岩窟王+ネット環境=ニート万歳
肌に僅かな温かみを感じ、重たい瞼をゆっくりと持ち上げる。
最初に視界に入ったのは、とっくの昔に見慣れた頑丈な石造りの牢屋の天井。
ずっと高いところにある小さな明り取り窓から、唯一とも言える外の光が差し込みちろちろと俺の頬をくすぐっていた。
「……もう朝か」
冷たい石の寝床から起き上がり、固くこわばった身体の筋をぽきぽき鳴らしながら伸ばす。
「そうだ、忘れないうちに今日の分を……」
床に落ちた石の欠片を拾い、硬い石壁にぎしぎしと長い線を刻み込む。
こうして微かに差し込む光を頼りに、簡単な暦を付け始めてからどれくらいになるだろうか。
……あの夜、酒場で捕えられ、グレリーとは別に連れてこられたのは、王城を囲む第二、第三城壁の間に設けられた巨大な収容施設。その最深部に設けられた、石の敷き詰められたカビ臭い四畳半程度の四角い部屋。
しかし今となっては、この外界から切り離された空間だけが俺の世界の全て。
最初は助けを期待していたが、時間が経つにつれ怒りも悲しみも期待も何もかも牢獄の薄暗い湿った空気に薄められ、いつしか全ての記憶がグレー色に塗りつぶされてしまった。
今はただこの苦痛が早く終わることだけを夢見て、まるで打ち捨てられた廃墟のように無為な時間を過ごすだけ。
ふっ、と全身を悪寒が襲った。
両腕で自分の体を抱きしめ、必死で戦慄きを押さえ不安と恐怖に耐えようとする。
「寒い……ここにあと何年……」
「スクナ、迎えに来たわ……って、何やってるの?」
目の前の小さな金属製の扉がぱかっと開き、メイド服を着てナプキンをかけたパン籠を持ったデューが首を突っ込んできた。目が合った瞬間彼女は、そのアーモンド型した鳶色の瞳をぱちくりとさせる。
「何って…………桃ミンキーごっこ」
なお、最後はジャンク屋のトラックに轢かれる模様。
「馬鹿なこと言ってないで、さっさと出るわよ」
俺が暇つぶしに彫った、石壁のコッペパン靴を履いたコックさんの落書きを横目で訝しげに眺めながら、デューは俺の手を引いて牢屋の外に連れ出す。
「助けに来てくれたんだな。ありがとう、デュー」
「ま、まぁ巻き込んだのは私たちだから、それくらいは当然よ」
照れているのか、デューはこちらを見ようとしない。
けれども繊細な指先から伝わる彼女の体温が、昨日の夜、石畳の上に寝転がっていたせいで冷えきっていた俺の手を優しく温めてくれた。
ちょっと嬉しい。
「お姉さまっ、首尾はいかがですかっ!? あ、こっちはまだ誰も来ていませんっ!!」
いくつもの牢屋が立ち並ぶ石の廊下の向こう側で、デューと同じメイド服を着た背の高い瓜実顔の若い、高校生くらいの髪の長い女がこっちにむかって手招きしている。橙色の髪とか、ファンタジーは何でもアリだな。
小顔で顔のパーツが小さくて、すれ違ったら二度見する感じのモデルさんみたいな体型の子だけど、あれもデューの仲間だろうか。
「ロフ、こちらは姫様直々のご命令なのだから、ビクビクしなくてもしゃんとしていれば大丈夫。それより早くここから出るわよ」
自分より頭の位置が上の瓜実女に向かって、まるで諭すように優しく声をかけるデュー。
女はそれが嬉しかったのか、身長の割に妙に可愛らしいちょこちょこした歩き方で戻ってきて、そして俺を上から下まで珍獣でも見るみたいな好奇の目でじろじろと眺めた。
「ところでお姉さまっ、その冴えない顔した黒頭が例の男ですかっ?」
「……冴えなくて悪かったな、東京タワー女」
誰だか知らないけど間近で見るとこいつ、やっぱり背が高い。
パッと見顔の位置が俺と同じくらいだから、最低170cmはあるぞ。
「むむっ、もしかして馬鹿にされたですかっ?」
「いえいえまさか。それにお嬢様、どことなくガンバシューターに似てらっしゃる」
火と火で炎みたいな感じの。お姉さまお姉さま言ってるし。
「ガン……何ですとっ?」
俺たちの間にデューが割り込む。
「スクナ、言いたいことがあったら後で聞くから。ロフ、また先見をお願い」
