とある兄妹の物語
「姫様、例の男をお連れしました」
デューが白く大きな扉を叩くと、中から『入りなさい』というお姫様の高く澄んだ声が返ってきた。
扉が開かれ、デューに促されるまま一歩中に足を踏み入れると、丈の高い絨毯が柔らかく足の裏を包み込む。何という柔らかさ。このまま身を投げ出してごろごろしたくなる欲求に必死で耐える。
「デューフェ、ドゥロフも、朝早くからご苦労でした」
お姫様――グレリーの妹である第一王女スノラダは窓べりの小さな椅子に座ったまま、俺の頭からつま先まで値踏みするかのような視線を投げかけてきた。
……例の牢獄から脱出し王城に辿り着いた俺は、すぐさま着ていたものを引っぺがされ、地下にあるお風呂場ならぬ洗濯場の煮洗い用釜に放り込まれて徹底的に洗われた。
そして一通り体が綺麗になった後は不要な毛を剃るべく、意識を取り戻したロフが大鋏を持って俺が釜から上がるのを待ち構えていたのだが、ここである異変が発覚する。
髪、爪、髭、その他の体毛に至るまで、俺の体には何も手を加える場所が無かったのだ。
この世界に来てから色々あったけど、実質まだ10日かそこら。爪や髪はともかく、髭が伸びていないのは確かに異常と言えるだろう。つ~か気付け俺。
だがそれ以前に、恐竜島でアニサキスと戦った時ナルカの魔法による超高圧電流を受けた俺の全身の毛は、一度全部焼けてしまっているはず。似たような経緯でアニサキスと共に自分を焼いた男衆頭のバウンさんも、体が癒えても毛は生えずに、ナルカにハゲハゲ言われてたし。まぁ彼は美人の年下嫁がいる勝ち組だからいいんだろうけど。
しかも俺の体の異変はそれだけではなかった。
服を整えるため、この世界に来て初めて出会ったまともな鏡の前に立ち、自分の顔をまじまじと見つめることで分かったこと―――明らかに顔が違う。
つ~か大分若返ってる。
以前酒場で免許証の写真と比べて若いと言われた記憶はあるが、冗談だと思っていた。しかし鏡の前で比べてみると、確かに若い。パッと見20歳前後の大学生にしか見えない。
あれか、ナルカの雷撃が皮膚の新陳代謝を促し、お肌の若返り効果を……ってんなワケあるか!!
デューに相談してみたところ、彼女も初めて聞く現象らしくしばらく首をひねっていたが、年を取るよりましじゃない、羨ましい、と言われ結局流された。
女の子からしたらそうだろうな~。
それは置いといて、用意された新しいリネンの白シャツ――コタルディとかいうYシャツとTシャツの間みたいな上着に腕を通し、黒いズボン、新品の皮のブーツを履くと、何とか最低限王城を歩いていても恥ずかしくない姿になることができた。
といっても本当に最低限で、例えるなら騎士の従者か馬丁の恰好。つまり三銃士のモブキャラあたり。
王都でもパン屋や酒場のある下町の住民は、古代ローマと中世イギリスが混ざったような服装だったけど、どうやら城壁の内側に行くにしたがって時代も下り、着ているものの質も良くなるみたいだ。
特に高級住宅街から上の住民は、ほとんど近世のフランスみたいな服装。
彼らを見ているといつか大砲引きずって市民革命起こされそうで、ちょっと怖い。ノーモアジャコバン、ノーモアロベスピエール。
「下がって、別命あるまで自室で待機していなさい。しばらく二人きりで話します」
メイド服のスカートの裾を持ち、深々とお辞儀をしながらデューとロフが退室する。
扉が閉まるのを確認してからお姫様がすっと手を上げると、鍵のかかる音。これも彼女の精霊魔法なのだろうか。便利だ。
そしてぼんやり突っ立っている俺と、座ったままこちらを見つめるお姫様だけが取り残された。
部屋の中を見渡すと天蓋付きの柔らかそうなベッドに、茶色や黒の木目も鮮やかな高級家具。小さな暖炉も備え付けてあり、その上には金の額縁に入った家族の肖像画―――もちろんグレリーも入った―――が飾られている。
何というロイヤル空間。
「お茶、お飲みになられますか?」
部屋の空気に呑まれていて反応が遅れたが、もちろんいただきますと頷くと、お姫様は長いドレスの裾を引きずりながら立ち上がった。
……改めて見るとやっぱり美人だな、この人。
朝日に照り映える新雪のような輝く銀の髪。くっきりした目鼻立ちは繊細な造りだが、目筋と眉に意志の強さを感じさせる。でも、パン祭りの時も思ったけど、笑うと年齢相応、いやそれより幼い感じに見えてとても可愛い。
