04 待機 04
天上の巫女が南方で行方不明となって十日、箝口令が出されたにも関わらず、それは人の口に上る。情報を操作収集する国内諜報の木鼠が噂は嘘だと触れ回ったが、それと拮抗するように、真実だとの噂も広まり国民は動揺した。
話は巫女の行方不明に留まらず、第三の砦、精鋭黒竜騎士オゥストロの人格にまで広がる。婚約者と噂される天上の巫女姫が行方不明にも関わらず、それを放置し自らは国境線の砦へ早々に帰った事が非情だと非難する者達が現れたのだ。元より冷酷と噂されるオゥストロらしいと支持する支援者と、真っ二つに世論は別れてしまった。
噂の出所の一端を担う天教院教会、率先してオゥストロの非情を責めるのは新たにガーランド国へ着任した巫女。彼女は巫女の称号も持つが、最高大神官アリアと、天上の巫女姫の身の回りの管理を引き受ける貴族女官長である。
[テララ女官長は流石だね。来るなり黒竜騎士を攻撃するなんて。噂じゃ、僕の支持者が益々増えて、黒竜騎士の悪口を言って、彼の支持者と無許可で決闘したんだって。笑える]
行方不明のメイを放り、さっさと第三の砦に帰ったオゥストロは、天上の巫女への愛情は全く無い。天教院信者を使いそれを触れ回った。これを発起した女官長のテララは誉められた言葉にも頷くだけで表情は無く、アリアの身支度を整える女官へ皇子の装飾の指示を出す。
更に国民の声を受けたとし、昨日はガーランド国の天教院本院から、春生月に予定されたオゥストロと巫女の婚約発表を否定、懸念する声が王城へ上げられた。
声に依る民意の操作、それを使う事に慣れているエスクランザの皇子アリアは、整えられた官服を翻し他国での良い成果に微笑み窓から城下を見下ろした。
[発言をお許し下さい]
声の主は無言で控えるテララでは無い。アリアの守護騎士である少年テハだ。それに振り返り頷くと、ガーランド国では口当て布を外された少年は再び叩頭すると話し始めた。
[巫女様はご無事でしょうか?このテハにも、協力の役目をお与え下さい]
跪き床に話す少年に、アリアは立てと短く命じる。
[守護長トラーの信用は無いな]
[いえ!そうでは無く、人手は多い方が良いかと・・・。情報では、巫女様が精霊殿を海で落とされたとも聞きました。ならば、天王国より、新たな精霊殿をお連れすることは如何でしょうか?]
[悪くない。水の精霊ならば見た目には変わりはしないものね]
[はい]
[だけど〔彼〕は自然精霊では無いからね。紛い物をあてがって、喜ぶ天上の姫君ではないだろう?]
[も、・・・申し訳ありません]
怯える少年から目を逸らし、アリアは再び城下を見下ろした。王城の堅牢な塀の向こう側には、アリアへ跪く事など念頭に無い、ガーランド国王を毅然と見上げて立ち上がり、彼と共に拳と歓声を上げる国民が暮らしている。その者達と生意気にも王族を睨み、アリアを見上げる小さな黒髪の少女が重なった。
少女は何の力も無い。身体をオルディオールと名乗る精霊に使われるだけだ。だが、北方国民に似た顔立ちの少女は、精霊に身体を使われる以前から常にアリアを馬鹿にした目付きで見ていた。それを思い出し鼻から笑いが洩れる。
メイが居なくなった港では、不審にも外套で身を隠す男が海に何かを投げ捨てた様子だったという。それを猫が玉を追うように少女は追って、海の中を覗き込んでいたそうだ。その間抜けな姿を想像し更に笑い出した皇子に、新たな精霊の提案を出したテハは、困って彼を見続け立っていた。
[精霊が居なくなる、予行演習だと思えばいいのにね]
笑顔のまま振り向いたアリアは、巫女を心配する少年騎士と離れた壁際に立つ女官長を見渡す。
[何代目かの天上の方に、初代様と同じ様に精霊が憑いた方がいる。知ってるかい?]
