ここにもある星空
ぽっかりと雲に穴が開いた空から、黒い塊がばさっとが落ちてきた。慌てて駆け寄って抱き止める。
「よっと。ナルカ、お疲れ様」
「……ん、疲れた。でも頑張った」
完全に魔力と気力を使い果たしてぐったりと俺の腕にしなだれかかったナルカは、それでも満足そうに微笑んだ。
「ああ、よくやってくれた。ありがとうな」
「ん」
彼女の短い黒髪を撫でてやる。ナルカは安心したのか、そのまま小さな寝息を立て始めた。
相変わらず神経が太いというか、本能に正直と言うか……。
俺も立っているのがやっとなくらい疲れ切っていたため、適当な瓦礫を捜し出し、それを背もたれにして石畳の上に座り込む。
ナルカの『御神椎』が吹き飛ばした雲の穴から、傾き始めたオレンジ色の太陽の光が差し込んできた。日光の当たったところの手足だけが温かい。
そういえば島で戦った時も、二人してぶっ倒れてたな。そんなことをぼんやりと思い出す。
と、いきなり俺の周りに突風が吹き荒れた。服の裾がはためき、砂埃が巻き上がる。思わず目をつぶり、ナルカ守るようにして自分の身体を丸めた。
突風は吹き始めた時と同じように、すぐに吹き止んだ。
「うわにゅがっ!?」
口の中に砂が入ってじゃりじゃりする。
「お兄ちゃん、無事だった?痛くなかった?」
「ふわぷっ!!」
空から舞い降りてきたリーシャが、そのままの勢いで俺の顔に抱き着いて来た。彼女の発達途中でまだ胸板としか呼びようのない胸に、服の上から押し付けられる。
砂を吐き出そうとした瞬間だったので、うっかり唾ごと砂を飲み込んでしまった。
俺はニワトリか。
「それくらいにしときなさいな、リーシャ。息が止まってるじゃない。せっかく助かったのに、あなたがトドメを刺してどうするの?」
「あ、お兄ちゃんごめんね!!」
デューの声で顔からリーシャが離れる。幼女の胸で圧死とか、閻魔様も判断に困るだろうに。
目を開けると、リーシャとデュー、そしてお姫様が俺の前に立っていた。さっきの風に乗ってあの山車の上から飛び降りてきたのだろうか。身軽なことで。
ってか3人を見て今初めて、長耳の一族をエルフだと実感できた気がする。
最初に出会ったマッスルエルフとメタボエルフ印象が強すぎた。
「はは、みんなありがとう。とりあえず……やっつけた!!」
「うん。すごく怖かったけど……お兄ちゃんが勝つって私、信じてたから」
満面の笑みを浮かべるリーシャ。この子には色々とR-18な光景を見せてしまったな。芯の強い子だけれども、あとでPTSDっぽくうなされたりしないか心配だ。しばらく様子を見てあげないと。
そしてデューは俺と目が合うと、急に視線を逸らす。
「馬鹿、馬鹿よ、あなた。弱いくせに、あんな無茶して」
「悪い、それに関しては反省してる。冗談抜きで死にかけたからな」
さっきのあれは、正直自分でも思い出したくない。誤魔化すようにして苦笑し、右手に持ったままのデューの直刀を彼女に差し出す。
「これ、ありがとう。呪術ナイフはぶっ壊れちゃったけど……そうだ、あと精霊魔法で援護してくれたよな、助かったよ」
直刀を受け取り、メイド服のスカートの下に隠した鞘にちゃか、と仕舞うデュー。
「ナイフのことならいいわよ、どうせあのすっとこの持ち物なんだから。でも無事で良かった……本当に……本当に心配したんだから……」
「え?なんだって?」
どうにもデューは時々言葉が聞き取りにくくなる。俺が聞き返すと彼女は何故か顔を赤くしてお姫様の後ろに隠れてしまった。
「大儀でした、リーシャちゃんのお兄さんの、スクナさんでしたか。一度姿が見えなくなったときはもう駄目かと思いましたが……よくぞあの悍ましい怪物を倒してくださいました。後日改めて正式に褒賞させていただきたいと思いますが、今はこれを……」
お姫様は自分の指に嵌めていた指輪の一つを外し、俺の掌に置いた。銀のリングに小さな緑色の丸い宝石があしらってあり、光に透かすと奥にXのようなバツ印が書いてある。意味は分からないが、これもルーン文字だろうか。
「姫様、得体のしれない俺を信用して下さってありがとうございました。この勝利、姫様のご英断の賜物と呼んでも過言ではないと思います」
「謙遜する必要はありません。あなたはその信頼に立派に応えたのですから。それにしても……」
ヘルの消えた、水の無い噴水池を眺める。空になった池は中央の噴水装置から縁まで余すところなく先ほどの雷撃で破壊されており、復旧には時間がかかりそうだ。
「あのような化け物がこの王都に現れるとは。詳しいことはあの襲ってきた者たちに聞いてからになりますが……オーディン様がお守り下さったのでしょう。皆が無事でよかった……」
北欧神話の主神オーディンの信徒でありながら、戦乙女も死せる戦士たちも、冥府の女王も地獄の魔犬も知らないお姫様。
……俺には彼女の存在自体が矛盾の塊に見えた。ある意味、あのヘルよりも。
「おーい、戦士スクナ!!」
見覚えのある角の付いた兜を被った髭面の男が、俺に手を振りながら近寄ってきた。その横には戦乙女と思われる金髪の美女が寄り添っている。
彼女もさすがに半裸のままはキツかったのか、どこかで拾ってきた白い布を身体に巻きつけていた。布の隅に人形劇~とか書いてあったような気がしたが、緊急避難ということで見なかったことにしよう。
……今度ミミスに会ったら何か奢ってやるか。
「よくぞヘルを倒したな、戦士スクナ!!ノルドの民以外でこれほどの戦士に出会えるとは、いや愉快、愉快だぞ!!」
俺とお姫様の間に割り込んだホートのおっさんは、がははは、と笑いながら俺の両肩を掴んでぶるんぶるん揺する。
だから手荒いんだよ、行動全部が!!んでもって唾が飛んでる!!ナルカにかかるだろーが!!