何となくお姫様から視線を離せないでいると、彼女は部屋の隅に備え付けられた豪華な黒檀のクローゼットに近付き、扉を開けポットと放射機構式の湯沸しを取り出し、スイッチをひねった。
毎回思うけど上手くできてるよな、この放射機構ってやつは。
今みたいに宝玉に熱だけ閉じ込めれば、火を使わない携帯コンロになるし。いつか作っているところを見てみたい。
二人分の水なのですぐに湯沸しが笛を吹き、それをコンロから持ち上げたお姫様が茶葉を入れたポットにお湯を注ぐと、部屋中に紅茶のふくよかな香りが満ちた。
ダージリン系みたいだけど、その中にハイビスカスみたいな南国の香りが混じっているっぽい印象。
元の世界では嗅いだことのない華やいだものだ。
……どっかのお茶楽なフランス人なら既に作ってるかもしれないけど。
「花、ですか? いい香りですね」
少し湯を注ぐ手を止めたお姫様だが、すぐに作業を再開する。
「母の好きだった花です。もう盛りの季節は過ぎましたが、こうしていつでも楽しめるようお茶にして手元に置いています」
少し顔を綻ばせた彼女は、花柄のポットと簡素な白磁のティーカップを二脚盆に載せると天気がいいので外に出ましょう、と俺をベランダへと誘う。
白いレースのカーテンをめくり窓から外に一歩踏み出すと、その瞬間照りつける太陽と海の方から吹く心地よい風が俺の頬を撫でた。
「すごい、街が全部-――!!」
思わず声を上げながら、ベランダの端に駆け寄り、身を乗り出す。
そこからの眺めは間違いなく、俺がこの王都に来てから最高の眺めだった。
遠くに広がる水平線で上下に仕切られた、何も無い真っ青な海と空。
今日は波が荒いのか、堤防に寄せては砕けて激しい飛沫を上げる波涛。
港には帆を下ろした船のマストが林のように立ち並び、その間を小船が忙しく走り回っている。例の幽霊船の姿は無い。予定通りどこかの乾渠に運ばれたのだろうか。
そして下町の目抜き通りから俺たちが戦った中央広場、そこから第一城壁へと続く道では、沢山の人たちがブラウン運動する粒子のように忙しく動き回っている。
海と、空と、街と人と……王都の全てが一枚の絵に収まったかのような景観は、見ているだけで心を躍り昂ぶらせてくれる。
気付くとベランダに据えられた白いテーブルに座ったお姫様が、面白そうに俺を見ながらくすくすと笑っていた。
子供っぽい見せてしまったかもしれない。
少し赤面しながら彼女の対面に座り、勧められた白いカップを受け取った。
カップに唇を付け一口。
紅茶の豊かな香りと一緒に南国の花の爽やかさと、サルビアの蜜を吸った時のような僅かな一筋の甘さが咽喉と鼻腔を駆け抜ける。
「美味しいです」
もう二口ほど飲んでから、中身が半分くらいになったカップを置いた。
お姫様は良かった、と呟くが、自分のカップには手を付けようとせずこちらを見つめている。
「……それで、何で貴女は俺をここに連れてきたんですか? といいますか、そもそもどうやって俺が捕まったことを知ったのですか?」
単刀直入に尋ねる。
すると彼女は無言で懐から、一枚の茶色い紙と緑の宝石が填まった指輪を取り出すと、俺の眼の前に差し出した。
この指輪は……一昨日、パン祭りでお姫様が俺にくれた指輪だ。石に刻まれたXの紋にも見覚えがある。
俺が持っていても仕方が無いので、いずれリーシャに渡すつもりでイドルドさんに預けていたのだけど、それが何故ここに?
紙の方を見る。そこには拙い文字で、
『おひめさまへ
おにいちゃんがへいたいさんにつれていかれました
おにいちゃんをたすけてください
リーシャ』
と、書かれていた。
思わず胸が詰まる。
……そっか、そういうことか。
リーシャは俺がいなくなったことをアイーダさんに教えられて、夜中だってのに必死でこの手紙を書いたんだ。
所々滲んだようなシミがあるのは、泣きがなら書いたからなんだろう。
悲しませちゃったな。後で謝らないと……でも、嬉しい。
リーシャの顔を思い出しながら、ごめん、とありがとうを心の中で繰り返す。
「今朝、城門が開くのと同時に警邏隊の方が届けて下さいました。身の証に、と指輪を一緒に添えて」
なるほど、ケダルがやってくれたのか!!
