諸王を総べる王
王都から馬で半日の距離にある名も無い小さな湖。
そこは古来より王族の避暑地であり、近年新しい離宮の建築が計画されていた。しかし5年前に大雨が降った際に崖崩れが起きてしまい、工事は中断。
土壌が湿気を帯びてぬかるんでしまったことから、作りかけの建造物群と共にこの場所は放棄されてしまった。
時間が経ち王都に住む者の記憶からも薄れ、今ではここを訪れるものはたまに迷い込む、蟲から逃れられた山犬や猪のような動物たちくらいだった。
完成していれば離宮を中心に、貴族たちの別荘が立ち並ぶ小さな町のようになっていたのだろう。
生活の灯りもなく、闇の中で剥き出しになった灰色の基礎や、積みかけの外壁だけの家々が立ち並ぶそこは、打ち捨てられた映画セットでできたゴーストタウンのようだ。
中心にある一番大きな建物である離宮は、建築状況としては比較的ましな方だ。枠となる外壁は既に完成しており、外からの見た目的には王都の真ん中に持ってきても遜色無いだろう。
だがあるべき屋根は無く、腐り落ちた扉をくぐれば中には丈の低い草が生い茂っている。
奥にある階段を上ると、まだ朽ち落ちない二階が現れる。
ここもやはり緑の草に覆われてはいるが、土の上ではないため所々床に抜けた部分があっても一階よりは大分ましだ。屋根のあるべき場所がぽっかりと口を開け、外からは丸見え。地面より高い分だけ、星空が近付く。
廃墟城の空中庭園。そんな言葉が似合う場所。
その緑の絨毯真ん中には、周囲の荒廃ぶりからは不釣り合いに新しい木製のデッキチェアが一つ置いてあった。
「榮文、もう一杯頼む」
背もたれに身を預けて空を眺めながら、黒髪で褐色肌の30代後半に見える大柄な男が、隣に立つ少年に呼びかける。裾が膝まで長いベージュ色のワイシャツ、クルターと、その下に白い長ズボンとサンダルを履いた足がのぞく。
「しかしご主人、もう3杯目になります」
「かまわんさ、今日の私は気分がいい。それにこれなら酔い潰れるということもあるまい。尤も我々の身体では酔うことはおろか、求めなければ老いも病も味わえないのだから」
そうだろう?と空になった白磁のカップを差し出す。
榮文と呼ばれた少年は、仕方ないですね、とその翠色の瞳を細め、陶磁製のポットを手に取ってカップに湯を注いだ。
空と思われたカップの中で茶葉が広がり、少し草の苦みが混じったような、しかし上等の香を焚いた時のような中国茶の香りが漂う。
「ふむ、そろそろ茶葉を変えるべき……いや、これもまた、か」
湯気を立てるそれを一口飲んでから呟く。少年はデッキチェア横にある小卓の上にポットを置き、自分の主人を見守っている。
まだ初秋で温かいというのにぶかぶかのトレンチコートを着た彼は、黙って立っているとまるでコート掛けのようだ。そこから短く切りそろえた黒髪の小さな頭がのぞいている。
と、黒い影が羽の音と共に小卓に舞い降りた。置かれた茶器がカチャカチャと音を立てて揺れる。
闇に溶け込む漆黒の羽と黒い嘴……カラスだ。しかしその体からは、二つの頭が生えている。
明らかに異形のその嘴から、湖の底から呼びかけてくるような初老の男の声が響いた。
『……ラーマよ、何故戦いに加勢しなかったのだ?』
「おや陛下、ご機嫌麗しく。今年の新しい茶が蒸し上がりましたので、ご一緒にいかがですか?榮文の故郷のやり方で試したのですが、これが意外に……」
体を起こし、ラーマと呼ばれた男が茶の入ったカップを見せつける。笑っているつもりだろうか、黒い髭をたたえた唇を歪めるが、大きく開かれた翠の瞳は油断なく双頭のカラスの姿を捉えていた。
『何故加勢しなかったのかと聞いている』
