キミの名は
……古来、先天的な身体障害者は『神に選ばれた特別な存在』とされていた。
神殿は神の験の顕れとして彼らを養い、古代ローマ貴族の家には防腐剤のハチミツで漬けられた異形の死体が飾られていた。日本でも柳田國男だかのレポートに、『神に捧げた』ため直系の男子が皆片目を失って生まれてくるという祭司の一族が記されている。
この世界を創造した7柱の神の一人で、知恵の泉の巨人にその片目を差し出した長耳の一族の神オーディン。
左目に傷を持つ楽天王子ことグレリー。
そして今、ガラス窓を隔てた向こう側でお姫様と話している彼女の許嫁、左目に眼帯を巻いた辺境の貴族グリ……ムリパーだっけ。
三人の男に共通する『片目』の異常。
『表に出ている分かり易い症状に気を取られるな!!』とは、救急分野でなくても臨床医学全般で徹底的に叩き込まれる基本中の基本……なのだが、この奇妙な一致は振り払おうとしても、どうしても頭から離れようとしなかった。
「……しっかし二人とも、何話してんだ?」
もちろん普段の俺なら恋人同士の会話に首を突っ込むほど野暮では無いが、あのグリンピース野郎は俺を牢屋にぶちこんだ張本人。まぁそれも正確には、俺をなし崩し的にお家騒動に巻き込もうとしたグレリーが、デューあたりを使ってこっそり通報したのが遠因なのだろうけれど。
なんにせよ、お姫様が俺を牢屋から連れ出したと知った彼がどんな反応を示しているのかには興味がある。
ざまーみろ的な意味でも。
カーテンの影で死角になるように姿勢を低くして、分厚い窓ガラスにぴたりと耳をくっつける。すると頬にひんやり冷たい感触と共に、言い争うような男女の微かな話声が聞こえてきた。
『―――の方は私たちを怪物から助けて下さったんです!! それを、お兄様と一緒にいたというだけで氷冥牢送りなど……軽率が過ぎます!! 大体あそこに入って生きて帰った者がいないことは、そこいらの子供でも承知しています!!』
『それは、今は取り調べを行う余裕が無いからだとさっき説明したじゃないか。大体婚儀が終わるまでは怪しい者を王都に近付けないようにする。これはキミも同意してくれたことだ』
お、やってるやってる。
『たとえどんな理由があったとしても、あまりに乱暴ではありませんか!! お兄様のことも罪人のように扱って……』
どこか落ち着かないような口調のお姫様。
『あれから人をやって調べさせてみました。グリム、あなたの連れてきた銀館騎士団の評判ですが、あまり芳しくありません。市民はもちろん、警邏隊や親衛騎士団とも多数のいざこざを起こしています』
『彼ら銀館騎士団は亜獣や皇竜の一族と国境を接する地で、長年外敵と戦い退けてきた精鋭たちだ。辺境伯の立場から言わせてもらえば、王都の兵には危機感が足りなさすぎる。キミが襲撃された件も、腑抜けた近衛騎士団でなく最初から彼らが護衛に付いていれば、皆を危険に曝すことも無かったはずだ』
一方で自信満々に弁舌を振うグリム。
『それに姫、ギュルフィ王子はキミの兄である以前に、キミの政敵であることを忘れて貰っては困る。警邏隊ごっこも結構だが、キミももう大人の仲間入りをする年だ。少しは自重というものを覚えて欲しいな』
冷水を頭から浴びせられたようになったお姫様は、夫となるべき人物の言葉にショックを受けたのか、食器棚に手をかけながらよろよろと後ずさる。
『そんな……私は、お兄様のことをそんなふうには…』
確かにグレリーはこいつの政敵になるかもしれない。でもその実の妹相手なら、もっと言い方があるだろうに。
しかもこいつ、自分のギンギラ騎士団を大層誇りに思ってるみたいだけど、あの日は戦いが終わってからのこのこ現場に現れたという失態を、一体どう考えているんだか。
風が吹いたら延着って、武蔵野線かお前ら。
『グリム、あなた一体どうしたというの!? 昔のあなたは私とお兄様が喧嘩をしていたら、仲直りするようなりふり構わず必死で執成してくれたのに……私は神託を受けて、添い遂げる相手が貴方だと知って嬉しかった。でも貴方は―――』
私を愛してくれているの?