昨日、班長と共に散々怪我のことで怖がらせてしまったけど、あいつにも後で礼を言っておかなければ。
「いい妹さんですね……本当の妹ではないのに、こんなにも心配してくれて」
はっ、とお姫様の顔を見る。
柔和な笑みを湛えているが、その目は笑っていない。
「調べさせていただきました。彼女、リーシャちゃんに血の繋がった兄はいません」
「……そうだ。でもあの子は俺を兄と慕ってくれた。だから俺は、あの子の気持ちに応える。それだけの話だ」
俺が断言すると、お姫様は小さく息を吐いて眼の力を抜いた。
「結構です。あなたが何者なのか、どんな目的を持っているかに今のところ興味はありません。それに広場で共に化物と戦った時、その根が悪でないことは十分に分かりましたから」
角砂糖を入れ、くるくるとスプーンでカップの中を掻き混ぜるお姫様。
そしてその指先が止まり、彼女は俺の眼を再び見据える。
「私が知りたいのはただ一つ。あなたとお兄様がどのような謀をしていたか、それだけです」
ん?
まぁ確かに傍から見れば何かしら企んでいるように見えたかもしれないけど、俺がグレリーに頼まれてやったことって……
「パン祭りに出てくれ、と頼まれただけです。リーシャと一緒に」
「はい?」
思わず素っ頓狂な声と共にお姫様が取り落としたティースプーンが、カップの縁に当たってキン、と軽い音を立てた。
「それだけ、ですか?」
「残念ながら、それだけです。パン工房のイドルドさんが怪我をして、リーシャに保護者が必要だったってことで」
「本当に?」
「本当に」
「本当に本当に本当? 嘘なんかついてないでしょうね?!」
あ、何かお姫様の口調が砕けてきた。興奮してテーブルの上に体を乗り出す。
……目の前に胸の谷間が迫ってきて、ちょっと困るんですけど。しかもあなた、ブラジャーしてませんよね?ね?
この人、もしかしてこっちが地なのか?
「本当に本当に本当に本当に本当の本当だっての!! あいつに会って軍資金もらって、リーシャと一緒にパン祭りに出た!! それだけだ!!」
「本当に、何も無いのね!?」
「くどい!! 何も無いったら何も無いし、そもそも知り合ってまだ数日だぞ」
いつしか互いに接近し、敬語も忘れて鼻先を突き付けあっていた。
気づいたお姫様はゆっくりと腰を降ろし、レースの刺繍が入ったハンケチでうなじに浮かんだ汗の珠を拭く。
「なら質問を変えましょう。あの人、お兄様は私の事、何か言ってなかった?」
気になるなら自分で聞けばいいのに、と喉元まで出かかった言葉を飲み込む。
どうしたものかとしばし考えてみるが、誤魔化したところで意味は無いと腹を括って話し始めた。
「え~と、まず『意外とキャンキャン煩い』」
お姫様の表情がむっとしたものに変わるが、こほん、と咳払いしてすぐに元に戻る。
「続けなさい。構いません」
「あとはそうだな、『腹芸ができる子じゃない』くらいか」
「…………お兄様……あんのスットコドッコイ……」
この界隈で定着してんのな、その呼び方。
いや、この調子だともしかするとお姫様が出所かも。
「確かにデリカシーは無いけど……でもあいつ、お姫様のこと悪く思ってるようには見えなかったけどな」
「…………」
彼女は黙って紅茶をすする。が、その手は動揺でか少し震えていた。
俺にもグレリーの真意がどこにあるかは分からない。でも例の地滑り救援の件にしても、妹に泥がつかないよう気を使ってるふうにも感じたのは確かだ。
この兄妹、取り巻く状況のせいで立場が別たれてはいるけれども、実は世間が想像しているほど仲が悪くないんじゃないか?