「……しても異界神話の力無くては結果は変わらんでしょう。それに私の姿を姫に見られては、今後動きが取りにくくなりますな」
それでよろしければ負け戦も良い経験だったやもしれません、と茶をすするラーマ。
「農夫が全部をせずとも、種は自ずから芽を出すものです。しかも花を咲かせようとしている今、点数稼ぎなど不要でしょう。我々とは別の神徒がいると分かった時点で、いや、当初の計画を外れた時点で、余計な対処はやめるべきでした」
『黙れ……元はと言えば、そこの小僧が使い物にならなくなったためではないか!!』
怒りの矛先が榮文に向かい、少年はびくっと体を震わせた。
「それはあの密偵を追跡させた私の責任です。ご容赦を」
優雅に頭を下げる。しかしその伏せた顔に一瞬憤怒の表情が浮かぶ。
そもそも必要のない秋祭りの工作を、しかも王都の連中に任せたところから間違いだった。
勘違いから末端が暴走し、優勝候補を致傷。後始末に駆り出されたのがラーマたちだ。
犯行現場を密偵らしき人物に見られたのは失策だったが、追跡できるように榮文が護法鬼の呪符を仕込んでおり、いつでも消すことができた。
が、その密偵をすぐ暗殺するよう強固に主張したのがカラスを通して語っている者、この国の主神であるオーディン。
彼の言葉に従った結果、密偵には逃げられ、剪紙成兵術は破られ、呪符から逆に道術士が嫌う『穢』を飛ばされ、榮文の眼と耳がしばらく使えない状態になってしまった。
おかげで紙の兵士で行うはずだった茶番劇に戦乙女を駆り出す羽目になり、後は転がり落ちるように……。
……何度か軌道修正が可能なポイントはあったのだが、それらを全て無視したあげくがこのざまだ。数百年前までの知識しか無い愚策の詰まった脳味噌で、知恵の神とは笑わせる。
頭を下げた数秒間で昨日今日の出来事を振り返ったラーマは、心の中で愚痴を並べた。
が、オーディンの怒りは収まらない。
『こんなことなら小僧、お前はあのまま豚どもの餌になっておればよかったものを……』
瞬間、ラーマの翠の瞳が怪しく閃いた。
同時に双頭のカラスの、頭の一方が斬り飛ばされる。頭は床に落ちてころころと転がり、そのまま床に空いた穴から一階に消えて行った。
「陛下、それ以上はお控え下さい。残り少ない神としての力を使って、切り落とされた首の山を築きたい、というのであればお止めしませんが」
残ったもう一方の頭にも刃……「く」の字型に曲がった剣であるグルカナイフが標的を合わせている。
それを持つのはデッキチェアの上で顔を伏せているラーマとは違う、別のラーマだった。
『……化身を仕舞え。儂も少し過ぎた』
「痛み入ります、陛下」
ラーマが顔を上げる。もう一人のラーマは既にいない。
「榮文、湯を注いでくれ。茶が冷めたみたいだ」
怯えた顔の少年に促す。
「えっ、でも……」
「頼むよ、榮文」
優しく話しかける。少年はその意味を理解し、
「是、ご主人!!」
喜んでまだ温かいポットを手に取った。
少年が準備する間、ラーマはカラス……の口を借りるオーディンに語りかける。
「では、これからの話をしましょうか。といっても後は小細工を弄さずにいれば、熟した実は貴方の懐に転がり込む。そのために姫が幼い時から、10年の歳月を費やしたのですから。もはや病床の王も、姿をくらました王子も手は出せない。もし問題があるとすれば……」
『新たな神徒か』
「不安要素になるとすれば、そうでしょうな。あれが冥府の女王を斃したようにも見えましたし」
『斃さずとも、いずれは朽ちる出来損ないだ。参考にはならん』
オーディンの反応はそっけない。
しかし突然王都に現れた未知の神徒である。
何者なのか、目的は、力は、そしてどの神に召喚されたのか。
……神徒とは7柱の創造神が元の世界、地球から召喚した決戦兵器だ。