多分そう言おうとしたであろうお姫様の言葉が途切れた。しばらく何の音も聞こえてこないので、ガラスから耳を離して中の様子を覗う。
「なっ!?」
うっかり声を上げそうになり、思わず自分の口を押えた。
歪んだガラスを通して見える室内。そこにはお姫様の手首を押さえて動きを封じ、その薄紅色の唇を強引に奪うグリムの姿があった。
突然のことでお姫様は、自分に何が起きたのか分からなかったらしい。
彼女は普段とは考えられないような呆けた顔で天井を眺めていたが、やがて嫌がる猫のように激しく身体を捩って拘束から抜け出すと、目尻に雫を浮かべてきっと婚約者の顔を睨みつける。
『い、いきなり何をするの―――っ!?』
抗議の言葉は二度目の口づけで遮られた。
それも湿った音がガラス越しにでも伝わってきそうなくらい濃厚な。
いつ果てるともしれなく続いたその行為は、やがて男の方がお姫様を開放することで終わる。唇が離れる際、つうっ、と透明な蜘蛛の糸が垂れ赤い毛氈の上に落ちた。
酸素を求めるかのように浅い息継ぎを繰り返すお姫様の荒い呼吸の音が密室に木霊する。
『……そういえばファーストキスは、キミの方から僕に捧げてくれたんだったかな』
グリムが過去を懐かしむような顔になり、ふと独りごちた。
しかしその一言がお姫様の何かのスイッチを押してしまったらしい。
『そんな子供の時の話!! 今の―――今のあなたにじゃない!!』
そう叫んだ彼女はぽろぽろと大粒の涙を零しながら、戸棚のティーカップや茶筒を手当たり次第に投げつけ始めた。
幼い恋心を、思い出を、憧れを土足で踏みにじられたお姫様の姿は、泣きじゃくる子供のようだ。
グリムはしばらく黙って飛んでくる茶葉やスプーン、ソーサーの雨に打たれていたが、やがてばっと手を振り払うような動作をした。すると放物線を描いていた雑貨達はぴたりと空中で動きを止めたかと思うと、やがて重力に従い次々と絨毯の上に落ちていく。
そのまま彼は両の腕でお姫様を抱き上げると、手足をバタバタさせて抵抗する彼女を天蓋付きの大きなベットへと運び、とさり、とその身体をシーツの上に横たえさせた。
『あ……』
お姫様の小さく開いた口から掠れた声が漏れた。
だがグリムは気にした風も無く自分も靴のままベッドに上がると、シーツを握りしめギュッと目を閉じたお姫様にのしかかる。
――――ブチッ!!
その恐怖に歪んだ顔が目に入った瞬間、自分の中で何かが切れた音がした。
気が付くと俺は隠れていたことも忘れて、大きく開いたテラス窓に向かって駆け出していた。
部屋に飛び込むと、今まさにお姫様のドレスに手をかけようとしているグリムの姿が目に入る。
「だぁああああっっっ!!」
怒りで沸騰し赤く染まる視界の中で、突如現れた闖入者に驚き動きを止めたグリムの姿がどんどん大きくなる。
目標確認!!
喰らえ!! メキシコの空高く舞う仮面貴族ミル・マスカラス直伝!!
「医令強制終療脚!!」
キックと言いながらドロップキックかフライングボディアタックか分からない全力疾走からの攻撃。投射運動しながら俺は無防備なグリムの横っ腹にぶつかると、弾性衝突のようにして彼の身体をベッドの上から弾き飛ばした。
そして運動エネルギーを失った自分は代わりに落ちる。お姫様の上に。
「きゃあっ!?」
可愛らしい悲鳴を上げた彼女はおずおずと目を開き、そして自分の上にいるのがグリムでなく俺だということを認識すると、少し安心したような顔になった。
と思った直後、真っ赤になったお姫様の『はたく』が俺の頬をクリーンヒット。
こうかはばつぐんだ!!