……それはそれとして、
「おっさんも、協力してくれてありがとう。っていうか、あんたがいなければ、俺はあの亡者どもにやられていたよ」
「気にするな!!お前は良く戦ったし、俺も戦乙女を助けるという名誉を受けることができた!!それにヘルもガルムも倒した!!今は喜び、凱歌を上げる時だ!!」
またぐわはははは、と笑う。
この脳筋、とは思うけれども、彼の豪放磊落さには救われるところがある。俺の顔も、つられて思わず綻んだ。
「戦士よ……」
ホートのおっさんの横から、布を纏った戦乙女が現れる。あの蒼穹の鎧姿に比べればみすぼらしいが、それは彼女の持つ美しさの本質を全く損なってはいない。
「戦乙女、無事で良かったです」
「はい、貴方が手助けをして下さったと戦士ホートから聞きました。ありがとうございます」
首をかしげるようにしてにこっと微笑む。その拍子に長いウェーブがかった髪が一房、彼女の顔にぽさりと垂れ落ちた。
……可憐だ。自然に自分の頬が染まるのが分かった。
「くっ……」
「むむぅ……」
なぜかリーシャとデューが横でふくれっ面をしている。
「戦乙女、俺は貴女たちの国、その遠く東の海の果てからこの世界にやった来た。だが北の叙述詩と物語の最低限の知識はある……その上で一つだけ教えてくれ。貴女を遣わしたのは、知恵の泉の水を飲んだ男なのか?」
わざとオーディン、という単語を避けて尋ねる。
その言葉を聞いただけで、彼女の表情がさっと曇った。
「私には……それを答えることはできません。それが私の、あの方への、最後の忠心……」
さっきの反応だけで答えているようなものだが、戦乙女はそう言って頭を振った。
「そっか……じゃあ仕方ないな」
できれば彼女の口から黒幕を確認しておきたかったが、無理やり迫ったところで意味は無い。
命令されたならともかく、彼女はそれを自分の心で明かさないと言ったのだから。
顔を上げて戦乙女を、そしてホートのおっさんを真正面から見つめる。
「で、もう行くんだろ?」
「はい。せっかく出会えたというのに、名残惜しいのですが……」
戦乙女の身体からキラキラと輝く光の粒子が飛び出し、それが天に昇っていく。それはホートのおっさんも同じだ。同時に二人の姿が次第に薄れていった。
気が付くと生き残ったヴァイキングたちが、戦乙女を囲むようにして集まってきていた。彼らからも光の粒子が放出されていき、やがて向こうの景色が見えるほどに体が透けていく。
「戦士よ……もしできることならば、あの方の心を救ってほしい。神々の黄昏の後、新世界が生まれなかったことに絶望し、狂ってしまったあの神を……」
俺に悲しく微笑む戦乙女。
「……誓うことはできないけれども、約束をしよう。もしその時、俺の手が届くのならば」
「十分です。ありがとう、東の海から来た戦士よ」
すっと薄れゆく手を伸ばし、俺の右の手を取る。きめ細かい肌の感触が伝わって来た。
「貴方は、貴方が思っている以上に強い。こうして触れるだけでも、私たちのような消えゆく者ではない、今も生きる神々の力を感じます」
「それはどういう……」
戦乙女は俺の唇にその細い指を当てて制し、ちょっと羨ましいです、と呟くと、それ以上何も言わずに俺の手を離し、ヴァイキングたちの元に戻った。
「戦士スクナ!!」
ホートのおっさんが叫ぶ。
「短い時間だったが、お前の隣での戦いは楽しかったぞ!!次に会った時は、是非とも杯を酌み交わしたいものだな!!」
またこのおっさんは無茶を言う。
「はは、俺は遠慮しとくよ。どうせ蜜酒は全部、顎鬚伝って落ちちゃうからな」
苦笑しながら自分には無い顎鬚を撫ぜる仕草をする。
それを聞いたヴァイキングたちの表情が固まった。次の瞬間、
がーはっはっはっはっは!!
