされた。
魂の眠る森の魔物達は、それを嘆き悲しんで、大きな涙の粒になったという。
グルディ・オーサ領に、大魔法の不気味な赤い光の幕が空にかかった翌日、戦場から黒い箱が運ばれるのを人々は見た。
一つ一つに兵士の遺体が納められたその黒い箱は、グルディ・オーサ、トライド、そしてファルド帝国の大門へ連なる。
長く、長く、黒い箱が蠢く様に帝都をへ進む。
それはまるで黒く大きな蛇の様に見えた。
これは全て、黒蛇オルディオールの禍。
トライド国民は、オルディオールを忘れない。
******
「うさんくせえうさんくせえとは思ったが、まさかの黒蛇かよ」
スズサンは先祖代々トライド国民だ。祖父の代に起こったグルディ・オーサの悲劇。その祖父は元トライド貴族で、スズサンの両親は幸い城下に避難出来たことで健在だった。
しかし現状、トライド貴族は他の国の貴族よりも平民に近い。王族王女も毎日、天教院で奉仕活動をして働いていた。
この小さな王国は五十年、貧困に喘いでいる。
属国とはいえファルド帝国からの支援も、自国の蓄えも殆ど無い。戦争後、スズサンの家は知人に医者がいた事からそれを手伝っていた。その医者が亡くなった後に、一家が医療を本業として引き継いだ。
スズサンも、親の代から行っているトライド国民の被害者救済で、城下で診療をし続けている。現在城下に住まう者達は、ファルド帝国で奴隷や娼婦に落とされた者達ばかりが大半を占めていた。下町診療所では、主に性病、栄養失調、精神不安定、薬物使用、その緩和と治療を担っている。
トライド国民は、生まれた刻から黒蛇オルディオールへの恨みを教えられる。医者であるスズサンも例外ではなかった。
「数字持ちに黒蛇か? 幼児性愛者ヴァルヴォアールとオーラ異端者メアーくらいなら、まだ笑って終わらせられるんだけどなぁ? まさか、大聖堂院なんざ出て来ないだろうな? ああ?」
綺麗な女に凄まれても何とも思わないが、彼の中身を知っているソーラウドは、これ以上この場が悪化しないようにスズサンを宥める。
「いやぁーこの子、頭打ってるんで。譫言ですよ。言葉も北方大陸語で混ざってますし」
ミギノを回収して、シファルと面会させなくてはならない。そして耐え難い悪臭の部屋から出るために、ソーラウドは早く話を終わらせようとした。しかしスズサンは腕を組み、ソーラウドを鼻で笑って睨みつける。
「譫言でも戯言でもネエヨ。これは北方語じゃねえ。おかしな傷つけやがって。うさんくせえ以外に危ない臭いが強すぎだ」
(その前に、この部屋の悪臭を、消せや! マジでどうにかしろや! 本気でブッコロスゾ、イカレ野郎!)
思うように呼吸が出来ない部屋の中、ソーラウドは笑顔を貼り付け、スズサンが話す度に心の中で罵声を吐き続けている。いつか口から出てしまうかもしれないが、しかし今、女男は気になる事を言った。
(おかしな傷?)