単にお互い意地を張り過ぎて、修正のタイミングを見失ったってだけで。
「と、忘れないうちに……」
カップの中の紅茶をぐいと飲み干し、お姫様の顔を見る。
「今さらだけど、助けてくれてありがとう。デューたちと入れ違いでグリンドンだかの手下が牢屋に来てたから、もう少しのんびりしてたらどこかに連れて行かれてたかもしれない」
「……いえ、もしかすると私がグリムに、あなたを助けるよう頼んだのが裏目に出たのかもしれません。嫌な予感がしたので、すぐにデューフェたちも向かわせたのですが……」
すまなそうに答えるお姫様。
それで逆に警戒され先手を打たれそうになった、と。
確かにありえる。
ただよく分からないのが、そのグレゴールザムザ君だかが、何故俺にそこまでするんだ?
言っちゃなんだが、今の俺はたかがパン屋の居候。
騎士団の隊長にデッドソルトクラッシャー食らわせたりはしたけれど、嫌がらせ以上の何ができるというわけでなし。
「そういえば騎士の一人が、もうすぐお姫様の誕生日と婚礼って言ってましたけど、あれってどういうことだ……ですか?」
うっかり砕けた話し方を続けそうになったのを強制修正する。
俺がお祭りで見たミミスたちの人形劇。その最後では今年姫様が18歳の誕生日を迎えるのと共に、再び神が現れるというセリフがあった。
そういえばオーディンが幼いころのお姫様に角杯で何かを飲ませるシーンもあったけど、あれが呪術的な制約か何かを担っているのだろうか?
「言葉通りです。10日後、私は18歳の誕生日を迎えると共に、幼馴染のグリムニル辺境伯と婚礼を挙げる予定です」
「もしかして許嫁、ってことですか」
こくん、と小さく頷く。
まぁ王族ともなれば変な奴とくっつくワケにもいけないし、あらかじめ相手が決まっていても不思議じゃない。
「彼、グリムはちょうど私とお兄様の間くらいの年で、昔はよく三人で野原を駆けまわったり湖で泳いだりと一緒に遊んだものでした」
「意外と普通の子供時代を過ごしてたんだな」
ヘル=ガルムと戦った時も率先して動き回っていたから、元々活発な方なのだろう。
「でも、お兄様が左目に傷を負い公の場から姿を消してから、私たちの関係も変わってしまった……そして先日、主神オーディン様から私とグリムの婚儀を執り行うよう神託が下ったのです」
「けど神託は別にして、お姫様もそのグリベッ君のことは憎からず思っているんですよね?」
「それはそうですけど……結婚の日が近付くにつれ、時々あの人の考えていることが分からなくなってきました」
マリッジブルーという奴なのかね。
俺にはよく分からんけど。
「母が身罷り父が病に倒れた今、私の婚儀に間に合うよう流浪の生活を続けるお兄様に帰ってきて欲しかった。だから街での目撃証言を元に兄様を迎えに行くよう、グリムに頼んだのです。でも巻き添えで捕えられた貴方を牢獄の最深部に閉じ込め、なおかつ誰も知られない場所に移送しようとするなんて……」
やり過ぎというか、普通に考えれば『お姫様を倒し反逆を企む廃棄王子一派を未然に捉えました~』みたいな罪状で、後顧の憂いを無くすべく全員バッサリ、ってことなんだろうな。
俺を移送しようとしたのも、もしかするとお姫様の婚礼が終わるまで監禁して、終わったと同時にヌギャー……ああ怖い怖い。
つ~か、そういうことを考える連中が王城にも街にもうろうろしてるってのは、あまり楽しい状況ではないな。
……幸い昨日お上りさん三人衆と話せたおかげで、俺にも次の目標ができた。
獣人王国でロイヤル猫耳母娘丼を堪能したあげく、大氷河洞窟の奥底に封印されたという翠眼の男。
ただの猫耳マニアの変態紳士という可能性も捨てきれないが、獣人王国を護ったっていうくらいなら少なくとも会話は通じるだろう。ならば目指すべきは、その凍結封印された男の封印場所『大氷河洞窟』。
対してデューが遭遇した方の翠眼の男も気にはなるけど、友好的で無い可能性の高い相手は御免蒙る。実際それで、デューは式紙に襲われて殺されかけているわけだし。
お茶のお代わりを注ぐお姫様をぼんやり眺めながら、俺は考えをまとめ心を決めた。
よし、戻ったらさっさと荷物をまとめて、ナルカと一緒に獣人王国を目指して旅立とう!!