はたかれたついでに指が鼻の頭を掠めた衝撃が脳天に突き刺さり、思わず目元を押さえてベッドの上に屈みこむ。
やべ、ちょっと鼻の奥にツンと来て涙出てきた。
「姫の寝室に忍び込むとは、狼藉者めが……」
指の間から声のした方を見ると、絨毯の上で痛そうにぐきぐきと首をひねりながらこちらに怒りの眼差しを向けるグリムの姿があった。
「下郎、さっさとその汚らしい足を下ろせ!! いや、その前に名を名乗るがいい!! 貴様を血祭りに上げた後、一族郎党纏めて誅戮してくれる!!」
んなこと言われて名乗る奴がいるかってんだ。
俺が黙っていると勝手にヒートアップしてきたグリムは、金銀細工で飾られた腰の儀礼用サーベルを抜き、その切っ先を俺に突き付けた。
何も考えず咄嗟に飛び出したおかげで、俺の手元に武器になりそうなものは無い。
なら素手で剣を持った奴と戦えるかといえば、剣道三倍段。残念ながら俺の段位は高校の体育で取った初級止まり。相手が三級以下の腕前であることを期待するのは無謀すぎる。
何か使える策は、と視線を巡らせると、もう一度お姫様と目が合った。さっき俺をひっぱたく勇気を見せた彼女は、今は事態に付いて行けないのもあるのだろうが、シーツに包まる様にして身を隠して震えている。
……どう転ぶか分からないけど、これで行くか。
「どうした?! それとも名も名乗れぬほど下賤の者か!!」
「知りたいか? ならば教えてやろう!! 俺の名は……」
勿体をつけながらちらり、とベッドシーツの方を見る。白いシーツの盛り上がりは、お姫様の身体の美しい曲線を間接的に描き出していた。
よきかな。
「おっぱい大好きおっぱい丸だ!!」
「そうか、おっぱ……え!?」
「おっぱい大好きおっぱい丸だ!!」
大事なことなので二回言っておく。
「あれ、お前は好きじゃないの? おっぱい」
「それは…………!!」
素直に答えかけてハッと相手のペースに巻かれていることに気付いたグリムは、サーベルを構え直して憎々しげに俺を見る。
ちなみに俺は、
魔乳が好きだ。
巨乳が好きだ。
普乳が好きだ。
微乳が好きだ。
無乳が好きだ。
この地上に存在する、ありとあらゆるおっぱいが大好きだ。
俺の名前を知っているはずのお姫様は、あまりにもアレな偽名に二の句が継げないらしく、目を丸くしたまま固まっていた。
「この期に及んでその巫山戯た物言い、どうやら死ぬ覚悟はできているようだな下郎」
サーベルが血を求めるようにぎらり、と怪しく光る。
「知るか馬鹿!! そんなことよりお姫様、嫌がってただろうが!! 口に言い返せないから手籠めにして誤魔化そうなんて、お前の方がよっぽど品性下劣じゃねぇか、この勘違いマッチョイズム野郎が!!」
頭に血が昇ってテンパってるせいか、刃物を向けられているにもかかわらず、不思議と恐怖は感じない。
「ほざくな!! ならばその小五月蠅い口から引き裂いてやろう!!」
グリムが吠えると同時に、まるで彼の怒気が伝わったかのように部屋の中の空気が張りつめる。
「姫、部屋を下郎の血で汚すことを許したまえ……」
大きく開いたテラス窓から吹き込んできた風が渦巻き、カーテンがバタバタとはためいた。
む、騒ぎ立てて萎縮させるつもりだったのだけど、逆効果だったかもしれない。
この気圧が不自然に変動する感じ、昨日の戦いでデューが空気弾を使った時の感覚を思い出させる。グリムは精霊魔法を使おうとしているのだろう。
デューの使った空気弾は、離れたところから俺の身体を何メートルも弾き飛ばすほどの威力を持っていた。あれは当たりどころを考えて放たれたものだったけど、今目の前にいる男は俺を殺す気満々だ。
果たしてどこまで耐えられるか……。
「ん?」
ふと気が付いた。グリムの持つサーベル、そこから放たれる殺気が異常なくらいに増幅され……空気の刀身を構成しているようにも見えることに。