存在は無いものとしてそこにある女官長は身動きしないが、アリアから発言の許可を貰う守護騎士は首を横に振った。
[天上の方は天から落ちてくる刻に、身体を傷付ける。それがあまり酷くなかった初代様に習い、神官達がとある天上の方に精霊殿を〔入れた〕らしい]
神妙に皇子の話に耳を傾けるテハに、アリアは微笑んだ。
[その方の在位は一般の教典では空白になっている。そこには、精霊が可哀想だと精霊工房の破壊を命じた方が当てはまるのさ]
その言葉にはテハでは無く、女官長テララが内心で息を飲む。王宮内の東北に位置する地の下の工房。精霊を酷使する最も穢れている場所。そこを破壊しようとした、ある天上の神官は気が触れたようになり、様々な人や物を破壊した口伝が密かに伝わっている。一部の王宮の者しか知らないそれを知るテララは、アリアを壁際から見つめていた。
[精霊殿と天上の方は、心が通じてなければ意味が無い。全ての天上人に精霊が憑いていた訳では無い。だから、初代様の再臨の様な、メイ巫女姫はエスクランザにこそ必要なんだ]
それに強く頷いたのは、テハだけではない。風変わりな天上人の巫女を心配し、他国での奉仕を志願した女官もそれに強く賛同した。
国民と信者、そして身近に仕える者達の心の結束という操作。自分へ強く頷く者達を見たアリアは、その成功に笑い再び他国の城下を見下ろした。
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青星が大きく現れた広場には、泉より小さな池がある。清んだ湧き水の池の横には祭壇が木で組まれ、そこに海長に連れられたスアハがやって来た。普段は一部族で行われる変異の儀式に無人の少女を同席させる事になり、成人後の少女に番としての名乗りを上げたヴェクトも見届けとして参加する。
幼少期、未分化の性の蛇魚族は、成人までに自然に性が決まるのだが、スアハの変異は無人の少女により触発された。成人を待たずに変異をする者は儀式を行い、急激な身体の変化を抑えて本来は緩やかに得る資質を補うのだ。
スアハは水の部族、青星の下で清い水の資質を高める。更に変異の切っ掛けとなったメイを傍に置けば、本人の望むように変異の成長を促進させる事が出来る。だがこの儀式では気の昂ぶりにより、侍る者を襲わない為に介添えが必要で、番としての候補者が他に居る場合は、部族長とその者が見届ける事になる。
〈地長、何故ここに?〉
海の部族長が立ち会えば済む儀式にやって来たのは、地長エイグとヴェクトだった。
〈相手が無人の子供だ。しかも、我が弟は気が荒い。これを止めるのは私が適任だろう〉
朗らかに了承を求め目を細めるエイグに、海長シーラは頷く。見た目は可憐な少女の様に見えたスアハは、日に日に骨格の線がはっきりとし、今や中性的な男性に見えた。
〈メイ、遅いね〉
不安げに辺りを見たスアハは、祭壇の準備をした住人達の中に小さな少女の姿を探す。それに同じ事を思ったエイグは、慌ただしい羽ばたきに気付いて空を見た。上空には、大きな黒い翼を羽ばたかせた男が滑空してくる。