今夜にでも例の田舎三人組と一緒に出発すれば、国境近くだという彼らの村までは問題無く移動できるはず。
グレリーが王にならなければ、いずれはお姫様と結婚するグリッドとやらがこの国の王になる。
しかし昨日の俺たちの扱い方からして、これから先王都がどんなディストピアになるか分かったもんじゃないぞ。街中をゲシュタポや紅衛兵ならぬ例のガラの悪いギンギラ騎士たちが我が物顔でうろつきまわり、少しでも不満を口にしようものなら牢屋へGO!と。
……最悪の事態を考えれば、冗談抜きでいっそリーシャも連れて行くか。
お姫様とデューがいれば大丈夫だろうけど、俺やグレリーとの関係が疑われたらあのパン工房も危ないし。
ならいっそイドルドさんやアイーダさん親子も一緒の方が安全かもしれない。一気に所帯じみた移民集団になっちゃうけど。
「考え事ですか?」
「……ええ、俺たちの未来について少し」
カップに口をつけたままぶっ、とお姫様が吹き出した。
「な、ななな何をいきなり!? わ、私と貴方はそういう関係ではっ!!」
ハンカチで口元を拭いながら、白い頬を真っ赤に染めて抗議する。
そりゃそうか。
彼女はもうすぐ結婚するわけだから、そういった表現に敏感になっていても不思議ではない。
「おっと失敬。自分自身のことのつもりだったのですが、もう少し配慮すべきでした」
「貴方とお兄様、本当によく似ています!! 気が合うのも当然です、まったく!!」
喜んでいいやら悪いやら。
「じゃあデリカシーが無いついでに、俺からも一つ質問してもいいですか?」
何です改まって、とこぼれた茶色の雫を拭き終ったお姫様が俺の顔を見る。
「……お兄さんと仲直りする気はありませんか?」
さっと彼女の表情が硬くなり、そして年相応の悩める女の子の顔へと変わった。
この反応なら意外と脈はあるか?
「ここには雑音が多すぎる。互いの立場から言いたいことも言えない。だからどこか静かな場所で、じっくり話してみることをお勧めします」
なんならこのベランダで、今みたいにお茶を飲みながら、と付け加える。
「でも……お兄様も、同じ気持ちなのでしょうか?」
「お姫様が言った通り俺とあいつが似ているのなら、多分。今を逃したら、次にいつその機会が来るかなんて誰にも分からない。もしかしたらこれが最後、永遠の別れになってしまうかもしれないですから」
救急の現場ではよくある話だ。いつものように学校や仕事に出かけた家族が、物言わぬ姿になって運ばれてくることなど。
そしてここでは一度の離別が、そのまま永遠のものになることは日常茶飯事のはず。
だからこの世界の言葉は携帯やメールが発達した現代日本なんかよりも、ずっと重い。
――――――『あ・り・が・と・う』
いきなり恐竜島での出来事がフラッシュバックした。
「くっ―――!!」
右の眼頭が熱くなり、思わず手を当てうずくまる。
「だ、大丈夫ですか!?」
気遣うお姫様の声が俺の中で一瞬遠くなった。
―――自らの死を眼前に俺への感謝を紡いだナルカの姉、デュナさんの言葉と唇の動きは、今でもスローモーションで俺の脳裏に焼き付けられている。
もしあの結末を最初から知っていれば、そのつもりで話していれば、もっと色々彼女の想いを汲み取れたかもしれない。
けれどもそれは叶わず、俺の中には言葉にできない重く冷たい何かだけが残った。
俺の心と記憶の奥底に根を張ったそれは、時々思い出したように鋭い棘を伸ばしてその存在を誇示してくる。
まるで俺が罪悪感から逃れることを永遠に赦さない番人ように。
今ならまだ間に合う……この兄妹には、俺と同じ気持ちを味わってほしくない。
「ちょっとめまいがしただけで大したことありません。それよりも俺の印象だと、お兄さんと対立しているのは貴女でなく、むしろ貴方の婚約者を含めた周囲の人間のようにも見えますし……」
頭を振りながら、お姫様に向き直る。
「なのでもう一度言います。お兄さんと二人っきりで話せるのは、これが最後のチャンスだと考えて下さい。でなければ次の機会は永遠に無いかもしれません」
というか父王が亡くなりお姫様が後を継げば、政権安定のためグレリーは処分される可能性が高い。
まぁあいつの事だからその前に逃走するだろうけど、そうなれば二人はやっぱり道を違えたままになる。