はいはいお姉さま~っ、と瓜実女はとっとと廊下を走ってゆき、その姿はすぐに見えなくなった。そして曲がり角から伸びた彼女の手がくいくい、と合図を送る。
行くわよ、とデューに促され歩き出した。
「で、外に出たら説明はしてもらえるんだろうな?」
「いずれスットコからね。でも今、あなたに用があるのは姫様の方よ。どのみち助けには来るつもりだったけど、スットコより先に姫様が動いてくれたの」
お姫様が俺を気にかけてくれたのか。
ありがたいけど、事情を知ってるグレリーよりも彼女が動けた理由が分からない。
デューの様子だと彼女が伝えた、という感じでもないし、情報の流れが見えないのが少し気になる。
……狭く曲がりくねった牢獄の廊下を早足で、長身女に導かれるようにして出口を目指す。
俺が放り込まれていた石牢は、入り口も目立たず、外からは部屋など無いように見える作りになっていたことから、存在がばれるとまずい政治犯をこっそり監禁するのに使ったりしていたのかもしれない。
場合によっては鉄仮面みたく死ぬまで幽閉、とか。
……もしかして俺、結構ピンチだった?
階段を二つ昇り、真っ直ぐに続く最後の広い通路を進む。
兵士たちは交代の時間なのか、デューが鼻薬を効かせたのか、幸い途中で見張りに会うことも無くスムーズに通り抜けることができた。
あと少しで出口、その先には眩い外の光が待っている……というところで、先に外に出たはずの長身女がわたわたと慌てて戻ってくるのが見えた。
「お姉さまっ!! マズいですっ、銀館騎士団の連中が来ましたっ!!」
その言葉を聞いてさっ、とデューの表情が硬くなる。
昨日のギンギラ騎士団のお出ましか。こんな朝っぱらからご苦労さんなこって。
しかし、どうする?
「……ロフ、落ち着いて。例の作戦でいくわよ」
「はいっ!! 恥ずかしいけど自分、お姉さまのためならどんな辱めも甘んじて受ける覚悟ですっ!!」
何の話をしとるんだ、このスカイツリー女。しかも自分の台詞で興奮したらしく、何故かはぁはぁ息荒くしてるし。
するとデューが長身女のスカートの裾を掴むと、思いっきりめくり上げた。
えっ、と驚く暇も無く俺は、そのスカートの中へと押し込まれる。女の肉付きの少ないすっと伸びた二本の脚の間に、押しつけられた顔が挟まれた。
「スクナ、もっとしっかり隠れて!!」
ばさりと降ろされたスカートの上から背中を叩かれる。
これでも頑張ってくっついてるつもりなんだけど……仕方ない。覚悟を決めて自分の方から女の子の太もも、というか白い木綿パンツを履いた股間に顔をうずめるようにしてしがみつく。両手で彼女の太腿を抱きしめる、というより拘束するような体勢。
真っ暗なスカートの中の小空間を、ロフと呼ばれた長身女から漂う女の子の匂いと体温が満たす。彼女の荒い呼吸にあわせて小さく動く白い脚に挟まれ、知らないうちに俺の呼吸も浅く早くなってきた。なんていうかこう、この状況は脳髄にクるものがある。
しばらくしてかしゃん、かしゃん……と、昨日も聞いた銀色の具足の歩く音が牢獄の廊下に響いてきた。
「……しかし大将、何であの黒毛を移送するなんて言い出したんだろうな」
「さあ? ただ聞いたところによると、今朝大将のところに伝令が来てから気が変わったらしいぞ」
若い男の声が二つ。
朝から牢獄なんかに遣られているところからすると、騎士団の中でも雑用ポジションなのだろう。
しかしこの世界で騎士をやっているくらいだから、皆そこそこの生まれのはず。
なのにこの騎士団連中、見た目は立派なのにどうにも中身のガラが悪いような気がする。
「伝令ねぇ、楽天王子にうちの大将に文句付ける根性があったってことか?」
「それがどうやら、文句言ってきたのは姫さんの方なんだってよ。あの黒髪、どこで姫さんと知り合ったんだか」
「もしかするとあいつ……どこかの貴族様が適当な黒羽の女に産ませた不義の子、って奴だったりしてな」
「なるほど、それなら姫さんが知っててもおかしく……おい、見ろよ」
気付かれた!!
