烏
「――どうも」
黒田が書斎に入ると、ソファに白石が座っていた。
「ああ」
「勝手にお邪魔しています」
「待たせてすまないね」
「急な呼び出しでしたとか。何かトラブルでも?」
ため息混じりに「そんなところだ」と答えて黒田は白石の向かいに腰を下ろす。
「お疲れさまですねぇ、歳も歳でしょうに、局長は大変でしょう。もう七十になるんでしたっけ」
「七十一だ。今年、二になる」
「どうです、僕のように早く隠居されては」
黒田はかすかに笑う。
「するさ。近いうちに」
「おや、まだ続投するつもりで?」
「いや、ただ手続きやら引き継ぎやら挨拶回りで時間がかかるって話さ。私は今すぐにでも辞めたいものだ」
「確かに時間がかかりそうですものなぁ。生命維持局局長ともなれば。極秘事項も数え切れないほどでしょう?」
「それはきみもだったんじゃないのかい。前警備局局長さん」
「いやいや。維持局には負けますよ」
白石は肩をすくめてみせてから、
「――『アダム・プロジェクト』」
黒田の眉根がすこしばかり寄る。
「係わりがあるのでしょう? 直接はなくとも、とても蜜月な関係にあると聞きましたが」
「……どこまで知っている」
「心配なさらずとも詳しくは知りません。知ろうとも思いません」
「それが賢明だ。うまく生きるのにはな」
白石は肘かけに肘を置く。
「黒田さんもそうして生きてきたクチですか」
「この歳まで局長でいられたのは、私が無能だったからさ」
「なにをおっしゃる」
「謙遜ではない。――余計なことに首を突っ込まず、深くを探らず、善悪を考えず、ただ与えられた椅子に座っていただけさね」
黒田はソファに背をあずけて天井を仰ぎ見る。困ったように微笑って白石は言った。
「無能で局長になれますか。務まりますか」
「なれるさ。私自身がどうこうしたわけではないからな。みな父が用意したのだ。場合によっては母も手伝ったのやもしれぬが」
黒田は天井を見つめる目を閉じた。
「大変だったろう、家のために、息子のために。子想いの両親だった。どれほど裏で手を回したのだろうな」
「恵まれた環境でお育ちになったのですな」
「恵まれた環境……」と口の中で言葉を転がしてから、「そうだな、恵まれていた。局長に就いてからも周りの部下たちが優秀だった。それでなんとかやってこられた」
「羨ましい。それでどうして辞めるだなんて」
返答にはしばし間があいた。
「……死んだのさ」
黒田は頭を起こし、肘かけに頬杖をつく。
「誰が?」
「昔付き合っていた女性が。ついさっき」
白石は軽くぽかんとした。
「それで?」
「それで、だ」
「それだけの理由で?」
「ああ。私が維持局に留まる意味がなくなった」
「何です? 繋がりがよく……。その女性と何か約束を? パトロンのひとり?」
「いや」
黒田は苦笑する。
「意味がなくなった、というより、初めから意味なんてなかったのかもしれん。ただの私の独り善がりで、彼女を見守っているつもりだったのかも。彼女のために別段何かをしてあげたわけでもなし」
「不倫相手、でした?」
からかうように白石がにやけた表情をみせる。
「違うよ。彼女との関係はとっくの昔に切れていたさ。――だから私が維持局に居続けたのは無意味なことで、その無意味な行いは」
はたと言葉を止めて、黒田は宙を見つめる。
「行いは……」
「行いは?」
「行いは……、何だろうか?」
ガクっと白石は肩を落とした。
「それはないでしょう、黒田さん。僕にきかれても知るわけがない」
「そうだな、すまない。私自身もよくわからないのだが、でも、あえて言うなら……罪滅ぼし、か」
「へぇ。罪滅ぼしですか。殊勝なことですねぇ。いったいどんな罪を?」
「さて、どんな罪だったかな」
「またまた。とぼけて」
「たくさんあるのさ。無意識に彼女を傷つけていたことや自分の理想を押し付けていたこと、彼女が大変なときに逃げていたこと、自分のことばかりが大切で勝手に拗ねて支えようとしなかったこと、資格もないのに彼女の大切な人に激しい嫉妬の念を燃やしていたこと。そして」
黒田は小さく笑った。
「罪滅ぼしをしてこうして楽になろうとしていること」
「――で、罪は滅んだのですか?」
「……ああ。そう言ってもよい出来事に遭った。むしろこの時を私は長々と椅子に座って待っていたのではないかと思ったくらい」