「貴様がどこまで減らず口を叩けるか、見せてもらおうか―――死ぬが良い!!」
声と同時に部屋の気圧がさらに急激な変化を巻き起こす。そしてサーベルの先端から飛び出した嵐の弾丸とでも呼ぶべき風の塊が、俺の喉元目がけて殺到する。
だがギリギリまで刀身に意識を集中していた俺は、弾丸が放たれるタイミングを見計らって一瞬早く首を引っ込めていた。
弾丸は逃げ遅れた髪の毛を2,3本巻き込んで直進し、ガラス窓をぶち破って外に飛び出す。
粉々に砕けたガラスの破片は、陽光を反射し水晶のように輝きながらテラスに撒き散らされた。
「嘘……精霊魔法を見切った……」
シーツの陰から恐る恐る覗いたお姫様が、信じられないといった風に呟く。
「馬鹿な!? このような下賤の者が、我が『風撃』を躱すなど!!」
面白いくらいに狼狽するグリム。
ところがどっこい夢じゃありません。現実です、これが現実。
っと、この隙は逃さない!!
「お姫様、今のうちにデューたちを呼んで下さい!! 早くっ!!」
放心状態でベッドの上にへたり込む彼女に強く呼びかける。俺単独で状況の打破は絶望的だが、外からの手助けがあれば何とかなるかもしれない。
俺の意図に気付いたかどうかは分からないが、とにかくお姫様は反射的にすっと右手を挙げた。
するとグリムの操る風とは違う優しい風が部屋の中に吹き込み、それはは白い漆喰の壁に備え付けられた、柵を取り付けた通気口のような穴に向かって駆け抜けて行く。
リンリン!!リンリン!!リンリンー――
壁の奥の方から狂ったように鈴の音が鳴り響くのが聞こえた。
なるほど、これは伝声管みたいな管を通して遠くの部屋に鈴の音を届ける仕組みか。
しかも風の精霊魔法が使えなければ意味の無い代物。流石エルフのお城、面白い構造になっている。
「……というわけで、残念だけど王手はもらった。もうすぐメイドがここに来るぞ。怯えたお姫様、魔法で壊された部屋。他人の目にはどう映るかな?」
「ぐっ!? 姫、なんということを!!」
「わ……私は……その……」
いかにも恨めしそうなグリムにお姫様はどう答えていいのか分からず、か細い声で鳴くばかり。
「こうなっては邪魔が入る前に決着を付けるしかない。下郎、覚悟!!」
再び俺に突き付けられたグリムのサーベルを、暴風と殺気が包み込む。
「やってみせろよ、ド下手糞!!」
「くたばれ!!」
襲い来る嵐の弾丸を、さっと余裕の反復横跳びで回避。
「無駄だ!!」
「死ねっ!! 死ねっ!! 死ねっ!!」
連続で『風撃』を繰り出すグリムだが、
「ほっ!! ふっ!! はぁっ!!」
俺はベッドの上で踊る様にしてひょいひょいと逃げ回る。
嵐の弾丸は、もはや掠りもしない。
「何故だっ!? 何故当たらないっ!?」
当たり前だ。風を使った不可視の攻撃だが、こいつの攻撃はよく『視える』。
どっかの静かなるサラリーマン狼じゃないけど、殺気の線というか、狙っている方向場所が何となくでも読めてしまう。また気圧変化の中心を探ることで、殺傷力を持つ危険領域を絞り込める。加えて有難いことに、攻撃自体もワンテンポ遅い。
多分これがデューの言ってた、精霊魔法の持つ『精霊にお願いする』タイムラグ。
距離をおいて使う分には問題無いのだろうけれども、この欠点は近接戦闘では致命的だ。
そしてこいつが欠点に気付いていないということはつまり、こいつは今まで自分より弱い相手にしか『風撃』を使ったことが無いことを意味していた。
「……反吐が出るな。マジで」
その相手が何だったのかは想像に難くないし、想像したくも無い。
「おのれちょこまかと!! ならこれはどうだ!!」
痺れを切らしたグリムがサーベルを横に構える。それを見た俺は、頭に上った血が一気に冷めるのを感じた。
ヤバい、こんな技まで持ってたのか!!