「永遠に……これが最後……」
お姫様は顔を伏せ、空になったカップの底を睨んだまま俺の言葉を反芻する。
俺はふぃとベランダから見える王都の景色へと視線を逃がした。
すぐに視界に入ったのは王城を守る3つの城壁。
今いる王城は険しい岩山を背にした小高い丘の上に立ち、例えるならドイツのノイシュバンシュタイン城みたいな美しい白亜の姿を海と王都に向けて晒している。
そこに続く坂道には手前から第三、第二、第一城壁と呼ばれる約20m程度の頑丈な石積みの壁が防波堤状に立ち並んでいた。
洗濯鍋で五右衛門気分を味わいながら聞いたところ、第三城壁からこちらが王城区画と呼ばれている王家の管轄。第二第三城壁の間が官庁区画となっており、戸籍庁や食糧庁、財物庁や兵舎など官営施設が設けられているとのこと。
俺が囚われていた監獄もあるけれど、要するに霞が関みたいなものか。
そして第一第二城壁の間が、この前入った浴場のある高級住宅街。ここの住人のほとんどが上で働く官僚とその家族で、朝の登庁時間帯には第二城壁の門がぎゅうぎゅうに混み合うらしい。どこの世界もある程度発展するとこの手の問題は避けられないのだろう。
何となく視線を巡らせていると、さっきは気にならなかった中央広場のあたりに、高くそびえる謎教会の大鐘楼の四角い天辺が目に飛び込んできた。
お祭りの前日、剪紙成兵術を倒した後にデューと逃げ込んだ場所。
確か鐘の音が病気の父王の頭に響くからって、お姫様が鐘を鳴らすのを止めさせたんだっけ。
って、忘れてた!!
王様が病気なら俺が治せばいいんじゃん!!
権力が王様に戻れば継承争いで兄妹がぎくしゃくすることも無くなるし、周囲が無駄な陰謀を企てる理由も無くなる。
どうしてこんな簡単なことに気付かなかったのだろう。あ~いかんいかん。
そうと決まれば、早速お姫様にでも頼んで……
ガチャッ
不意に入り口の扉の方から鍵の開く音がした。
「あれ、誰か来たんですか?」
のんびり尋ねるが、その音を聞いてハッとした表情になったお姫様は勢いよく椅子から立ち上がる。
「いけない!! きっとグリムです……この部屋の風錠を外せるのは、私の家族と彼だけですから」
そう言って彼女は俺にベランダ隅に隠れているよう指示し、ティーセットもそのままにいそいそと自分の部屋へと戻っていった。
俺との密会?を婚約者に見られてマズイのは分かるけど……グリム、ね。
例のギンギラ騎士団の飼い主。そしてお姫様に尻尾は出していないものの、多分グレリー排除の最尖峰……似たような名前の癖に。
窓の外からカーテン越しに覗きこむと、ちょうど扉が開いてそのグルタチオンなんとかの入ってくる姿が見えた。
漆黒に輝く革靴、揃えの軍服みたいな白の上下礼服。
腰のベルトにはダイヤやサファイアにも見える様々な宝石をあしらった金の柄のサーベル。
胸にはそれに負けないくらいゴテゴテした偉そうな勲章が、所狭しと飾り付けられてある。
そして背中に翻るのは優雅な赤いマント……怪人かっ!!
つ~か何というテンプレ童話の王子様スタイル。
これでさらに下半身白タイツだったら、そのモッコリ股間に子孫断絶拳を叩きこみに思わず飛び出していたかもしれんぞ。
お姫様の影になっていて、談笑するグリセリンの顔は良く見えない。
もうちょっと、あと少し寄って!!
俺の念が通じたのかお姫様が少し首を傾け、その拍子に相手の顔が見えた。
長耳の一族っぽい鼻筋の通った顔、年のころはお姫様より少し上の二十代前半。そして整ったやや長めの金髪に鋭い碧眼、おのれイケメン―――なっ!?
それに気付いた瞬間、俺は驚きの声を上げそうになり咄嗟に口に手を当て無理矢理息を呑みこんだ。
北欧神話の主神オーディン-――闘争と詩、知識と魔術の神である彼は、世界樹の根に湧いた知識の泉の水を飲むために、代償として自身の片目を知の巨人ミーミルに捧げている。そのため彼の姿は常に、左右どちらかの目を失った男として描かれてきた。
中で風が起きたのか何かの拍子にカーテンが動き、その隙間から室内の様子がさらにはっきりと見える。
お姫様の前に立つ辺境伯グリムニル、王家の兄妹の幼馴染。
主神オーディンの神託でお姫様と結婚することとなった青年のその左目には―――黒い眼帯が巻かれていた。