全員が同時に大声で笑い始めた。
「おい、聞いたか?」
「ああ、今時そんなこと言う奴がいるとは」
「うちの婆さんが昔話の時に、そう言うのを聞いたことがあるぞ」
「俺もだ」
小粋な北欧ジョークのつもりだったんだけど、まさかヴァイキングに時代遅れ呼ばわりされるとは。
「ぐははははっ!!戦士スクナ、お前の国にもあるのだな……語り継がれているのだな、俺たちの物語が!!それを知ることができたのが一番の土産だ!!どんな美酒よりも腹を甘く満たしたぞ!!」
言葉通り満ち足りた表情をするホートのおっさんとヴァイキングたち。
「では戦士スクナよ、さらばだ!!」
光が強くなり、ヴァイキングの姿が消える。
「さようなら、東の海の果てから来た戦士。貴方の航海に、貴方の物語に……良い風が吹きますように」
最後に戦乙女が祝福の言葉を残した。
そしてヴァイキングたちを追うように、彼女も光の粒子になって一緒に空へと昇っていく。
「俺の……物語……」
彼らが消えた空を見上げながら俺はしばらく、戦乙女の言葉をぼんやりと反芻していた。
それからはほとんどが後始末。といっても疲労困憊の俺たちに手伝う気力は無く、事情聴取は日を置いて、ということで勘弁してもらい、自然に解散の流れに落ち着いた。
前にお姫様抱っこでナルカ、そして背中側からおんぶでぶら下がるリーシャを引き連れてさっさと帰ることにした俺は、デューとお姫様に別れを告げてその場を辞する。
また直接見ていないものの、俺たちが家路についた後で例の助ける助ける詐欺のグリムニルとかいう男が駆けつけたらしい。
そう、全部終わってから。
何もない広場に一頻り唖然としてから、彼はそのままお姫様を連れて王城に帰って行った。デューも一緒に付いて行ったらしいから、道中どんな言い訳をしていたか、あとで聞いてみてもネタ的に面白いかもしれない。
途中で先に避難していたアイーダさんと合流し、パン工房に戻る。彼女は巻き込まれることは無かった代わりに、何が起きたのかを知りたがっていたので、明日説明することにする。正直今は無理です。
工房にたどり着いた俺たちをベッドの上から出迎えてくれたイドルドさんは、パン祭りで優勝してきたことを伝えると喜んでくれたが、その後リーシャを危険に巻き込んでしまったことを知ると、突然怒り始めた。一人娘の父親としては当然だろう。
しかし俺が怒られている間にリーシャが船を漕ぎだしたので、お説教はうやむやになってしまった。ナルカとリーシャを3階のベッドに寝かしつけた後、自分も限界だったのでベッドの隣の床に筵を引いて、倒れ込むようにして大爆睡。
次に目が覚めた時には、既に日はとっぷりと暮れていた。薄暗い部屋の中、横で眠る女の子二人の可愛い寝息が聞こえる。天窓からは星の光と、昨日より煌びやかな街の明かりが差し込んでいた。
「ねえ、大丈夫?調子に乗って飲みすぎたりするから……」
俺の肩を支えながら、デューが心配そうに顔を覗きこんでくる。
「だいじょびだにゃ~……これでも大学の同期じゃ嘔吐の坂谷、失禁の山原、脱衣の河原崎の3人と並んで自沈の大国と呼ばれ、数々の飲み会から門前払いされたという輝かしい経歴が……」
……あれ、良く考えると悲惨な歴史じゃね?
「もう、また意味の分からない話してるし」
俺の身体がよろめき、そのままデューに寄り掛かってしまう。しかし小柄な彼女の身体は支えきれずに、二人してよろめいてしまった。
「きゃっ!!」
「おっとっと……反省っ!!あはははっっ!!」
「ったく、こんなに酒癖が悪いなんて知ってたら、誘うんじゃなかったわ……」
はぁ、とため息をつくデュー。
彼女の服装はメイド服でも例のスク水じみた密偵の服でもない。今は白いブラウスの上から花柄をあしらった濃い藍色のベストを羽織り、同じ色と柄の長いスカートを穿いていた。薄紫色の長い髪は、後ろで一本のお下げに結われている。
昨日今日とあれだけ戦っていた彼女が、今はどこにでもいるような少し背の低い町娘にしか見えないのは、ある意味新鮮に感じる。
工房で一人目を覚ましていた俺を、一旦王城に戻ってから着替えて出直してきたデューが後夜祭に誘ってくれたわけなのだが……自分で思っていたより疲れが溜まっていたのかもしれない。赤ワインを2-3杯程度しか飲んでいないのだが、想像以上に酔いの回りが早い。少し千鳥足になりかける。
そんな俺をエスコートしてくれるデュー。小柄な彼女は成人しているのか心配だったが、無礼を承知で尋ねると、お姫様より2歳年上の20歳と教えてくれた。
「デリカシーが無いわね」と、お約束の説教付きで。
ちなみにあれだけの騒ぎがあったにも関わらず後夜祭が予定通りに執り行われた理由は、広場で暴れていたヴァイキングもヘルも消えてしまったため、「やらない理由が無いからやるぜ!!」ということなんだとか。
ずいぶんいい加減な話だが、そこはファンタジーということで。
屋台の売り物をつまんだり、酔っ払いのおっさんに冷やかされたりしながら夜の街を楽しんだ俺たちは、それなりに酔いが回ったところで夜風に当たるため港に続く坂を下っていた。