かしゃかしゃと足早にこちらに近付く音。
「その服は姫さんのところのメイドか。こんなに朝早く、こんな場所に女の子が何の用事だ?」
馴れ馴れしい上に高圧的な物言い。
聞いているだけでムカついてくる。
「……憐れな囚人たちにパンを配りに。以前から姫様の命で時々そうしております」
「それはそれは、なんともお優しいことですな」
淡々と説明するデュー。
一方の男の方は感心する素振りのつもりらしいが、その声は侮蔑に満ちている。
「ならばその慈愛に、我々もあずからせていただきましょうか」
そして頭上でごそごそ、という音。
どうやらパン籠を漁っているらしい。やがて音が止む。
「お、このような上質な白いパン、囚人風情にはもったいない」
くくく、と何が可笑しいのかもう一人の男の口から笑いが漏れる。
どうでもいいから、満足したらさっさと行け!! こっちはもう限界なんだよ、色々!!
「では、我々は任務があるので失礼。お二方とも、姫様によろしく」
よし、そのまま行ってしまえ!! んでもって空の牢屋見て驚いてこい!!
「……ところで、そちらのメイド」
「はひっ!?」
びくっ、と俺の腕の中で長身女の脚が震える。
やべ、ばれたか!?
「見たところ顔が赤いが、どこか具合が悪いのではないか?」
「……そ、それはっ……そのっ……」
つぅ、と太腿の付け根から降りてきた冷や汗の一滴が、俺の頬を伝ってぽたりと石畳の床に落ちた。スカートの中の匂いが濃くなる。
「……我慢強い子ですから、風邪でも引いたのを黙っているのかもしれません。後で確かめ、必要なら休みを取らせることにします」
ご指摘ありがとうございます、とデューがお辞儀をする衣擦れの音。
「ああ、そうするといい。なにしろ誕生日と婚礼を控えた姫様に病を感染されてはかなわんからな」
はっはっは、という男たちの笑い声と共に、がしゃんがしゃんという鎧の音が遠くなり、そして聞こえなくなった。
「―――行ったわ。表に私たちの馬車が停めてあるから、そこまで走るわよ!!」
「アイアイサー!!」
重いスカートの生地を跳ね上げ、勢いよく飛び出す。
「はひゅぅっ……」
途端、長身女の体が崩れ落ちた。慌てて手を伸ばし、その肩を支える。
ぐぅ、重い……。
「ロフ、どうしたの!?」
「お姉さま……ロフはっ、ロフは穢されてしまいましたっ……」
さっきは大丈夫と言っていた彼女の顔は、今や噴火寸前の火山みたいに真っ赤っ赤。
色っぽい吐息と潤んだ瞳が、少女ではなく男を知った女の色気を漂わせ始めている。
いや、そこまでやった記憶は無いんですけど。
「無茶させてごめんなさい、ロフ。でも、こうするしか方法が……」
「分かっていますっ。でもこうなっては、穢れてしまったロフの体をお姉さまの清らかな体で慰めていただくしかっ!!」
「――調子に乗らないっ!!」
「あふんっ!?」
ビスッとロフの眉間に渾身のデコピンが極まり、数秒彼女の眼球が何もない虚空を見つめて彷徨う。
「デュー……こいつ、いつもこんなのか?」
「ええ、残念ながらこんなのよ。口を閉じていればいい子なんだけど……」
頭の上でひよこがぴよぴよと飛んでいるロフを見ながら、デューは深いため息を吐き出した。
『あああああっっっ!!』
不意にさっき通ってきた通路の奥、俺の捕まっていた牢屋のある方から野太い男の絶叫が上がる。
うお、速攻ばれた!!