〈逃げました〉
この一言に牙を剥き出し笑ったのはヴェクト。驚愕に目を見開いたスアハと長達は、飛来したフェオに詰め寄った。
〈棘の木の下から森へ入ったみたいです〉
フェオの言葉にスアハは震え、か細い声で呟きが漏れる。
〈メイ、・・・スアハのこと、嫌いになったの?〉
フェオは首を振り〈お前は嫌われていない〉と、強く言った後にヴェクトを見た。その目線でスアハは気付き、少女メイの顎を赤く跡が残るまで掴んだヴェクトを睨み付ける。ヴェクトは更に長い牙を剥き出してスアハを見て笑った。
**
「あのチビ鳥達が言ってたの、間違いねーな。追っ手がまだ来てない」
オルディオールは自身の中にいるメイに安心を呟いた。毛小鳥達は森の中では、棘の多い場所には木の実が多いと教えてくれた。オルディオールはそれに獣人が棘を避ける事を予想する。更に詳しく毛小鳥達に森の特性を聞き出して、彼等が苦手な葉の生えた場所などを知った。散歩と称して歩き回った結果、この小径を見つけたのだ。大柄な大獅子達は入れない。上空から鳥族に見られる事も無い。蔽い茂る棘の葉は広葉樹で、小さな少女を隠してくれる。
オルディオールは低い姿勢で一刻ほど走り続け、棘の切れ間に空を見た。星により方角を割り出すためだ。道順は間違いなく港へ向かっていた。当初よりは走ることに慣れた身体だが、額に手を当てると冷たい汗が滲んでいる。立ち止まると肩で呼吸が始まった事を確認し、小川を見つけて一口含んだ。
(・・・・)
辺りに気配が無いことを確認し再び葉の影に踏み込んだ刻、耳元で声がした。
〈もう飽きたな〉
「!!」
素早く振り返った少女だが、周囲には誰も居ない。息を殺し、棘の茂みへ飛び込もうと踏み出すと、足首を掴まれて宙吊りにされた。
〈傷だらけだ。こんなに血を振りまいて、お前はそんなに喰われたいのか?〉
棘の道で裂かれた細かい傷。膨ら脛の傷の一つを舐められて、少女は手にしていた革の帯で目の前の男の股間に撃ち込んだ。
〈と、あぶねぇな、〉
少女を放して後ろに飛び下がったヴェクトの目は、暗闇の中に光っている。そして初めて出会った時と同じ様に挑戦的に笑った。
(嗅覚か?スゲーな・・・)
血なんて殆ど出ていない。少女の身体には、棘で引っかき傷が出来ている程度だ。それだけで正確に追われ、飽きたからと掴まれた。こうなれば、態わざ狭い棘の小径を通る必要は無い。
〈戻るぞ。まだ星が出てるからな。魚のガキの儀式に間に合う〉
笑う獣人は事も無げに、微塵も思っていない事を口にした。小さな少女は獰猛な獣人を前に、目だけで空を見上げる。そして表情を一切変えずに踵を返して木々の間を走り出した。それを見たヴェクトは目を細めると、追わずに舌舐めずりをして見送る。そして小粒の赤い木の実が撓わに生った枝を一つ折ると、木に腰掛けて一粒ずつ食べ始めた。
**
(ぷるりん、ぷるりん。なんとかなるの?自慢じゃ無いけど、私、鬼ごっこでは瞬殺で鬼へと昇格し、それから最後まで鬼を貫き通す、修羅の覇道を極めた鬼なんだよ?)