グリムが手に持ったサーベルで空を真一文字に薙いだ。その途端ひゅお、っと悲鳴のような音を上げる風の水平線が首元に迫る。
「危ねっ!?」
攻撃が見えないわけでは無い。だが安全マージンを考えると、これまで以上に危険な範囲が広いため、必然的に動きが制限されてしまう。
間一髪身を屈めて回避した俺の後ろの壁面に、まるでギロチンでも叩きつけたような深い傷跡が刻まれた。
あれを喰らったら、と思うと背中に氷柱でも突っ込まれたような冷たいものが走る。
「さっきまでの余裕はどうした、下郎」
「うっさい黙れタコ!!」
二撃目を放つ準備をしながらグリムがいやらしい笑いを浮かべるのを、大声で跳ね返す。しかしそう言いながらも、自分でも声に自信が無くなってきているのが分かった。
ああったく、早く来てくれデュー!! 間に合わなくなっても知らんぞ!!
「―――もう止めて下さい!!」
不意にお姫様が、シーツを跳ね除け立ち上がった。そして俺とグリムの間に割り込み、鋭い視線を婚約者に向かって投げかける。
「どくんだ姫。このままではキミも傷つけてしまう」
「いいえ、どきません。この方は私の客人で、恩人なのです」
「だとしてもだ、先ほどからの貴族を貴族とも思わない無礼な言動。この男を見逃せば、いずれ大きな禍根となる」
「だとしてもです……お願いグリム、元の優しい貴方に戻って……」
お姫様の白く小さい肩は、恐怖と悲しみで震えていた。
嬉しいけど、これは無謀だ。相手は既に抜き身の刃を握っている。
いざとなったら彼女の襟首引っ掴んででも一緒に逃げられるか?
足しになるとも思えないが少しでもプレッシャーをかけられるよう、精一杯視線に力を込めてグリムの顔を睨みつける。
と、俺を見たグリムが訝しむように目を細めた。
「翠の瞳……そうか貴様が……」
サーベルから放たれる殺気が、一際大きく膨れ上がる。
「ただの無礼者かと思っていたが、ならばなおさら生かしておけんな!!」
刀身から伸びる暴風の刃が天井近くで歪な『く』の字に曲がった。
お姫様を避け、後ろの俺に止めを刺せる鎌のような形。
「くそっ……」
もう口先での時間稼ぎは限界だ。後は気力体力の続く限り逃げ回るしか手は無い。
唇の端を噛み締める。
『そこまで!!』
観念しかけた俺の耳に聞き覚えのある凛とした青年の声が響いたかと思うと、今にも振り下ろされんばかりだった風の鎌が中空に弾けて形を失う。
唖然としているグリムをよそに入り口の扉がバンッと勢いよく開かれた。同時に飛び込んできた黒い影が疾風のように彼に近付くと、その背後を取った。
「剣をお納め下さい、グリムニル辺境伯。婚礼を控えた御身を傷つけたくはありません」
直刀の刃をグリムの首筋に突き付たデューが低い声で囁く。敵意を隠そうとしない語気からは、彼女の怒りが十二分に伝わって来た。
グリムはなんとか抵抗しようと試みたようだったが、やがて無駄と分かると不承不承サーベルを腰の鞘に戻した。
「姫様~っ!! ご無事でしたかっ!? どこも怪我しておりませんかっ!?」
遅れてどたばたと足音を立てながら部屋に入ってきたのは、あの長身メイドのロフ。
彼女はお姫様の姿を認めると顔色を変えて駆け寄り、その銀髪の頭を思いっきり自分の胸元に抱きしめた。