「スクナ、ロフを連れて先に!!」
言われてまだぼんやりしている長身女の体を、お姫様だっこの要領で持ち上げ出口へと駆けだした。
デューはパン籠に向かって何やら呪文のようなものを唱えると、ほんのり蒼い光が宿ったそれを床に投げ、俺を追って走り出す。
「何をしたんだ!?」
「時間稼ぎよ!!」
振り返ると、さっきまで俺たちがいた場所にはパン籠だったもの……絡まり合い運動会の玉転がしサイズまで成長した茶色いツタの塊が、今まさに牢獄の通路を塞ごうとしていた。
「いいのか、あんなに派手なことして!?」
「育ち終ったら勝手に枯れるわ!!」
なるほど、成長できる分のエネルギーを消費し終えたら、そのまま成長し過ぎて枯死する時限式の植物罠というわけか。
色々隠し玉持ってるな、こいつ。
最後の扉を潜り抜け外に出ると、目の前に小奇麗な感じの二頭立て馬車が止まっていた。ぱっと見、御者はいない。
「後ろに乗って!! すぐに出すわよ!!」
鍵のかかっていない馬車のドアを乱暴に開け、脱力したままのロフの長身を押し込む。
続いて自分も乗り込もうとした時、銀装飾を付けた大柄な軍用馬が二頭、近くの木の柵に手綱を結び付け止めてあるのが目に入った。
さっきの二人の馬か……よし!!
「デュー、連中の馬を逃がせるか?!」
「ッ!! 了解よっ!!」
一旦上った御者台から飛び降りたデューは柵に駆け寄り、スカートの中から例の直剣二本を抜刀しながら、沈み込むようなすり足で馬と柵の間にすっと入り込む。
ひゅんっと二つの斬撃が音を重ねて二本の手綱に振り下ろされた。そのまま流れるような動きで納刀すると、後ろを確認することなくデューは御者台に舞い戻る。
数秒遅れてぱらり、と二本の手綱が垂れ下がった。
お見事!!
しかし馬は手綱が切れたのにも気付かず、もっちゃりもちゃりとそこらの草など食べている。
「馬、逃げてないぞ!!」
「これでいいの!! はぁッ!!」
デューが自分の馬車馬に向かって手綱を振り下ろすと、二頭の馬はいなないて並足で進み始めた。続いて左側の馬にぴしゃりと鞭が振るわれ、慌てた馬が右側を追い越そうと走り、馬車は右に向かって旋回する。
俺はまだ足が外に出ていたロフの長身を客車に引きずり込み、ドアを閉める。
そのタイミングで牢獄の入り口から、さっきすれ違ったギンギラ騎士団の男たちが飛び出てくるのが見えた。
あの蔦に覆われた廊下を抜けるため脱いだのか、二人とも特徴的な銀色の鎧は着ておらず、かろうじて手甲と脚甲が残っている程度。その上かなり無理したらしく、顔は細かいひっかき傷で一杯。遠目にも分かるくらい血塗れだ。
「待てっ、待てぇぇっ!!」
言われて待つ奴がいないのは、どこの世界でもお約束。
すると走り去ろうとする馬車には追いつけないと悟ったのか、騎士たちは各々自分の馬に駆け寄ろうとした。が、
ヒヒーンッ!!
さっきまでのんびり草を食べていた軍馬たちが、出し抜けに立ち上がり大きく嘶いた。そして面喰った乗り手を置き去りにして、てんでバラバラな方向へと走り出す。
馬車がどんどん速度を上げていく後ろで涙目になった騎士たちは、それでも必死で自分たちの馬を取り押さえようと、絶望的な追いかけっこを開始した。
「何をやったんだ、デュー?」
客車に付いている小さな窓から、御者席に向かって話しかける。
すると、返事代わりに簀子みたいに連なった4つの竹筒のようなものが投げ込まれた。
筒は中空になっており4つのうち2つは空、残り2つには吹き矢と思しき羽の付いた細長い針が装填されている。
「気を付けて、黒羽の一族が狩りに使ってる毒が塗ってあるから。刺されると身体に力が入らなくなるの」
なるほど、遅効性の原始的な筋弛緩剤みたいなもんか。
あの騎士たち、頑張って馬を捕まえたとしても、その頃には毒が回って馬は到底走れる状態ではなくなってるだろう。
なのに希望を持たせるよう、わざわざ目の前で吹き矢を撃つとは……。
「意外と悪知恵が働くんだな」
冗談めかして笑う。
「有能、と言い直して欲しいわね。飛ばすわよ!!」
急にスピードを上げたため、思わずよろめいて柔らかいロフの体の上に倒れ込む。
ぐふふふふお姉さま~と、昏倒した後そのまま妄想世界に飛んでいったらしい彼女は、まだ起きる気配が無い。
そうしている間にも第三城壁を潜り抜けた馬車は、お城に続く最後の坂道を全速力で駆け昇って行った。