魚市場の中を通り抜け、明かりの消えた漁船や旅客船を横目に船着き場を過ぎ、誰もいない堤防の上に二人で登る。少し磯臭い夜の潮風が顔に当たった。
「うわぁは!!」
思わず感嘆の声が漏れた。
目の前に広がる海原、満月と半月の中間くらいの月が、水面に白銀の橋を架ける。
そこまでなら見たことのある光景だったが、本当の驚きは水面下にあった。
水中に大小様々な大きさの光の球体が浮かび、まるで海の中に別の星空が生まれたみたいだ。波の下の天球儀で星は動き、明滅し、絶えずその姿を変えている。
「初めて見た?あれは鱗の一族が、水中で光の放射機構を使って魚を集めているの。これだけの数は王都の近くじゃないと見られないんだから」
眼前の光景に圧倒され呆然としている俺に気付き、デューが説明する。俺が知らないことを知っていて、少し嬉しそうに見えるのは気のせいだろうか。
この海の下にも人がいて、暮らしがあって……何となく夜の高速道路を走りながら、過ぎていく街並みを見ているような感覚を思い出した。
そういえば王都に来る時に出会った鱗の一族、人魚のイクナ。王都近くを寝座にしていると言っていたか。だとするとこの沢山の光のどれか一つは、彼女なのかもしれない。
俺が堤防に腰をかけると、拳一つ分開けてデューが隣に腰かけた。
亜熱帯の温かい風が優しく火照った頬を撫でる。酔い覚ましにはならないが心地は良い。
「綺麗だな」
「ちょっと、いきなり何を言い出すのよ……」
腰を浮かして慌てながらも、デューの顔はそうまんざらではなさそうだ。
「この世界は、綺麗だなって思う……余裕が無くて、今日までゆっくり見る機会は無かったけどな」
「……そういうことね……」
ため息をつきながら座り直すデュー。
「そういえばあなたが別の世界から来た、っていう話は聞いていたけど、どんな世界だったの」
「世界っていうか、俺の国の話な。基本的にはこの国とそんなに違わないと思う。海があって山があって空があって、街があって人がいて……」
ただ規模は違いすぎるけど。
「そうそう、俺の世界はこの世界の創造神の一人、オーディンが元いた世界でもあるぞ」
「初耳よ!!」
そういえば、デューにその話はしていなかったっけ。
「それじゃ、あなたもオーディン様を?」
「いんにゃ。俺の国は、場所で言ったら世界の反対側だ。物語だけが伝わっているんだよ」
そしてこの世界の神話が伝える通り、俺の世界で彼を信奉する者はもういない。
「ふぅん……反対側?」
「そ。東の海の果てにある小さい島国。それが俺の国、日本」
「どうせあなたみたいな、変な人が沢山いる国なんでしょ」
笑って肯定する。世界基準からすれば、色んな意味でHENTAIだらけだし。
「俺はそこで医者をやっていたんだ。といっても、ヒヨコに毛が生えたようなもんだけど……」
……そこから俺の話は止まらなかった。
病院のこと。気の合う同期や一緒に働く同僚、世話になった上司、忘れられない患者。
家族のこと。俺と同じく医者をやっている口うるさい父親と、いい年してお嬢様気質が抜けない呑気な母親。今ではすっかり座敷犬になってしまった、子供の頃から飼っているビーグルの老犬。
友人のこと。オタク趣味の仲間や飲み仲間。小中高の同級生。地元に残った奴、とっくに結婚した奴。学校で、街で、海や山で遊んだ記憶や、色々仕出かした馬鹿な思い出。
春の桜とお花見。
夏の太陽と入道雲。
秋の満月と虫の声。
冬の雪景色と除夜の鐘。
酔いの勢いもあり立て板に水と、好き勝手に自分のことを喋り続ける。
隣に座るデューはそんな俺の話をどれくらい分かってくれたかは分からないが、笑い、驚き、時々訝しみながらも、嫌な顔一つせず聞いていてくれた。
「で、お月見をするときには団子を……」
目の前に浮かぶ月が目に入った。
ここは別の世界のハズなのに、月の表面には俺が幼い時から慣れ親しんでいるあのウサギの姿が描かれている。
それに気が付いた途端、自分でも説明できない感情の波が押し寄せ、言葉が出てこなくなった。
「どうしたのよ。急に静かになっちゃって」
沈黙した俺の顔をデューが不思議そうに覗きこむ。
「俺は、何でここにいるんだろうな……」
「え?」
空を見上げたまま、ぽつりと呟いた。
変わらない明日が、今日の向こうに待っている。
誰もがそれを疑わず、俺もまたそんな一人だった。朝に目が覚めた時、その夜を別の世界で過ごしているなんて想像できるはずがない。
でも何の前兆も無く気が付いた時、俺はこの世界で未開の森に立っていた……たった独りで。
家族、友人、仲間、身の回りの物、そして自分の居場所も一瞬で失った。
生まれてから今まで歩いてきた道、積み重ねてきた全ては、俺の後ろで音も無く崩れて消え去った。
真昼に見た夢のように、流れの中の泡沫のように……最初から何も無かったかのように。
鼻の奥が金属でも突っ込まれたみたいに、つん、と痛くなる。
記憶の俺は日本にいるのに、今の俺はここにいる……そう思うと、自分の中の思い出が急速に色を失っていった。
鮮やかな景色はセピア色に、そしてモノクロの古い写真のように変わる。
