それは、思い出の墓標
俺は死骸と羽毛の散乱する船長室で立ち尽くしていた。
硝子の割れた丸窓から時折吹きこむ風で、生命活動を停止した海鳥たちの翼がぱたぱたと機械的に手招きをしている。
その無数の濁った瞳は、二度と空の青を映すことは無い。
扉を開けた時の衝撃と恐怖が去った後、俺の中に訪れたのは寂寥だった。
この、既に何もかもが終わって自分だけが取り残されたような感覚を味わったのは、果たしていつだったか。
小学校の夏休み、調査が終わって放置されている田舎の古墳に一人で忍び込んだ時、ひんやりとする石室の中で、こんな感じの寂しい気持ちになった記憶がある。
誰からも忘れ去られ、ただ朽ちていくだけの――――
「スクナくん? 航海日誌が見つかったけど、どうしたんだい? ぼんやりして」
「あ、ああ―――」
ケダルの声で急に意識が現実に引き戻される。
それと同時に鼻の粘膜が、夏場に室温で放置したイカの塩辛みたいな独特の酸臭に刺激され、ひりひりと痛んだ。暑っ苦しい南国の気候に加えて、狭い部屋の中に充満した鳥の放つ死臭が磯の香りと程よく混ざり合い、えらいことになってしまっている。
大した時間は経っていないけれども、意識してしまうと正直キツい。
そんな俺を不思議なものを見るような目で眺めながら、ケダルは机の上に散らばったカモメの死体を両手で払いのけていく。
「おっと、手伝おうか」
「いいよ。もう片付いたから」
最後の一羽がぼとり、と翼を広げたままの姿で床に落ちた。
しっかし改めて思うけど、この鳥の数、篠原さんちのプログラマーかよ。
船が漂流を始めた後、割れた窓から勝手に入ってきて死んだのだろうけど、探し物をするには迷惑千万。船長の鳥はオウムかトリさんだけで十分だ。
ケダルが残った羽毛を払うと、その下から現れたのは紐で綴じられた紙の束。申し訳程度についている厚紙の表紙には、『航海日誌・二の月・Ⅳ』とペン字で殴り書きされている。
行先が書いていないということは、決まった航路しかとらない船だったのだろうか。
ちらっと壁の航路図を見る。すると、先ほどは気付かなかったが地図の端には、航海日誌と同じⅣの数字が書かれているのが分かった。
なるほど、地図の番号によって航路決まっているのか。つまりこの航海日誌は、船が二の月に既定の航路Ⅳを通った時の物、ということになる。
二の月って何だ、とまでは今は突っ込まないでおこう。この世界が地球をベースに創造されたものだとすれば、公転周期も同じはず。なら月の意味するところも同じだろうし。
「―――悪い、スクナ。あたしは見たくない」
「え?」
部屋に入ってから放心したようになっていたアイーダさんが、俯いたまま唐突に漏らした。
「でも、ここには旦那さんの……」
「分かってる。覚悟してたつもりだったんだ。海の男と一緒になったら、こんなことになるかもしれないって。親父にも散々言われたし、それでも反対を押し切って……」
ゆっくりと顔を上げた彼女の瞳は潤み、泣くまいと必死に唇を噛んで堪えている。その様子は普段の彼女からは想像もつかないくらい弱々しく、触った拍子にガラスのように砕けてしまいそうにも思えた。
「情けないよな……いざその時になったら、こんなになっちまうなんて。あたしは自分が、もっと強い女だと思ってたんだけどな……」
―――真実には、いつか必ず向き合わなければならない。
けれどもその『いつか』を選ぶのは、本人の自由だ。
似たような話として、医療業界には受け入れる準備ができていない患者に、いきなり癌を告知する医者がいる。
それは悪意からではなく、早く治療しなければ手遅れ――患者の不利益に繋がるからなのだけれども―――それは時として独善、露悪的でもあり、癌細胞以上に患者の心を傷つけることもある。
例えその後病気が治っても、けれども心の傷は治らない。
ならば……
「大丈夫です。ここからは、俺たち二人に任せて下さい。日誌にはざっと目を通すだけですから」
オレンジ色のタンクトップから覗く、アイーダさんの日焼けた肩に手をぽん、と置いた。
室内の熱気で汗ばんだ彼女の肌から、身体の震えが伝わって来た。
そういえばこの人、俺より身長が低かったっけ。
