社会的には上にも地獄
隠してあった始祖鳥2匹を回収して、二人で森の中を歩く。
ナルカだけに持たせるのは気が引けたので、自分でも一匹肩から始祖鳥を引っ提げた。
白衣の上に泡を吹いた始祖鳥がぶら下がっている、というファッションは、傍から見ればかなりシュールな光景だろう。
周囲を警戒しながら1時間ほど歩くと、やがて大きな崖の前に出た。どうやらここを登らなければならないらしい。
ナルカに従っていくと、崖に裂け目があるのが分かった。ちょうど60cmほどの幅で、手がかり足がかりになりそうな突起も多い。
先にナルカが登り、崖登りの手本を見せる。
猿のように、とは女の子に使う形容詞ではないが、まさしく猿のようにすいすいと登っていった。
同じことができるとは思わなかったが、ここまで来て登らないわけにはいかないだろう。
あまりナルカから離れないように、なるべく彼女が手足をかけたところを意識しながら、人生初のロッククライミングが始まった。
最初は意外と問題なく登っていけたのだが、運動不足が祟ったのか、しばらくすると手足に力が入らなくなってきた。
時々棚のようにせり出した岩盤の上で休憩を鋏みながら、ゆっくり確実に登っていく。
途中、崖の横から大きな水の流れる音が聞こえてきた。ナルカが指差す方を見ると、崖の上から大きな滝が流れ落ちていた。
先ほどの森の湿気はこれが原因だったのだろうか?
滝の水は途中で細かい霧雨となって、森を潤している。
ギアナ高地のエンジェルフォールを見ているみたいだ。と思うと同時に、そんな崖に挑戦している自分を意識させられ、背筋が冷える。
200mほど登ったところで
「スクナ、大丈夫か?」
とナルカが声をかけてくれたが、男の見栄で大丈夫と言ってしまった。
我ながら、男って馬鹿な生き物だと思う。
実際のところ、身体は限界だし、下を見るたびに身が竦む。が、ここで止まれない。
蛇足ながら登っていくときに上を見た際、ナルカの下着の秘密が分かった。
胸に巻いているものと同じ種類の布を使って、簡単な紐パンみたいなものを作って履いているらしい。
問題はサイズが合っていないのか、下から見ていても時々ずれてしまい、お尻が半分くらい覗いてしまうことか。
悪魔っ娘だから尻尾があるのかもしれないが、さすがに陰になって見えない。
少し登るのを休んで見上げると、ナルカの足の付け根に近い健康的な太ももがしっとり汗に濡れ、それが太陽の光を反射している。踏ん張るたびに筋肉と、その上の皮膚が弾力を持ってぴんと張る。
……いや、違うぞ、俺はノーマルだ。この前買った雑誌もOL特集だったし。
目覚めそうになる自分の中の獣を必死で見ないふりをして、なるべく顔を上げないように登攀を続ける。
何か別のことを考えてみる。さっきのティラノサウルスと始祖鳥のことだ。
薄々感づいていたことだが、ここは日本どころか地球とは違う、別の世界ではないだろうか?