額と背中はサザス家の傷だ。その説明はスズサンにしてあるし「くだらねぇ」の、捨て台詞と共に了承済みのはずだった。腑に落ちない表情のソーラウドに、医者は顎を少女に向ける。
「治療痕があるが、少し前に身体全体を傷つけた傷痕が残っている。しかも正面側だけに」
「へぇ? 後追い傷を残さない? やりますねぇー。剣士としての一流ですか?」
ソーラウドは、手慣れた様子で自分に刃を突き付けたミギノの姿を思い出した。自分が負けた事にゾクリとにやついて少女を見下ろすと、ミギノは不自然に身を硬くする。
「剣士? 刃傷じゃねえよ。剣士な訳ねーだろ。こんなブスガキ。剣ダコどころか、筆も匙も持ってねーよ。どう見ても、赤ん坊じゃねえか。オメエ、俺は目の治療は得意じゃねえぞ。ほじくり出すぞ」
「……」
言われたソーラウドは、ミギノを両手に抱えた違和感を思い出した。確かに体調不良とはいえ、まるで幼児のようだった柔らかさ。
「しかもこれで十九だぞ? なんか成長止めるおかしな薬、飲まされてねぇかなあー? マジ止めてくれ。どこの組織から流してきたんだ? しかも処女だし。色々怖い。たちの悪い宗教家の生贄か? 変態貴族とかの奴隷? 絶対、関わりたくネエな。間違っても、うちの看板出すなよ」
「?」
色々気になる内容だったが、一番ソーラウドに理解出来ない言葉があった。
「え? 処女ってなんでしたっけ」
この東大陸内では十二、三歳で性教育を学び、大体その頃には経験も済ませてしまう。性行為は下手をすると、病気や傷、望んでいない妊娠で命を落とす事があるのだ。正しい知識は生きて行くために重要だからこそ、年長者が精通や初潮の機会に知識を与える。
それは親が居れば子に、居なければ周囲の大人や経験者が、生活の知恵と同様に気軽に教える。なのでもちろん未精通や処女に重要度を置いてはいない。過去に大陸外の異教徒が、教祖に何かを捧げると処女を利用したと記録にあるだけだ。
子供の頃に歯の抜けかわりと同じ様に、ごく自然に通過してしまうその行為。特に親に捨てられたソーラウドは、それらは全て意味も分からず周囲の真似だった。なので処女については、本気で何のことか分からなかったのだ。
スズサンは医者だが、彼もまたミギノのような事例に出会った事が無い。性被害によっての治療は多いが、その逆は治療には来ないのだから。全く経験の無い者は、幼児以外は必然的に出会わないのだ。
スズサンにしては珍しく分かりやすく噛み砕き、その経験の無い者だとソーラウドに伝えると、赤い瞳は益々困惑を深めた。
医者の疑問は少女が十九であることが重点なのだが、ソーラウドは違ったらしい。その疑問の解決に、何故か少女を全裸に剥いだ。
「あ、おい、」
ミギノが着ているのは診療着だ。治療の為に下穿きは一切付けていない。簡単な貫頭衣なので、ソーラウドの手際はよかった。
突然丸裸にされた少女は、黒い大きな瞳を恐怖に最大限に見開いた。黒髪の少女は仔猫のように全身を丸めて縮こまり、白髪の赤い瞳を恐恐と見上げている。あまりにも目を見開き過ぎて、黒目がこぼれ落ちてしまいそうだ。
「……」
ソーラウドは、スズサンの言った身体の傷を確認する。あまり酷いと、少女を売るとき値を下げられるのだが、傷は殆ど薄く消えかかっていた。
『……、』
無言で観察を続けるソーラウドに、ミギノは震えだした。ここは医者として、患者を守らなくてはならないとスズサンが思った刻は既に遅く、ソーラウドは黒仔猫の両足首を掴むと左右に開いてしまう。
『フギャ!!!!』
鳴いた。やっぱり黒仔猫。…違う。
「おい、やめろ。お前、見たってわかんねーんじゃねぇか? 大体、処女がなんだったっけ? とか言ってただろうがよ」
「…ああ、デスね」
そうだった、知識は古く、かなりうろ覚えだとソーラウドはあっさり手を放すと、少女は素早く掛け布団にくるまり丸くなった。
布団が震えている。
患者の心の緩和も仕事の内なのだが、スズサンは少女に対して人認識をずらしてしまった為に、救出に誤差を出してしまった。だがそれよりも、何故か白狐の方が挙動が不審になっている。
「どう、扱ったらいいんですか?」
「あ? 仔猫とおな…子供と同じだ」
「なるほど…、いや、違う。なんか違う」
この部屋の悪臭も気にならないほどに、ソーラウドは困惑している。
「俺、二十四なんですけど、」
「知らねえよ。どうでもいいよ。なんなんだよお前」
「十九歳ってこれ、九歳って言われた方が、まだ納得出来る」
「同意見だよ。ようやく話が出来そうだぜ」
ミギノの今後については、サザス家の上納金回収の邪魔をした、落とし前をつけてもらうはずだった。
(少女の剣士をどこかに売るか、見世物に。そう思っていたのに、実は十九の女。しかも処女?)