懐かしい顔たちが、顔という名の同じの記号に次々と置き換えられる。一度判らなくなった顔は、永遠に誰だか分からない。
心の中に人型の黒い穴がいくつもいくつも空いてゆく。
と、白く細い指が月を視る視界を横切った。眼の端がそっと拭われる。
「あ――」
気付かないうちに、涙が滲んでいたらしい。
振り返ると、デューが無言で雫に濡れた指を下に向けている。
「下?」
彼女が差す方を見るが、足元の堤防では空気を読んだフナムシがささっと逃げて行くだけだ。
「ああもうっ!!あなたって頭が良い癖に、肝心なところで本っ当に察しが悪いわね!!」
「だわぷゎっっ!!」
無理やり頭を掴まれ、長いスカートを穿いたデューの太ももに顔が押し付けられる。フェルトに似た厚手の生地に、眼に溜まった水分が吸い取られるのが分かった。
「何だよいきなり!?」
「いいからっ!!」
頭を上げようとするが、再びスカートに押し付けられてしまった。しばらくばたばたしていたが、どうやら彼女が膝枕をしてくれるつもりだと気付き、仰向けになり好意に甘えることにする。
「で、これはどういうことなんだ?」
「……お礼よ」
理由がわからずぼんやりしていると、頭上のデューの顔がぐぬぬ、という感じに変わった。彼女の表情はリーシャ並みにころころ変わるので、見ていて飽きない。
「昨日、私を助けてくれたじゃない。まだあの時のお礼を言ってなかったから……ありがとう、スクナ」
「別に大したことじゃない、っていうか、今日も俺の方が助けてもらったからな。こっちこそありがとう、デュー」
礼を返すが、彼女は仏頂面のままだ。
「……はぁ……やっぱりそうなっちゃうのね」
何やら肩を落とす。俺は彼女の言葉の意味が分からず、きょとんとしてしまう。
「そんなふうにいつも誰かに手を伸ばして、いつも誰かを抱きしめようとして……そのくせ自分のことは鳥の羽くらいにしか思ってないのよね、あなたは」
「……んなこと無いと思うけど」
「あるっっ!!」
デューが自分の膝の上にある俺の顔を両手でがっしりと固定し、ぐい、と距離を近づけて俺の瞳の奥を見つめてきた。
「広場の時も、止める暇も無く化け物に突っ込んで行っちゃって……あなたが死んじゃったらって思ったら、私……私……」
真っ直ぐに見つめながらも、デューの瞳からは大粒の涙の珠がぽたぽたと零れ落ちる。熱い雨を顔で受けながら、そっと彼女に手を伸ばす。が、
「だから、やめてって言ってるでしょ!!」
「おにゃっ!!」
伸ばした手をグイッと引っ張られた。そしてそのまま頭を抱え込まれるようにして、デューの胸元に引き寄せられる。柔らかい二つの膨らみが頬に当たるのを感じた。
「むぐ……おい、いきなり何を!?」
「黙りなさい……っていうか、たまには黙って抱きしめられてなさい!!」
彼女の剣幕に押されて仕方なく抵抗を止める。
その姿勢で双方無言のまま、しばらく時間が経った。やがてデューが口を開く。
「私は……突然この世界に来てしまったあなたの気持ちは分からない。でも、こうしてちゃんと掴まえておかないと、あなたは自分の身も顧みずに、また危険に飛び込んで行くと思うの。だって……」
洟をすすり上げる音と一緒に彼女の胸が動いた。
「だってあなたは、置き忘れた宝物を思い出すみたいに、いつもどこか遠くを見てるから。それを忘れようとして、無理に自分の身を危険に晒している……そんな気がするの」
絶句する。
出会ってそれほど経っていないデューの目にそう見えていたとは、想像もしていなかった。
いや、言われてみればその通りだ。
これが長い夢だとか、死んだら元の世界に戻れるのではないかとか、どこか目の前の現実を認められず、非現実感をもって捉えていたかもしれない。でも、
「……俺にとっての現実は、やっぱり元いた世界なんだよ、デュー。お前が言う通り、俺の宝物は手の届かないくらい遠くにある」
「だったら!!」
俺の頭を抱きしめる腕に力が入る。少し息が苦しい。
「だったら私たちも、あなたの宝物にして。宝物が一つじゃなきゃ駄目なんて、誰が決めたのよ!!」
「――――ッ!!」
その言葉が、俺の中にぽっかりと空いた黒い穴を、文字通り砕いた。
同時に心の景色が色を取り戻す。
日本で生きてきた思い出、その先のページにこの世界での思い出が次々と書き込まれ始める。
島で出会った黒羽の一族たち。
俺と一緒にいると言ってくれたナルカ。
ナルカを守るために自分を犠牲にした優しい姉のデュナさん。
責任と正義の間で揺れていたバウンさん、ジャナンさん、タパヌさん。
海で出会った鱗の一族の、マイペース過ぎるイクナ。
王都で出会った長耳の一族たち。
俺とナルカを助けてくれたイドルドさんと、幼いのに勇敢なリーシャ。酒場のアイーダさんに、人形使いのミミス。グレリーは評価保留、あいつは正直よく分からん。
一緒にヘルと戦ってくれたお姫様。
そしてここにいる、俺を抱きしめてくれているデュー。
彼女の体温が、鼓動が、柔らかさが、密着した顔と体から伝わって来た。
思わず唇の端が持ち上がり、くすくす、という笑い声が俺の口から洩れる。