今までの姉御っぽい言動から、勝手に頼りがいのある大人だと思っていたけれども、もしかすると俺よりも年下かもしれない。ファンタジー世界は早婚で世代交代も早いから、ありえない話ではないか
「そうですよ。どのみち詳しい分析は、詰所に持ち帰ってからの話になりますので……」
「すぐに終わります。ほんの少しだけ待ってて下さい」
「ああ……」
ケダルと顔を見合わせて頷く。
アイーダさんはもう限界だ。ここは生存者の可能性だけを確認して、さっさと撤収しなければ。
「最初から読んでる暇は無い。最後のページだけ読むぞ」
「了解だよ」
航海日誌がぱらぱらと捲られる。
日記形式で事務的な内容が記されたページが続き、紙束の約半分まで捲ったところで航海の終わりに辿り着いた。
声に出さずに目で読む。
そこに書いてあったのは―――
『―――海に突き落とせず、やっとのことで獣を船倉に閉じ込めたが、船長を含め4人の犠牲者を出してしまった。以降、副船長メダラスが記す』
『ニの月二十の日、船倉からあの獣の暴れる音がする。幸い造りが頑丈なためか、船に大きな破損は無い。だが昨日の戦闘で、残った帆に加え梶棒も破損していることが分かった。泳いで戻るには既に岸は遠い。このまま海流に身を任せ、どこかに座礁することを期待するしかない』
「今は何月何日?」
「えーと、今日は九の月、十六の日だから……」
計算して半年以上前、という言葉を飲み込むケダル。
気の利く奴でありがたい。
「この『獣』ってのは何だろう?」
俺も気になった。すぐさま前のページに戻る。
先ほどの副船長メダラス―――アイーダさんの旦那さんとは違う、船長のものと思われる太いペン字での記述を追った。
『二の月十七の日、水の補給に立ち寄った獣人の港町イェーツで異変に遭遇。町が住人ごと消えていた。航海中雨が降らず真水の補給は急務であったため、副船長メダラスの指揮で調査隊を編成。無事に樽五個分の水は確保できたものの、途中で調査隊が謎の獣の襲撃を受けた。幸いにして撃退、抜錨できたものの住人の安否を確認するには至らず。至急王都に報告すべく、寄港地を調整(地図Ⅸに準じる)。襲撃への警戒も兼ねて沿岸部を避け、直接王都へ戻ることとした』
―――そして多分、岸から遠く離れた洋上でどこからか紛れ込んでいた『獣』が暴れ出した、と。直接王都に向かうルートを選択したことが、裏目に出てしまった。
『獣』―――それがどのような姿形かは想像できないが、あの爪痕と犠牲者数を見る限り、かなり危険なものなのだろう。
だが、それなら生き残った副船長のメダラスさんを含め、他の船員たちが痕跡も残さず消えてしまった理由は?
船倉から這い出してきた『獣』に殺されたのであれば、この船長室を含め、もっと凄惨な現場が残っていてもおかしくないはずだ。
最後のページ、最後の記述に戻る。
その部分だけ素早く筆を走らせたせいか、書きなぐったようになっていた。
『二の月二一の日、船長たち犠牲者の体の保存が難しくなったため、生き残った者全員で水葬を行う。その最中、急に霧が立ち込めてきた。太陽も厚い霧に覆われ、何も見えなくなってしまった。私も今これを、船内でランプを灯しながら書いている―――』
海上の霧!?
俺の脳裏に、黒羽の一族が住む恐竜島から王都に渡ってきたときのことが思い浮かんだ。
人魚―――鱗の一族、陽気で姦しい『香水瓶のイクナ』と出会った事。
彼女が持って来た秋刀魚を焼いて、いただきます、と美味しく食べた事。
そしてその後―――
『――――遠くから聞いたことの無い楽器の音が響いて来た。何の音だろう。美しい音色だが、聞いていると何故か胸が苦しくなる。他の者たちも同じように感じているみたいだ』
そうだ。
そしてイクナが機転を利かせて、俺とナルカを海に放り込み守ってくれた。
自身の経験から、海中なら無事だと知っていたから。
でも、それを知らないこの船の人たちは……。
『霧の中から突然船が現れた。見たことが無い黒い鉄の船だ。左右に大きな車輪のようなものを付けている。何に使うのだろう、海賊避けだろうか』
「はぁっ!? 外輪船!?」
思わず声が出てしまった。
ぎょっとした顔で二人が俺を見つめるが、構っている余裕は無い。
外輪船といえば、浦賀に来たペリーの黒船や、トムがミシシッピで追いかけているスクリュー船以前の初期の動力船。
だがあれは、蒸気機関で動くもんだぞ!!
