少女と教師 06
浴場から出たミギノは、メアーの後ろを不安げに歩く。長く無機質な廊下は冷えて薄暗く、明かりが差し込む窓辺が途切れる度に少女は小走りになるのだ。そして背の高い大柄なメアーの背後にくっついて来る。
うろうろと足元に纏わり付かれ、メアーはそれに何かを思い出した。
(まるでちょろちょろと、テノの様だな。蹴り飛ばしてしまいそうだ…。子供が居れば、このような感じか?)
昔、突然道端でじゃれついて来た、小さな生き物が居た。
無精髭の男は、背後の小さな気配を感じながら、子を持つことに関心の無かった自分を振り返る。
(いや、あり得ない)
メアーの子ならばオーラ公爵家の者として、物心つく前に厳しい教育を受けるだろう。
誰かに甘えて、足元に寄り添う生き方は学ばない。
自分の子供時代は、家族と共に食事を取った事も、誰かと遊んだ記憶も無い。唯一子供らしいと感じたのは、北方大陸に親の名代で渡航した経験のみだ。
くるくると表情を変えるミギノを見ると、メアーの唯一楽しかった北方国での思い出が浮かぶ。
目的の部屋の前まで立ち止まる。メアーに連れられたミギノは資料室に入った。そこでは連日、第九師団の隊員が五、六人で作業している。
資料室は広く、本の古い臭いが充満している。書類が山積みの大きな机が向かい合わせで並び、壁面の棚には資料が並べられていた。棚の資料は使用中が多く、所々歯抜けになって本が横倒しになって積まれている。
忙しく動き回る大きな男達の中、少女は部屋の隅に立って室内をぼんやり眺めていた。その肩には、青い半透明のルルが小鳥のように乗っている。
「連れて来たが、ここでやるつもりなのか?」
「構わない。リマ個人の金の流れを証言と合わせている。シオル商会との痕跡は探すが、ここにある書類はほとんど残務整理のような内容だ。それに、一枚の数字だけ見ても、君でも分からないぞ」
要はやらないと後々困るが、優先度は低い内容ということだ。
数多くの機密書類を前に、部外者のミギノを入れた事でメアーは眉間の皺を濃くするが、管理者のフロウは問題ないと切り捨てた。
これは暗号解読なのだ。面倒な事にリマは金の管理を一部暗号化して、今まで本隊と貴族院を欺いていたのだ。書類は一人一書類では解けない仕組みになっている。ここで分類して別室で解読するものなのだ。
たとえミギノが間者でも解読は不可能だし、たとえ解読されたとしても、捕らえたリマの金の流れなど、命を張ってまで探る内容ではない。
本来自分が関わる作業では無いが、尋問に際して裂かれる時間を、ここを手伝う事に兼ねる。それにミギノはルルという危険生物を所持した不審者ではあるが、三日間の筋肉痛での入院、行動を見るにただの子供の可能性も高まった。
ただの子供への質問だけに、大きく無駄な刻を使えない。
フロウとメアーは今後の内容を口頭で確認し、少女が居たはずの誰も居ない戸口を見て、次に奥を見た。ステルに部屋の奥に連れられて、ミギノがソファーに座って菓子を食べている。
クノーサという砂糖を煮詰めた粘り気のある菓子だ。固めた砂糖が表面にかかっていて、口の中で長く舐め溶かす食べ方をする。ミギノは半分に囓ったらしく、前歯に粘り付いたクノーサを、もごもご口を閉じてずっと舐めていた。
その残った半分を、今度は肩のルルに押し付けている。
(……)
その様子にメアーは呆れ、フロウは皮肉ともとれる微妙な表情で笑った。まさか、ルルで笑える日が来るとはと。
菓子を押し付けられたルルは、どことなく迷惑そうに後退している気がする。大聖堂院の宣告で、ルルを凶悪視していたが、ミギノの肩に乗る物は、そこまで悪質な物には見えなかった。
緊急事態に備え、エルヴィーにはルルの対処法を聞いている。もちろん始末の仕方もだ。
そんなエルヴィーとフロウの思惑など知らない、ルルの主人の様に餌を与えようとするミギノの事は、やはり第九師団の面々も気になるのか、手を止めてその異様な光景を見てしまう。
自分もその一人なので、フロウは誰も咎めなかった。
程なくミギノはきょろきょろ辺りを見回し出すと「エルヴィーを探してるの?」と、エスクにからかわれていた。
「相変わらずだな、奴が居ないと落ち着かないらしい」
メアーの呟きに、フロウはなぜか胸にちりりと反発心が浮かんだが、笑うメアーはさっさと出て行ってしまった。終わらない面倒な書類の束を片手に、フロウはミギノの対面ソファーに座る。
「紙と液筆をくれ」