うわ、身長差あるから前方裸絞めが見事に極まってんぞ。
お姫様の顔がどんどん真っ赤になっていく。
「だ、大丈夫!! 大丈夫ですから!!」
「本当ですか姫様っ!?」
「本当です!! だから離して苦し……」
色が赤から青に変わりかけたところで苦しそうなお姫様に気付いたロフは、やっと両腕の拘束を開放する。
「デューフェ、ドゥロフ。二人とも、スノを別室に連れて行くんだ。少し休ませてやらなければ」
最後に部屋に姿を現したフードの男、グレリーこと第一王子ギュルフィが命じると、メイド二人はまだふらつくお姫様の両肩を支えるようにして付き添う。
去り際お姫様は俺に、そして婚約者のグリム向かってちらと悲しそうな視線を投げかけたのだが、結局何も言わずメイドたちに従い、開いたばかりの扉から出て行った。
部屋の中には俺と、そしてグレリーとグリムの3人が取り残される。
「この男も貴方の差し金ですかな、お義兄様。夫婦の語らいの場に政を持ち込むなど、無粋とは思わなかったのですか」
お姫様を逃したからか、革靴のつま先で俺を指しながら嫌味たっぷりにのたまうグリム。
「スノはお前の妻じゃない、僕の妹だ。 今はまだ……」
言い返すグレリーだが、その語勢は避けようのない未来を知ってかどこか弱々しい。
そんな彼の様子を勝ち誇ったふうに眺めるグリムは、乱れてしまった自分の礼服の皺を払い、裾を整える。
「お義兄様、いやギュルフィ殿下。殿下がそこの卑猥な名前の男と何を企んでおられるか存じませんが、全ては遅きに逸した」
「グリム、お前は……」
では殿下、次は式の当日に……そう言ってグリムは踵を返すと、俺たちに背を向けて悠々と去って行った。
「ふぅ、行ってくれたか……」
その姿が見えなくなった途端に膝の力が抜け、ベッドの上にぺたんと座り込む。
悪いと思いながらシーツの端で、額に浮いた冷や汗を拭った。
「スクナさん、遅くなって申し訳ありませんでした」
「いや、間に合ったから結果おーらい。まぁデューだけだと思ってたから、お前が来たのには少し驚いたけどな。つ~かさ、言っちゃなんだが、あんなのがお姫様の旦那になっていいのか?」
フードで顔を隠し直したグレリーに問いかける。
「彼は……グリムは優しく気のいい青年でした。僕も彼のことを本当の弟のように、スノも兄のように慕っていましたし……」
「あれを見る限り、仲のいい幼馴染だったってのは信じられないけどな」
もしかして辺境伯ってくらいだから、前線で戦争しまくって世界に絶望したとか、そういう展開か? 気球にガス詰めて首都突撃させる系の。
「それについて、スクナさんに改めてお話したいことがあります」
「おっけ、俺も色々聞きたいことができた。ってか、無理やり巻き込んだんだからちゃんと説明はしてもらうからな」
でもそろそろ場所を移した方が良さそうですね、と廊下の方から聞こえる人の集まってくる音を意識しながら、グレリーは俺の腕を取りベッドから引き起こした。
「にしてもスクナさん卑猥な名前って、グリムには一体何て名乗ったんです?」
「緊急事態だったんだから、笑うなよ……おっぱい大好きおっぱい丸だ」
「ぷっ!?」
神妙に答えた俺にずっと渋面し通しだったグレリーは、今日初めてフードの陰で少しだけ微笑んだ。