「ほう。それが彼女の死、だった?」
「いや……違うな。直接的には、違う。彼に会ったことだ。彼の助けになることが重要だったのだ」
「彼?」
「そう。彼女の大切な人――恋人」
「その人物に会ったと」
「本人ではないがな。彼は四十年以上も前に死んでいる」
白石は小首を傾げ怪訝な顔をする。それを見て黒田は苦笑して言った。
「急な呼び出しの正体だ。彼女はうちの局員でね、同じ局員のとある青年と心中をはかったんだ。その青年が当時の恋人と瓜二つの顔をしていたのさ」
「双子? クローン?」
「双子はありえない。クローンは私も疑ったが、おそらく違う。青年とは会ったことはおろか、顔も知らなんだが、存在は知っていた。どういう存在かは知っていた。だからそう言える。血縁関係もない。彼らが瓜二つなのはまったくの偶然なのだ」
「ふむ……。しかし瓜二つとはいえ、そんな初対面も同然な青年を助けることが重要に?」
「これは私の錯誤だが、青年と恋人の彼とを重ね合わせて考えているのだ。――彼に嫉妬していたと言っただろう? それを払拭したかった」
「嫉妬することくらい、罪悪感を持つほどのことでもないでしょうに」
「そうなんだろうけどね……彼が死んだと知ったとき、私が殺したのではないかと恐怖にかられた。手を使わず、憎しみの念だけで人を殺すなんてそんなバカな話があるわけがないのに、パッとそう思ってしまったのだよ」
自嘲するかのように言って、それから静かに目を伏せた。
「その思いが何十年と消えずにある。タイミングがタイミングだっただけに、頭に強く焼きついたのだろうな」
「そうですか」
「おそらく彼女もまた彼と局員の青年を重ねていたのだと思う。でなければ心中などはかりはしない。そういう女性だ。絶対に会えないはずだった恋人に最期に会い、看取られて、幸せだったと思う。少なくとも、私はそう思いたい」
「そのほうが心が楽になる?」
「そう」
黒田は白石のほうに視線を戻す。目元に笑みを含ませていた。
「まともに考えれば無関係なのだが、彼女の最期が幸せであったということと、彼の助けになって彼女に報いた気持ちになることが、重要だったのだ。勝手に抱いた二人に対する自責の念と罪という重荷をおろすには、これらの要素が必要のようだった」
「長いあいだ辛い思いをしながら局長の座に就いていたのですなぁ」
「さて、それがどれほどのものだったか。くだらない話さ」
「ともあれ、もう贖罪は済んだのでしょう? これから心安らかに余生がおくれますな」
「きみに聞いてもらうとなんだか軽い話のように感じるなぁ。苦しんでいた私がバカみたいじゃないか」
「相手にそう感じさせるのが僕の得意なところでして」
顔を見合わせて互いに笑う。
「ところで、その局員の青年というのは『アダム』のことですよね?」
ごく自然に言い放った白石の言葉で、一瞬にして黒田の顔から笑みが消えた。
「ああ、そうそう『佐伯侑祁』と名を変えたんだったか。彼がエリア1から出て以来会っていないから、最後に会ったのは十何年前のことになるのか」
「何だい……きみ、侑祁くんを知っていたのかい」
「仕事上」
「――ひとが悪い」
黒田が嘆息する。白石は笑う。
「あくまで仕事上で、ですよ。彼が何者なのかは提出された書類以上のことはわからない。さきほども言ったでしょう、詳しくは知らない、知りたくもないと。私は黒田さんと同じく余計な詮索はしない性質なんですよ。なのでアダム・プロジェクトとやらもほとんど名前しか知り得ていません」
「それで、どうしてきみが侑祁くんの心中のことを?」
「連絡が来まして、神山さんから。黒田さんが帰ってくるほんのちょっと前に。四十何年か前の殺傷事件の被害者について調べていて、街頭の防犯カメラの映像を確認したいから力を貸してほしい、と」
「……ショウ……」
白石の耳には届かぬ小さな呟きを黒田はこぼした。
「秘書に任せて警備局に向かわせたら、すぐに佐伯さんの件が報告にあがってきまして。警備局は大忙しで、僕の頼みを聞いてる暇なんぞないと。どうやらカミサマたちが動いているようで」
「……ああ」
「局員の大半がかりだされて、維持局の建物全域の警備と佐伯さんが映る防犯カメラの映像をすべて削除する作業に追われているらしい」