少なくとも俺は、この世界で蒸気機関のような外燃機関、エンジンのような内燃機関にもお目にかかってない。
なのに、何でそんなものがここに……
そのまま最後まで一気に読み進める。
『船が横付けされた。窓から人影が乗り移って来るのが見える。もう音はしない。私は知っていたらしい。これはいつか、私が辿る道なのだと。だからだろうか、今は不思議と恐怖は無い。むしろ彼らが来ることを望んでいる。扉が開いた。さあ早く連れて行ってくれ。私はここだ。早く早く早く早くハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤクハヤク―――アイーダ―――ネムリス―――マッテイルヨ―――』
バタンッ!!
もはや文字の形になっていない歪んだ線を読み終わった瞬間、俺は航海日誌を思いっきり閉じた。
ヤバい。何か知らないけど、この船はヤバい。
背筋の毛が総逆立った。
休止していた気配センサーが、全方位からの異変を察知してびんびん反応している。
分からなかったのも無理はない。危険の中で危険を探そうとしたら、誤作動しても当前だ。
それにさっきの文章は、アイーダさんには絶対見せられない。
あれは遺言なんかじゃない―――明らかな呪詛だ!!
「ど、どうしたんだよ、スクナ?」
不安そうに、アイーダさんが俺の顔を覗きこむ。
その瞬間、動揺で心臓が激しく脈打った。が、それを悟られないよう努めて冷静を装う。
「ケダル、今すぐアイーダさんを逃がすぞ!! 手伝ってくれ!!」
彼女の質問には答えず、頑丈な作りをした船長用の木製机に手をかける。
「理由は?」
「後で話す。今は彼女をこの船から遠ざけるのが先だ!!」
「なら後でしっかり説明してくれよ!! でないと僕が団長に怒られるからね!!」
やや砕けた口調で俺と一緒に机に手をかけるケダル。
男二人で力を込めると、重そうに見えた机は軽々と持ちあがった。
「こいつをガラス窓にぶつけて脱出口を作る!!」
「よしきた……ってはぁっ!?」
秘技、ホラー映画のお約束回避アタック!!
動き出した机は放物運動を描き、曇りガラスがタイル状に敷き詰められた窓をガッシャーンという音と共に突き破ってそのまま海へとダイビング。大きな波紋を生み出した後、ゆっくりと浅い港の海底へと沈んで行った。
さっきよりも強い潮風が、開いた穴から吹き込んでくる。
転がった海鳥の翼が一斉にばさばさと揺れて、散らばった書類と鳥の羽が太陽に向かって飛び立っていった。
「アイーダさん、この穴から今すぐ飛び降りて下さい!!」
「へは? いきなり何を―――」
「下は海ですし、外には警邏隊の人たちも控えています。泳げなくても大丈夫です!!」
あっけにとられるアイーダさんに向かってまくし立てながら、三人を結ぶ腰紐を買ったばかりのナイフで切り離す。
「お前スクナ、正気か?」
彼女が驚く気持ちも分かる。
俺も病室で誰かが窓ガラスぶち破ったらすぐにコードホワイト鳴らすし。
だがこのまま船の中にいては、彼女の身に何が起きるか分からない。
それにこのファンタジー世界で幽霊だの怨念だのが絡んで来たら、守り切れるかどうか自信が無い。
―――俺は、絶対に自分の力を過信しない。
この世界に来た最初の夜―――俺の眼の前でナルカの姉、デュナさんが殺された。
俺はそれをただ見ていることしかできなかった。
もしこの世界が優しい世界なら、あの時俺に謎の力が目覚めたり、謎の仲間が助けに来たりして彼女が助かっても良かったはずだ。
しかし、何も起きなかった。
そして俺は思い知った。
この世界は、隙あらば俺から大切なものを奪おうとする世界―――元の世界と同じく油断のならない厳しい世界なのだ、と。
だから危険が目の前にあるのなら、それが不確かなものでも全力で回避する!!