デューが抱え込んでいた俺の頭を開放する。
星空を背景にした彼女の顔は涙と洟でぐちゃぐちゃになっていたが、何故かそれがとても美しく、また愛おしく想えた。
「そっか……俺はこの世界を……この世界も愛していいんだ」
自分の耳に言い聞かせるように、言葉を紡ぐ。
それは俺が、今ここにいるという現実を受け入れた瞬間だった。
「当たり前じゃない!!そんな簡単なことも分からないなんて、本当にバカ、バカバカバカッ……なんでこんな奴……」
「うちの地元じゃ、バカって言う方がバカなんだぞ」
「知らないわよ、バカッ!!」
一頻りバカバカ言い合うと、どちらからともなく二人の間に笑いの波が生まれた。
やがてその波が収まり、しばらく見つめ合った後、デューの顔が、唇が、重力に身を任せるようにして、自然に俺に近づいて来た。
その瞳は力いっぱい閉じられている。彼女なりに勇気を振り絞っているのが一目でわかった。
……これはあれだ、破壊力が反則だ。
100面ダイスを何個振っても、抵抗に成功できる気がしない。
『愛していい』って宣言しちゃったしな。
俺もデューに倣って目を閉じた。躊躇いながらも近づく彼女の唇が気配で分かる。
そしてその先端が軽く触れようとした瞬間、
「スクナ、ここにいた!!」
ばさばさっ、という羽音と共に、黒い人影が俺たちの横に舞い降りた。
突然の闖入者に驚いた俺たちは、ぱっちりと目を開けて距離3cmで視線を交わすと、わたわたと慌てて顔を服の裾で拭い、何もなかったように隣り合って座り直した。
傍から見たら昼ドラでありそうなシーンだろう。
「あ~とナルカ、もう起きたのか。もしかして俺を捜してたのか?」
少し上ずった声で尋ねる。
「ん。リーシャもデブも寝ているし、スクナが見つからなかったから。散歩のついでに」
人影……黒い翼を広げたナルカが応える。
「スクナは何をやっていたんだ?」
「俺もデューと散歩。ところで体は大丈夫か?」
「気にならない。夜になったら元気になった」
冥府の女王を消し飛ばせるほどの雷撃を作り出したにも関わらず、その回復力には驚かされる。
あれか、ファンタジー的に宿屋で寝たら全回復なのか。あそこはパン屋だけど。
ちらっとデューの方を見る。どことなくナルカを見る視線に棘があるような気がした。気持ちは分かるけど、これで良かったような悪かったような……。我ながら優柔不断だな。
ナルカのことだから気にしないだろうけれど、ばつの悪さを誤魔化すため彼女を質問攻めにする。
「でも何で港に来たんだ?俺がここにいるのが分かったのか?」
「んん。遠くから船が来るのが見えたから、まずここに散歩に来た」
夜目は効くのだろうが、さすがに望遠機能は無いらしい。
「船が港に?変ね……」
ナルカの言葉にデューが首をかしげた。
「何かおかしいのか?」
「おかしいわよ。今はお祭り期間中だから漁に出るのは禁止されているし、定期便がこんな時間に到着するわけがない。そもそもここ数日は不吉だからって風詠みが出港を禁止しているから、そうでなくても船を出すことは皆、自粛しているはずなのに」
「でも、私は見た。もうすぐ入ってくる頃だと思ったのだけれど」
言われて堤防から港の内外を見渡す。しかし、
「動いている船なんて、どこにもないぞ」
軍船、漁船、商船、定期船、渡し船……様々な船が港の中に停泊しているが、それらには動きどころか明かりさえ見えない。つーか見張りや警備も後夜祭でにぎわう街に出払ってしまったんじゃないか?おおらかというか、無責任な話だ。
「見間違いじゃないのかしら?」
「違う、はっきりと影が見えた。でも……灯りがどこにも点いていなかったから、変な船だった」
「灯りが点いていない、となると、遭難者か、もしくは誰かが闇に紛れて王都に潜入しようとしているのか……」
「だとしても、街中から見える距離なら最初に灯台守が見つけるはずよ」
その言葉ではた、と気が付いた。
「デュー、灯台ってどこにあるんだ?」
「何言ってるのよ。そこに立っているのが灯台も兼ねている風詠みの塔じゃない」
堤防から分岐した道の先を指差すデュー。そしてそのまま固まる。
月明かりの下、彼女の表情が凍りつくのが分かった。
「そんな……塔の灯りが……」
彼女の指差した先には、展望台から先を切り落とした京都タワーのような形をした、20mほどの石積みの塔が建っている。
しかし本来灯台でもあるはずの風詠みの塔に光は無く、シルエットが海の向こうの闇に溶け込んでしまっている。
「まさか塔の連中も、街に遊びに行ってるなんてことは無いよな」
「当たり前じゃない!!これは非常事態よ。早く報告しないと……」
ああでも風詠みの塔ってどこの管轄だったかしら、と悩むデュー。
「とにかく灯台の光が消えていて、船が近づいているのは事実だとする。つまり今この瞬間にも難破の可能性があるってことだ」
「そうね、優先順位は灯台の復旧が第一。なら応援を待つよりも、直接塔に向かった方が早いわね」
「……事故じゃなくて犯罪の可能性もあるんだろ。止めても俺は付いて行くからな」
苦笑して了解するデュー。こんな時に女の子を一人で行かせるわけにはいかない。