ムカシトンボ自体は生きた化石として現代日本に生息しているし、初めて出会ったナルカとあっさり日本語でのコミュニケーションが成立してしまったことから、この場所が日本の何処かである可能性を完全には捨てきれていなかった。
しかし、ティラノサウルスがいるのなら話は違う。
あんなものが地球上に生存しているはずが無い。
そして違和感。
ティラノサウルスは白亜紀だが、始祖鳥はジュラ紀。同時に存在した可能性は否定できないが、生息年代に1億年ほどの開きがある。
さらに人間が恐竜と同時代にいるはずが無いし、加えて人間はナルカのように羽が生えたり肌が青白かったりはしない。そんな遺伝子も病気も聞いたことが無い。
あと、ボルボックスは見なかったことにしよう。空飛ぶ原理がわからなさすぎる。
森は湿気に満ちているから乾燥せずに生息でき、木が高いから太陽光を求めて飛んでいってるんだろうな、と理屈は付けられるけど。
理性が否定し続けていたが、ここに至っては認めざるを得ない。
今自分は、別の世界にいる。
幸いオタク文化に嗜みがあったおかげで、こんな異常な結論も、意外と冷静に受け入れることができた。
ちなみに医者仲間でアニメや漫画を趣味にしている人は多い。
当直室に漫画は必須アイテムだし。
とはいえ女子小学生がバスケをやってる漫画を見つけた時には、日本の未来に一抹の不安を抱いたけど。
さて、ここが別の世界だと認めた上で自分は何をするべきか?登りながら考える。
帰る方法を探すのが優先順位第一。
ただ、なぜどうやって自分がここにいるのか、まったく手がかりが無い。記憶では地震の後一瞬記憶が飛び、次の瞬間あの森の中にいたわけだが。
一通り周囲を確認した際、毎度お約束の古代遺跡やら召喚術者といったものは見当たらなかった。
ということは某猫?型ロボに出てきた時空乱流みたいな、偶発的な天災パターンなのだろうか。
ただ、そうなってくると完全にお手上げだ。それっぽい現象がなかったかをナルカに確認する必要はあるが、同じ場所で同じ現象を待っても、なんちゃら自衛隊みたいにそうそう都合よく起こってくれるものではない。
そもそもティラノサウルスが闊歩する森で、水も食料も無しに、たった一人で待ち続けるのは不可能だ。
……といろいろ考えてみたが結局、現状流れに任せてナルカに付いて行くしか選択肢が無い。
出会い方は最悪だったが、彼女に出会えたのはかなりラッキーだった。
登り始めて1時間ほどが経ち、そろそろ崖も終わりが近づいてきた。頭上の裂け目から晴れ渡った空が覗いている。
「スクナ、もう少しだ」
先に登り切ったナルカが身を乗り出して手を伸ばす。その手を握ると、想像以上の力で一気に引き上げられた。
「ありがとう、ナルカ」
礼を述べ、数時間ぶりの平らな大地に寝っ転がる。標高が高くなったせいか、吹き抜ける涼しいが心地良い。
とにかく死ぬほど疲れた。手術着も汗でびしょ濡れだ。
荷物を投げ出し、全身の筋肉を思いっきり伸ばす。この調子だと明日は筋肉痛だな。
この世界での滞在がどの程度の期間になるのか分からないが、少しは身体を鍛えなければ。
「思ったより強いんだな、スクナは」
「ナルカほどじゃないさ」
いや本当に、彼女の体力には驚かされる。羽を動かす筋肉の分だけ、膂力も強いのだろうか。汗をかいていはいるが、息は乱れていない。
少し休むと体力が戻ってきた。よっこらせ、と起き上がり、改めて自分が登ってきたところを眺めてみた。
「うわ高っ」
思わず独り言が漏れる。
崖の上からの眺望は、疲れが吹き飛んでしまうほど壮大だった。
眼下にシダの森が、ちょうどカルデラのすり鉢を満たすように広がっている。
かなり遠くにだが、外輪山のように森を囲む板のように切り立った岩山の列が見えた。
さらにその向こうにはどうやら海が広がっているらしく、青黒い水面に反射する太陽光が波涛でキラキラと揺れている。ここは火山島なのだろうか?
振り返って今立っている場所。標高数百mはあるだろうか。
それこそギアナ高地みたいな巨大な岩の大地だ。
ただ岩肌が露出しているのは裂け目のあたりだけで、奥に行くにつれて緑が深くなり、木も生い茂っている。すり鉢の森とは植生が違うらしく、こちらはシダ類でなく日本の山でも見られるような広葉樹の森みたいだ。
仕事柄毒キノコ以外の植物には詳しくないので、何の木かまでは区別がつかないが。
ざっと見渡したが、ナルカの言う村は見当たらないのだけれども。
「村まではまだかかるのか?」
「それほど遠くは無い。そろそろ出発する」
「了解、っと」
荷物を担ぎ直し、歩き始めたナルカに付いてゆく。
だが、この期に及んで自分は彼女の感覚をまだ理解できていなかったらしい。
遠くないと言われて喜んだのだが、彼女にとっては日没までに辿り着ければ遠い内に入らないらしい。
女の子の前だから、と疲れを隠して歩いていたが、再び森に入ってからさらに1時間後。やっとのことで村の建物らしき輪郭を捉えた時には、減らず口を叩く気力さえ雲散霧消してしまっていた。