幼女嗜好趣味の客に歳を誤魔化すにしても、十九は行き過ぎだ。しかも未経験。相手も混乱するだろう。変質思考の客もいるが、何だか好みが違う気がする。
「分類が特殊過ぎて、俺でも扱える店が思い浮かばない」
「めんどくせえな」
スズサン相手の雑言ではなかったが、しばらくソーラウドの心の声が漏れ出ていたようだ。医者はミギノが着替えるからと、治療室から部外者を追い出した。
外に出て、新鮮な空気を吸い込むと頭がすっきりとしてくる。どうやら何かの薬品に、思考能力を低下させられていたのかもしれない。ソーラウドは門前で待っていた手下二人に、今後の話をしておくことにした。
まずはミギノを面会させるためシファルにつなぎを付ける。その間、少女はテルイドとアルドイドに飯屋で待機させるのだ。
「俺は後から、」
「頭、出て来ましたよ、ガキ」
少し刻を過ぎてミギノがやって来た。濡れた髪、火照った顔。どうやらお湯で洗われたのだろう。悪臭は身体に染み込んではいなかった。
『……』
少女はソーラウドが出会った時と同じ服装、西方基地の軍服に近い姿をしている。そしてソーラウドの真横に立って顔を見上げた。
(睨んでる、)
物凄くソーラウドを睨んでいる。
黒い目は座り、赤みがかる丸い白い頬に、口は分かりやすく引き結んでいる。
だが凄味は一切無く、身長は低く、立ったソーラウドの肘置きに頭の高さが丁度良さそうだ。無意識に乗せられたそれを見て、不意にテルイドが吹き出した。
「肘置き! グハッ!」
「生意気な猫みてーじゃないですか?」
アルドイドも思い出した小動物。それに頷き二人は笑う。少女は急に笑い出した男達を、生意気にも片眉を上げて不思議な顔で見返した。
ミギノが現れてから、ソーラウドだけが、まだ晴れない混乱の中にいる。自分を確実に殺そうとした少女と、弱ったところを拾った後の少女の様子がまるで違うのだ。
あげく処女の十九歳。
(どう扱ったらいいんだ、これ)
体調も良くなり、腫れた傷も殆ど引いている。ミギノの腕ならいつでも逃げられるだろう。
診療所を訪れた刻から、ミギノがソーラウドを再び狙うことは想定していた。今度は油断せずに少女を自分に屈伏させ、それから調教するのも悪くはないとも思っていた。
しかしまるで違う反応を見せたミギノに、ソーラウドは戸惑っている。こちらを睨む生意気さを持っているが、明らかに自分を恐れて震えている。
(いつでも逃げられる環境にあるのに、何故か逃げない。いや、逃げようとはしている素振りはあるが、とても本気とは思えない)
下町の路地裏、飯屋への近道。ソーラウドは少し離れた所から三人の様子を見ていた。雑然としていて汚い路地裏は、物や人に紛れて逃げるのにはうってつけの場所だ。
なのにミギノは辺りをきょろきょろ見回して「お手洗い」と笑いながら不自然に去ろうとした。もちろん飯屋まで待てと止められていたが、極めつけは遠くを指さして、『あ、フロウ・チャラソウがあそこに!』と異国言葉を叫んだ事だ。
言葉の意味が分からず放置されていたが、その後は異様にのろのろ歩き出したので、テルイドが少女を小脇に抱えて飯屋まで運んで行った。
(ふざけてんのか、様子見てんのか…謎)
本気で逃げる気があるのなら、診療所でソーラウド達の元に来ずに逃げているはずだ。裏手からも窓からも、逃げようと思えばいつだって逃げられる環境だった。もちろん見張りは付けていたが、そんな素振りは全く無かったようだ。
意味が分からない。
ソーラウドは益々混乱を深めると、シファルと連絡をつけるために飯屋を後にした。