フロウの言葉にエスクが用意し、去り際に菓子を下げさせた。
「身体は良くなったみたいだな。今日から君に質問をさせてもらう。だがその前に、ある程度言葉を理解してもらう」
『……』
言葉は分からないはずなのに理解出来たかのように、ミギノはフロウの言葉を目を逸らさずに聞いている。
「俺の名前はフロウ。フロウ・ルイン・ヴァルヴォアール」
それを用紙に書き写し、自分を指した。
文字を見て、ミギノはうんうんと頷く。意図は伝わったようだ。次に液筆をミギノに差し出すと、少女は背筋を伸ばして紙に綺麗に文字を書き始めた。
(姿勢も、液筆の持ち方も綺麗だ。食事の仕方もそうだったが、やはりある程度の教育水準に達している)
「カミナ、メイ」
どうやら家名を書いたようだが、やはり全く見た事の無い文字だった。
ミギノの持ち物の中にあった奇妙な文字が出てくる板は、エルヴィーとメアーとで中身を探ったのだが、難解な文字が出てくるだけで結局投影機にはならなかった。本人が何度も確認していた表示は六十を過ぎると定期的に文字が変わり動くので、刻計りだと認識出来る。おそらくミギノは、何度も刻を気にしていたようだ。
待ち合わせか、何かの予定かの疑惑が掠めたが、そのミギノの刻計りは調査の途中で消えてしまい、もう二度と表示されはしなかった。フロウ達三人はかなり焦ったのだが、メアーの話しでは、それを起きたミギノが確認しても、ただ溜め息をついただけでそれ以上の反応は無かったという。
常に何かの動く風景が過ぎる不思議な文字の写り、小さな板なのに本のように文字が示されて過去の転写を映し出す。それは中身を全て確認出来ないほど機密なものだった。
エルヴィーによると、落人の回収物の中で同じ形態の物でも、動いているものを初めて見たという。
(ミギノが書いた名前は、あの板に見た文字に似ている)
落人の回収物を使いこなす少女。場合によっては、これはフロウ達にとってとても役に立つ存在かもしれない。使えるものであれば、秘匿し利用しなければならない存在。
(だがやはり、お互い全く言葉や文字が分からないと、相当に時間がかかりそうだな…そうだ)
フロウはミギノが持つクノーサの欠片を、渡すように手を出した。素直に渡されたそれを、今度は見せるように前に出す。
「クノーサ」
菓子の名前を理解したミギノは、頷いて自分の文字を書き留めた。
(理解が早い。これならお互いの文字を一から学ぶより、先に音で意味を把握できる)
これは、ミギノがエルヴィーの言葉を反復していた事で思いついたのだ。次にフロウは、クノーサをミギノの小さな口の中に押し入れた。眉間に皺が寄り、少し舌が押し返す躊躇った感じはあったが、ミギノは半分になったクノーサを全て口の中に入れた。
『………………』
口を閉じてもごもごとしている。心なしか、今まで従順だったつり目の黒い瞳は、不満げに騎士団長を睨んでいた。
「ユベルヴァール中尉、ミギノはクノーサが嫌いなのか?」
「いえ。次々に口に入れているので、嫌いではないでしょう」
「…そうか?」
フロウは少女とはいえ、女にこの様な些細な行為で睨まれる事に、驚愕に大きく目を見開いた。大抵の女は、フロウに声をかけられただけで恍惚としてしまうのだ。幼い子供から老女まで、一部同性までがその対象だった。
「だが、何故か不満そうに見えるな」
「はい。団長を確実に睨んでいます。指導致しますか?」
「いや、不要だ」
家柄と容姿の自信により、それを幼少期より当たり前としてきたフロウには、ミギノの反応が理解出来なかった。フロウに施しを受けたのに、未だ眇められたつり目の黒目、そして不満げに歪む唇。
『………………。』
白い頬にもぐもぐと動き続ける小さな赤い唇、それをしばらく見つめていたが、書類を持ったエスクと目が合いはっとした。
(そうではない。今は文字を理解させるのだ)
ミギノと視線を合わせると「食べる《クァウ》」と、冷静に促す。彼女はそれを頷いて書き綴る。基本的な用語を取り上げては、ミギノは反復しながら書き綴っていく。フロウは自身の仕事を片手間に、それを根気強く何刻も繰り返した。
**
「団長、昼はどうしますか?こちらに運びますか?」
ステルの問いかけと共に、遠くで鐘の音が響く。すると廊下から移動のざわめきが聞こえ始めた。
「そうだな…この子と一緒に食堂へ行く」
「了解」
フロウ達が食堂へ行くと混雑に人がひしめき合っていた。その中、小さなミギノに盆を持たせて列に並ばさせる。肩に居たルルは人のざわつきに驚いたのか、少女の風除けに素早く隠れ、列に並ぶ事に余計な騒ぎにはならなかった。