1柱の神に、1人の神徒。
自らに纏わる神話の力、『異界神話』を行使し、対人、そして最終的には対神の切り札となる存在。
その一人がラーマであり、その一人が榮文。
だが神々は、互いにその情報を隠蔽しているため、彼らも自分たち以外の神徒を把握しているわけではない。そもそもここに二人の神徒が揃っていること自体が異常なのだ。
『黒髪、白肌の若い男と聞いているが、その者の生まれに心当たりはあるか?』
「ご存知の通り、神徒がこの世界で受肉する身体、神體は心の器。神徒の心の形によって姿を自由に変えるので、あれが本来の姿かどうかは分かりません」
ですが、と続ける。
「もし見た目通りなら簡単です……あれは日本人でしょう」
「僕が呪符を通して聞いた名前も、そのように聞こえました」
榮文も頷く。
『ニホン……聞かぬ名だ。どこの辺境国だ?』
オーディンの言葉に苦笑するラーマ。
ヨーロッパと北大西洋を中心に活動していたヴァイキングの神に、極東の一島国を知る由は無い。
「確かに辺境ではありますな。絹の道を東に東に、その陸の終わりからさらに東に船を漕いでようやく辿り着く、とても小さな島国です」
『ふん……小物ならば気にする必要は無い。捨て置け。邪魔なら踏み潰せ』
「そんなっ、彼らは小物どころか……ッ!!」
慌てて訂正しようとする榮文を、ラーマが制止した。その翠の瞳は、新しい玩具を見つけた子供のように輝いている。
「仰せの通りに、陛下」
『後は予定通りに進めるぞ……調子に乗りおって、蛮族どもめが』
誰に向かってか、小さな声で吐き捨てる。
そして頭の一つ欠けた双頭のカラスは、翼を広げて再び闇夜に飛び去った。
カラスの姿が見えなくなったのと同時に、ポットを持ったまま榮文がラーマに詰め寄る。
「ご主人、どうしてあのように誤解するようなことを?」
新しく湯を注がれた茶を飲み、一息入れるラーマ。
「私はね、榮文。常々言っているように、あるのならば見てみたいのだよ……」
そのままカップを月に掲げて宣言する。
「『王を総べる王器』というものを!!」
「……僕には理解しかねます、ご主人。僭越ながら」
「勿論だとも。これは私の道を求める楽しみ、いわば道楽なのだから」
笑顔満面のラーマを不思議そうに見つめる榮文。
「あの、もしかしてこっそり灯台を壊しに行ったのも、ですか?」
「そうとも!!一方的に神という立場を使い、何も知らぬ人々を誘導扇動し、型にはまった勝利の絵を描く。それで王器が量れるわけがない。そんなものは王器ではない、あってたまるものか!!」
空に向かって怪気炎を上げるラーマ。
「もしあの神徒が私たちの知る日本から来たのであれば、そして真実を知れば、あの男が描いた幼稚な絵をぐちゃぐちゃにしてくれるはずだ……地球の歴史で彼らがそうであったように。その時にこそ、奴に宿る王器の真贋が見える」
ぐいっ、と酒杯のように熱いお茶を飲み干す。
「……やはり同じ葉で4杯は難しかったな」
「よろしければ、5杯目は新しい葉で煎れ直しましょう」
「頼む。そうだ、キミも飲むといい。記憶を辿って作ったにしては、中々の出来だ」
少年がいそいそと二人分の茶に湯を注ぐ間、ラーマはデッキチェアに座り直し、少年の分の場所を空けた。
やがて湯気と共に濃厚な新茶の香りが立ち昇る。
夜風がさっと吹き、回りの草が揺れた。
「さて、邪魔者はいなくなった。改めて我々の夜の茶会を楽しむとしようか」
煎れたてのお茶が入った新しいカップを受け取るラーマ。隣に慣れた様子で少年が腰かける。
二人はそのまま月と星が散りばめられた、高く遠い碧の天蓋を見上げた。
「この星空だけは、懐かしい私たちの世界のものなのだから」