「侑祁くんが所属する班のラボ内で盗聴器が見つかったんだ。他にも同様の物がないかカミサマがたの部下が隅から隅まで探している。発見された盗聴器の犯人の目星がもうついているみたいで、それがなにやらよろしくない相手だったらしく、躍起になっていたよ」
「ラボ内に設置されたカメラの監視員の行方が知れないとか」
「……怖いことだ。彼もうちの局員なのだが、おかまいなしだ」
「抗議は」
「できると思うか? むしろ受けるほうだ。施設内――よもやA級本部に盗聴器なぞ。管理の甘さが問われる」
「はーあ」
やにわに大きな溜め息をこぼしながら白石は伸びをした。
「辞めといてよかった」
心底安心したような物言いに、思わず黒田は苦笑する。
「薄情だな、きみは。憐れんでくれてもよかろう」
「これを口実に辞めるという手もありますよ。責任を取るかたちで」
「私のことはともかく、砂川くんが泣くぞ」
「泣きますかね?」
「少なくとも笑いはしないと思うが」
「こと、アダム関連では、そうでしょうな」
「何かあるのかい?」
「砂川はね、どうにも佐伯さんと神山さん――世話役のほう――のエリア1での扱いに納得できないみたいで」
しょうがないやつだ、といったふうに白石は肩をすくめた。
「たかだかエリア5に住むなんでもない普通の青年がエリア1に出入りし、あまつさえ警護リストに登録されている理由がわからない、と言って」
ふっ、と黒田はただ鼻で小さく笑った。
「それでも百歩譲って佐伯さんのことは戸籍もあるし認めるらしいですが、戸籍もなく偉そうに依頼をしてくる神山さんのことは譲れないんだと」
「神山くんはね、そうだね。言うなれば透明人間みたいなものだから」
「僕は幽霊にたとえました」
「それはあんまりだろう」
「見える人には見える、ってことですよ。存在の有無が人によって違う」
「ほう。なるほど」
「困ったことに砂川は見たがる、正体を知りたがって探ろうとする」
「そういう、きみとは逆の性質だとわかっていて彼を後任にすえたんだろう? たしかに真面目で仕事熱心で正義感の強いところは買いたいが」
白石は手を振る。
「仕事熱心だなんて、正義感が強いだなんてとんでもない。砂川は独善的なだけですよ。警備局の仕事はエリア1の警備と警護リスト登録者の警護、随時依頼を受けての警備もしくは警護。それは対象がどこであっても誰であっても、です。対象を詮索して個人的判断や私情でもって警護するしないを、砂川は決めかねない。その危うさがある。あるからこそ仕事に熱心とも忠実とも言えない」
黒田はしきりに頷いてみせた。
「きみがこんなにまともに仕事を語るのは初めてだ」
「そんなことはないでしょう」
「いいや、ある。――けど何で砂川くんに? 副局長だったから?」
「まあ……そんなところです」
曖昧に白石は微笑う。
「僕のほうにも色々とあるんですよ」
「そうか。……砂川くんには生きにくかろうな。きみがなんと言おうと、やはり私には彼の性質に少し羨むところがある」
「我々にはないものですからな」
「苦労を重ねるばかりになりはしないか、心配だ。きっと在任期間も長くはないだろう」
「その点は継がせた僕も、悪いことをしたと、思ってはいます」
「これはきみの罪だよ」
「でしょうなぁ」
白石はくつくつと笑った。
「――さて」
と、話しに区切りをつけて黒田はソファから立ち上がる。肘かけに手をつき、腕の力を利用して鈍くなった身体を持ち上げる。
「そろそろ行こうか。夕食の時間だ。きみも食べていくだろう? 当然」
「黒田さんがそこまでおっしゃるのなら、ご一緒させていただきましょう」
「調子のよいことを。きみが時間を指定して会いにくるときはうちの食卓が目当てだろうに」
白石も腰を上げて黒田のあとにつき、ドアに向かう。
「料理はおいしいし、なにより賑やかなのが楽しい。羨ましい限りですよ。うちは女房ひとり、それもしょっちゅう友人と出かけてしまうので静かなものでね」
「子供は持たなかったんだっけ?」
「ええ」
「そうか。――ああ、忘れるところだった」
ドアを開けたところで黒田は足を止めた。
「何か?」
「きみに頼みたいことがあったのだった」
「なんです?」
「孫がもうすぐ就職先を探す時期らしい。そこでどうかな、どこかいいところをきみに斡旋してほしいのだが。引き受けてはくれないかな」
「そんなこと」
白石は黒田の背中を軽く押して、退室を促した。
「お安いごようですよ」