「それとナルカ、来たところで悪いけど、もう一度街に戻ってこのことを衛兵に知らせてきてくれないか?」
「衛兵?」
「ああ。昼間見た、鉄の鎧を着た連中だ。そうでなくても鎧を着た奴がいたら聞いてみてくれ」
関係者でもないのに全身フル装備の奴はいないだろうし。お台場の展示場ならともかく。
念のためにとデューがスカートのポケットから取り出したメモ用紙に、灯台の件と、裏側に『衛兵に伝えて下さい』の文字を書いて破り、ナルカに渡す。
「分かった。伝えたら私もすぐに向かう」
紙片を受け取ったナルカは、翼を広げて再び夜天に飛び立つ。それを確認して俺とデューは、光の消えた風詠みの塔に向かった。
放射機構の魔力光で照らされた塔内部の螺旋階段を上る。
アルコールの入った身体に運動はキツイが、今はそんなことを言っている暇は無い。一方デューはスカートで少し動きにくそうだが、息一つ切らしていない。
階段を最後まで上ると、屋上に出る木の扉があった。どうやら直接UFO型の展望台に繋がっているのではなく、一旦外に出てから改めて中に入る仕組みらしい。
扉を開けると、塔の上には地上より少し強い海からの潮風が吹き込んできた。
展望台の前に立つ。
灯台も兼ねている展望台は、全面ガラス張り仕様で扉も木枠にガラスが嵌めてある。光は通りやすそうだけど、日中は温室みたいで暑くないか?
ガラスを透かして見ると、中ではいかにも魔術師っぽいローブを着た数人が床に倒れ伏しているのが見えた。ぴくりとも動かないので、生きているかどうかは分からない。
どうやら中から開けてもらうのは難しそうだ。と同時に、事故でなく犯罪など人為的な事件の可能性が一気に高くなった。
慎重にドアノブを握る。意外にノブはあっさり回った。鍵はかかっていないようだ。
「待って、罠が仕掛けてあるかもしれない」
デューに静止され、改めて二人でドアを調べる。鍵穴の奥を確認しようとした時だった。
「何か甘い匂いがしないか?」
穴から少し焦げたような、柑橘類系の匂いが漂ってくるのが気になった。
「これは……催眠香ね」
舌でも匂いを嗅いでいたデューが、ぺろっと唇を舐める。それでよく分かるな。
どんな不思議アイテムか知らないが、名前から効果は想像できる。そしてそれが室内に充満しているのだとしたら……。
「このまま踏み込むのは難しいか」
何か使えるものがないかと周囲を見渡すが、塔の屋上は片づけられており、周りには暗い海と空が広がっているだけだ。
潮風がぶわっと吹き、目の前でデューの長いお下げが揺れた。それを見て、一つ思いつく。
「あのさ、デューの精霊魔法って潮風も操れたりするのか?」
「できるはずよ。やったことはないけれど」
だったら……。
「今だっ!!」
俺が扉を開けるのと同時に、デューが精霊魔法で集めた海風を解き放つ。
ごうっ、と唸りを上げて塩気を孕んだ空気の塊が展望室内に殺到する。風は書類を巻き上げ備品を吹き飛ばし存分に暴れ回った後、反対側にある海に面した窓を吹き飛ばして仲間のところへ帰っていった。
これで中に充満していた催眠香は散ったはず。開けたドアから土足で踏み込む。
「灯台機能のチェックを頼む!!」
彼女が展望台の中心にある巨大な全周照明装置に駆け寄る間に、寝ころんでいるローブを着た1人に近づきフードをめくる。
中から壮年男性の顔が現れた。口に手を当てると呼吸を感じる。脈も強く触れるし、ざっと見たところ目立つ傷も無い。どうやら本当に眠らされているだけのようだ。
「ダメ……照明の放射機構を起動させる加圧装置が壊されてる!!」
見ると中央に据え付けられた巨大な球体、おそらく光の魔法が溜めこまれた放射機構、その万力型の台座についている太いネジが折れているのが分かった。
「予備照明は、替えの起動装置は無いのか?」
「そんなの分からないわよ!!」
そりゃそうだ。しかし何とか灯台を起動させないと。
……放射機構は持続的な圧力をかければ起動できる。壊れているのは本体ではなくその加圧装置。つまり展望室の中心にある、あの大きな球体に圧力をかけ続けることができれば、その手段は関係ない。
「昼にお姫様がやっていた、木を生やす魔法!!あれを使って発光体を直接締め上げるんだ!!」
「相変わらず発想が自由と言うか、突拍子もないわね……でもやってみる!!」
目を閉じて周囲の木材に呼びかけ始めるデュー。
俺はその間に海に向かって少しでも光を、と思い、近くの木製デスクにあった放射機構の卓上スタンドを引っ掴んで、風で吹っ飛ばされた海側の窓に走り寄る。
スタンドに付いている万力を全力で捻ると、数秒遅れて小さな発光球体から眩しい光が溢れ出した。それを海に向かって振り回す。ナルカは港に近づく船があると言っていたが、気付いてくれるだろうか。
「んなっ!?」
と、突然俺の眼の前に電信柱が現れた。
いや、電信柱じゃない。暗くて見間違えてしまったが、それは古ぼけた船のマストだった。
相手が灯火していなかったにしても、こんな直前まで船舶の接近に気付かなかったなんて……。
衝突するっ!!