人間として逃げた記憶が殆ど無い。逃げる遊戯では鬼ポジションを確立していたメイなのだが、今は風を切るように森の中を疾走する。道と呼べる道ではないが、岩場や剥き出す木の根を飛び避けて、小さな少女は一方向へ走り抜けた。
(不気味だ、)
プルムの港に入れば、全ての獣人は手を出せないとフェオから聞いた。その方角に一心不乱で走る小さな身体だが、オルディオールは森の静けさに気を張り巡らす。
(獣人どころか、普通の動物の気配も無い。夜だからとか、そういう感じでも無い)
少女の身体の限界は、ヴェクトと遭遇した事で考えてはいない。そんな余裕は一切無い。プルムの港まで保てば、そこで倒れようと寝込もうと、どうでもいいのだ。多少の高低差は構わず飛び降り、休むこと無く走り続ける。半刻程過ぎた頃、ようやく港の灯りが見えた。
〈妙だな〉
また耳元で声がした。
〈!〉
ヴェクトの声は真横から耳に落ちたのに、大きな男は少女の進路方向に立ち塞がる様に立っていた。腕を組み、脚を肩幅に開いて首を傾げている。男の背の向こう側には、プルムの港の夜景が広がっていた。
〈妙だ。お前、精霊のせいなのか?体と魂がずれていないか?〉
南方特有の不可解な質問。分かるはずのない、それに答えることなく立ち止まる。すると小さな身体は肺で呼吸をし始めた。ゼエゼエと吐き出される息。少女の落ち着きを待ったヴェクトは、片手に木の枝を持っている。
〈食べ飽きた。ガキの頃には良く食ったが、今は甘すぎだな〉
小さな赤い小粒の実、撓わになっていた枝には二、三粒の実しかついていない。それを適当に放ると、ヴェクトは少女に焦点を合わせた。
「・・・・」
強い金色の瞳の中央にある黒い瞳孔は、太い幹の木を五本先に立つ少女を捉えて凝視する。そして一歩踏み切り飛び掛かった。
「!!!、」
避ける間も無く抑えられ、笑う口からは鋭い牙、唾液が滴り零れ出る。牙を伝う透明なものは、少女の血の気が引いた小さな唇に一つ落ち、細い首に鋭い歯は食い込んだ。
「くっ、が、ああ!」
暗闇に少女の苦鳴が漏れ出た。噛まれたまま刻が過ぎ、ヴェクトが舌を這わせながら口を放すと、白い喉元から赤い血が流れ出す。男の長い舌はそれを丹念に舐め取った。血の刺激によりヴェクトは少女の身体を弄り始め、下肢の匂いを嗅ぐとあることに気が付いて驚愕に顔を上げた。
〈お前、女の匂いがするぞ〉
当たり前だとメイは思ったが、オルディオールはその隙を付き、手に巻き握り締めていた革帯と共にヴェクトの頬を殴り付けた。やはり大した衝撃にもならなかったが、素早く身を捩り押さえ付けられていた股ぐらから転がり出る。そして立ち上がると頼りない革帯を構えて臨戦態勢を取った。
〈いくつだ?お前、ガキだよな?〉
惚けたままのヴェクトは、膝を折ったまま少女を見つめる。獣人達の誤解により、メイが幼児認識されている事に自覚のあるオルディオールは、それに答える訳がない。子供に対して保護意識が強い南方の者達。その勘違いに救われて、利用してきたのだ。おそらく成人の女と分かれば、この甘い監視は無かっただろう。未だ惚けるヴェクトを見て、退路を確認し次の算段を巡らせたその刻だった。
「十九。」
(!!!)
〈・・・・〉
聞き慣れた質問に、異世界に落とされた当初から言い続けた答えをメイは得意気に発した。数字は全て共通である。漏れ出たメイに、オルディオールの意識は遠のきそうになったが、ゆっくり立ち上がるヴェクトを見て、左手の五指を開いて前に強く出した。
〈待て!〉
動きを止めたヴェクトに、オルディオールは無駄な足掻きの下らない質問で気を引こうとしたが、やはり無駄に終わり走り逃げる。全力疾走、目の前に迫るのはプルムの港の入り口、その門前に苦もなく走り寄ったヴェクトの右手が少女の首に背後から伸びた。が、それは何かが落ちてきた事により遮られる。
ーーーザスッ!!
「・・・、!!」
鈍い音に素早く手を引いたが、間に合わず腕を切り裂かれたヴェクトは、飛び下がり目の前の敵を見定めた。
(この俺が、全く気配を感じなかった)
少女が振り返る先には、薄汚れた外套が舞う。翻る布の中から伸びた手には、血の付いた中刀が握られていた。目深に被った外套から零れ出た薄い金の髪は、青星の光を浴びて青銀色に輝く。
「エルビー、」
外套の中、見間違う事の無い美しい青年は、愛しい少女に微笑みで応えた。