「アイーダさん」
真っ直ぐに彼女の鳶色の瞳を見つめながら距離を詰める。
「な、なんだよ急に改まって……」
俺の真剣な様子に調子が狂ったのか、どもって答えるアイーダさん。
そのまま近づいて彼女の体をそっと、優しく包み込むようにして抱きしめる。
「ひゃんっ!! こ、こんな時に何やって!!」
一瞬びくっとした彼女は少し裏返った声で叫びながら、俺の腕の中でそのしなやかな身体を硬くした。
だが俺は構わずに抱きしめたままじりじりと移動し……
「ごめんなさいっ!!」
ぱっ、と窓の穴に向かって彼女の体を突き放した。
「え?! えええぇぇぇ~!!」
意表を突かれたアイーダさんは、ドップラー効果のかかった驚愕の声を上げながら遠ざかっていった。
ざっぱ~ん、と水しぶきが上がり、しばらくすると全身ずぶ濡れのアイーダさんが、赤みがかった髪の毛を額にべったり付けた姿で浮かび上がってくる。
「くらぁっ!! 何すんだスクナてめえぇ!! 後で覚えてろよ、こんくそガキャ!! 絶対―――ッッ―――!!」
上から眺めていると、しばらくばたばた水面で騒いでいた彼女は、救助のために警邏隊の出した小船が近付いて来ると静かになった。
船に上がったアイーダさんは、たっぷり水を含んだ服がぴっとり貼り付いて、女性らしい体の線がくっきりと浮かび上がっている。特に胸のあたり、くっきりした二つのぽっちりが見えてしまったので、思わず目を逸らしてしまった。
とりあえず無事に着水できたみたいだな。
「よっし、脱出完了!! 」
「うわぁ……スクナ君、きみ結構えげつないことするなぁ……」
俺の横から窓の穴を覗き込みながら漏らすケダル。
「だって見たろ、日誌の最後にアイーダさんの名前が書いてあったの。こんな危険な船にあの人を、一秒たりとも置いとけるかってんだ」
「そうかもしれないけどさ。そうじゃないんだ、そうじゃ……まあやっちゃったことは仕方ない。後でしっかり怒られてきなよ」
やれやれ、と諦めたふうに首を振るケダル。
確かにさっきまでしおらしかったのが、いつもの彼女に戻ってたからな。そういえば後で、市場のおばちゃんに預けてた野菜籠を酒場に持ってかなきゃ。
あの様子だと、アイーダさんには何を言われることやら。2,3発殴られるぐらいは覚悟しとこ。
「で、どうする? 僕らもここから飛び降りるかい?」
「ああ。でもその前に、っと」
机から航海日誌を取り上げ、ケダルが見ている前で穴から海にぽいっ。
ばさっと広がった紙の束は、救助艇のすぐ近くに無事着水。
海水を吸ってか、日誌の色が日焼けた茶色からどんどん灰色に変わっていく。
「は? ちょ、ちょっとスクナ君、大事な証拠なのに何で捨てるんだ!!」
「大事だからこそ、だ。あんな不吉な文言……下手すると日誌自体が罠で、触った人間に呪いを移すようになっているかもしれない。一度水で憑き物を流しといた方が、呪いの拡散を防ぐ意味でもいいんだよ」
呪いのブービートラップ。
相手の興味をひきそうなもの、特に本や宝物に呪いを仕掛けるのは基本中の基本。
魔法の使えないピラミッドの地下で、黄金製の爪に苦しめられたプレイヤーは多い。
「なるほど。でもそれって、僕たちも……」
「もう何か呪いを受けてるかもな」
手をひらひらさせながら、ひょろっと空嘯く。
「もう―――って、ど、どど、どうするんだい!! 呪いって、何が起きるんだ!?」
まあもちつけ、もまいら。
「さあ? でも呪いとか不浄なものってのは、基本的に水で流せる。俺たちもここから出たら、さっさと水浴びでも……」
わあぁぁっっっ!!
突然船の周りから一際大きな歓声が沸いた。
どうしたんだろう。アイーダさんが飛び降りたことに野次馬が反応した?
にしてはタイミングが少しズレているような。
『ああっ、落ちるぞッ!?』
落ちる? 今から? デッキブラシの魔女でも飛んでんのか?
疑問に思った瞬間、何かが船に当たった震動が足に伝わり、続いてバキバキッと木の折れる音が甲板の方から届く。
一体何が落ちた?
『誰かぁ~助けてくれぇ……』
群衆の声に紛れてはいるが、情けない感じの助けを求める男性の声が確かに聞こえた。
誰かが俺たちの後で、この船に入り込んだ?!
くそっ、警備の兵士は何をしていたっ!!
「行くぞケダルっ!!」
「分かった!!」
窓の穴に踵を返し、元来た道をダッシュで戻る。
俺たちが船長室を出た瞬間、後ろで重い木の扉が勝手に閉まった。
入る前に聞こえていた羽ばたきのような音が、俺たちの背中から追いかけるように、再びけたたましく鳴り始めた。