「お、なんだかえらく可愛いのが居るじゃねーか」
「料理長、ミギノだ。暫く滞在するから覚えておいてくれ。ほら、ミギノ、挨拶」
挨拶。それは先ほど教えた言葉。少女は従順に頷き、フロウはそれに満足し頷き返す。
「……ミギノ…メイ、カミナ、こんにちは」
「ミギノ・カミナメイです。こんにちは」
歯切れの悪い挨拶に、少女の頭の上からは素早く訂正の言葉が飛ぶ。
「……ミギノです」
「俺は料理長、バクスだ。小せぇな! 沢山食えよ!」
団長の訂正に生意気にも不満に口を尖らせた子供だが、大きな盆に乗せられた豪快な料理に驚き、直ぐに人懐っこい笑顔を見せた。にこにこ笑うミギノに、料理長も厳つい顔をほころばせる。
「むさ苦しい野郎どもよりも、やっぱガキが喜ぶ顔が一番だな! 今日はソイの油揚げにララのロゼ。それに焼きたてのクラウだ」
「クラウ、美味しい、好き!」、
『焼きたてのパンは最高です』
覚えたての言葉に、スラスラと聞き慣れない異国語で言葉が返る。「残すなよ」と、片目を瞑った厳つい顔に少女は「残すなよ!」と、繰り返して片目を瞑れず両目をぱちぱちとさせて笑った。
「ガキって可愛いな」
「早くつくれば? 団長に義理立てすることないぞ」
ステルの呟きにエスクは返す。それに軽く首を振ると盛られた料理を片手に席に着いた。テーブルの一角は第九師団が占領しており、団長を取り囲む席から遠巻きに他の隊は食事をしている。だが聞き耳を立てる周囲は、男達に囲まれ姿が見えない小さな子供に意識を向けていた。
『いただきます』
また小さく異国語を呟いてから、ミギノはもそもそと食べ始めた。
『このパン、うまい』
クラウを頬張ったミギノが、嬉しそうに笑う。
「パン? クラウのことか?」
「音みたいだな」
隣に座っていたステルが、赤色のペアの実をミギノに差し出した。ペアはクラウに潰して塗ると甘くて美味しい。子供にはもちろん大人にも大人気の食べ方だ。それにエスクが「あ、」と呟くが、ミギノは気づいてしまった。
『色違い……』
悲しそうな顔で、ペアを見るとステルを見上げ首を横に振る。
「ステル、ほら、それ、魔物…」
言われたステルは、忘れていたようで「ああ、でもこれ、美味いぜ。ルルじゃねーしペアだし。ペ、ア。食ってみろ」と、少女に勧めるが『イヤイヤ』と断られた。
フロウは早々に食事をすませ、食べるのが遅いミギノを観察している。白身のソイは油で揚げて、味は淡白で好みに濃くも薄くも調整出来るが、身がホロホロと崩れてしまい綺麗に食べるのが難しい。食べ方の難しさに、女性には面倒だと敬遠される事が多いのだ。それをミギノは身を崩さずに半分食べた。
(やはり匙を上手く使える。この魚は、綺麗に食べることを幼少期に礼儀作法で叩き込まれる)
フロウの思案を余所に、ロゼも半分以上、喜んでいた焼きたてのクラウも半分残して少女は匙を置いた。通常子供でも貴族の女性でも、平均的にもっと食べるものだ。
『ごちそうさま』
おそらく終了の挨拶だろう。
「お前、足りねぇだろ。もっと食えよ。だから小せえんだ」
隣の席のステルはさっきからミギノを気にかけているが、少女は「むりむり」を繰り返している。これはエルヴィーがよく使う言葉だ。
出会ってから三日間、ほぼ顔を合わせていたのだ。身近な対象の口癖は移ってしまうものだろう。それも分かる。しかし教師は自分なのだと理由をつけて、フロウはエルヴィーの口癖を真似するミギノに不愉快を感じていた。
「これは、魚」
言ったフロウはミギノの口に、取り分けた白身を突きつける。
『…いらないって、言ってマス。「むりむり」オーケー?』
また、ミギノはここには居ない玉狩りの言葉を言った。
「……」
「あ、団長、」
『むがっ! うぐっ、』
無言で少女の口の中に、突きつけた魚を押し込んだ。その突然の上官の行動に、周囲がごくりと息を飲む。
「飲み込め」
命令形。ソイを口に詰め込まれた少女はフロウの怒りを察知したのか、こちらも文句を言わずに小さな口を懸命に動かし必死に呑み込んだ。
「次。」
『フガッ!』
「「「………………」」」
その教育は、ミギノが皿を空にするまで続けられたのだった。
異世界語は、食べ物の品名など、ビミョウに物が違う場合で出てきます。
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