思わず目をつぶった瞬間、ぱっと世界が光に溢れた。
「ふぅ、何とか起動できたわ」
あまりの眩しさに顔を手で覆いながら、ゆっくりと目を開けて振り返る。そこには展望室の柱や梁から伸びたいくつもの木の枝が、中央の発光体をぎりぎりと締め上げているのが見て取れた。
逆光になっているが、横に立つデューの顔は少し誇らしげだ。
「そうだ、さっきの船は?!」
慌てて窓の外に頭を出して覗く。
しかしそこには何もない。
ただ展望室から漏れ出した光が、黒い海面をてらてらと照らしているだけだった。
「どうかしたの?」
デューが近寄ってきて、俺の横からその小さい頭をひょっこり出す。
「いや、灯台のすぐ近くに船がいたような気がしたんだけど……」
「……何も見えないわよ?」
「だよな。ごめん、見間違いだったみたいだ」
しっかりしてよね、と呆れて発光体の方に戻るデューに、俺は笑って誤魔化す。
……本当にそうだったのだろうか。
まだ体内にはアルコールが残っているし、スタンド程度の照明では良く見えなくても仕方ない。だが見間違いとは、何かを別の何かと勘違いするということだ。
じゃあ船でないというのなら、さっき見えた柱状のものは一体何だったのか。
ファンタジー的にフタバスズキリュウの頭か?それとも海キリンの首か?
「曲者だっ!!皆の者、出会え出会えっっ……あれ?」
いきなり時代劇みたいな台詞が聞こえたのでその方向を見ると、さっき安否を確認した人とは別の50歳くらいの壮年男性が、困惑した表情で立ち上がって俺たちを指差していた。
「あんたたち、誰だ?」
しいて言うなら、通りすがりの善意の一般人です。
「私たち、灯台が消えてたから心配で見に来たの。船が近付いてるっていう目撃証言もあったから、少し乱暴な方法で灯台を再起動させてもらったわ」
「そうか……ありがとう。って、柱が!!装置が!!照明が!!窓が!!書類が!!」
礼を言った男性は辺りを見渡して再度叫びを上げる。
まあ確かに室内に暴風を送り込み、あげく柱で発光体をがんじがらめにしているわけで……。
そういえば光の中で見ると、実際には放射機構の発光球体は、展望室内でなくその上にある小さな照明室に手動エレベーターで持ち上げて使うらしい。そして照明室へ続く天窓は、屋根からも伸びる枝で完全に塞がれている。
……修理頑張ってください。
「で、一体ここで何があったんだ?」
頭を抱えて蹲る男性に近づき、声をかける。
「それが私にも分からないんだ。夕方、薄暗くなってきたからそろそろ明かりを点けようとした時、急に見知らぬ男が部屋の中に入ってきた。と思ったら、いきなり頭を殴られてそれっきり……」
そう言うと男性は、いたたた、とまた頭を抱えて座り込んだ。
なるほど、灯台の照明装置を破壊したのはその男の仕業か。
なら催眠香も……ん?
「少しおかしくないか」
「何が?」
「だって催眠香って、相手を眠らせるためのものなんだろ。それなのに何で侵入者は、最初にぶん殴って昏倒させたんだ?」
どうせ眠らせるのなら、ゆっくりじわじわ燻せばいいものを。
「そうね……催眠香は独特の強い匂いがあるし、しばらく吸わせ続けないと効果が現れないの。ちゃんと使おうと思ったら密閉空間である必要があるわ。ここなら窓を開ければ換気できてしまうから、確実な方法を選んだんじゃないのかしら?」
なるほど、それなら説明はつく。
が、用事が終われば催眠香を焚かずに帰ってもいいはずだ。
わざわざそれを設置していった、ということに意味があるとすれば、
「……眠らせるためではなく、眠った状態を維持するために催眠香を使ったのか!!」
愕然とする。
それは手術などの全身麻酔で使われる、導入麻酔と維持麻酔の発想だ。
眠らせるためには即効性の注射の麻酔薬を、睡眠状態を維持するためにはゆっくり長時間効く麻酔ガスを使い分ける。
……いるのか、この世界にそんな考え方ができる人間が。
可能性はゼロではない。が、
「一応確認しておくと、その見知らぬ男ってのは眼が翠色だったり、4つに分裂したりはしなかったか?」
「しっかりと見る余裕は無かったが、そうでは無かったと思う……」
そんなに都合よくはいかないか。
と、階下から大勢の足音がこちらに向かって来るのが聞こえてきた。ナルカが上手くやってくれたらしい。
「後は警備兵にでも任せて、私たちは帰りましょう。夜も遅いし、少し疲れたわ」
「そうだな……」
帰る前にもう一度展望室の窓から外を見る。
いつの間にか月は雲に隠れ、人魚たちの漁火も消えていた。
灯台の放つ光が届くその先には、泡立つ漆黒の平原がどこまでも広がっていた