終の女神に送る花
「おい坊主。生きてるか?」
何が起こったのか分からなかった。俺がぼんやり空を見上げたままで固まっていると、毛むくじゃらの太い腕が伸びてきて無理やり引き起こされる。
「あんたは……」
「おう、生きてたか。立てたのならさっさと逃げろ。あとは儂らが始末をつける」
俺を助け起こしてくれたのは、先ほどまで騎士団と戦っていたはずのヴァイキングの男だった。見ると広場のあちこちで、ヴァイキングたちが血人形に剣を振るっている。その刃が触れるだけで、何体もの血人形が一度に粉々になって砕け散った。
「どうして俺を?」
「あ?奴らを倒すついでだ。儂ら死せる戦士たちは、神々の黄昏でヘルの亡者や巨人と戦うために選ばれたのだからな!!」
男が手に持った斧を一振りするだけで、破壊の波がつむじ風のように広がる。
「ガハハハハッ!!やはり戦いは心が躍るわい!!戦乙女、待っておれよ!!」
楽しそうに血人形の中に飛び込んでいき、斬り、砕き、消し飛ばしと、まさに無双状態。水滸伝の黒旋風がいたら、こんな感じだったのかもしれない。
既にヴァイキングのうち何人かは血人形の群れを突破し、ヘル=ガルムに直接刃を振り下ろすまでに至っている様子だ。しかしガルムの鋭い顎門に頸を、また胴体を噛み千切られ、有効打を与えられないまま光の粒子になって消えていく。
俺を助けた彼も、そのままヘル=ガルムの方に向かって血人形をかき分け走り去って行った。また一人、戦場に取り残される。
「そうだ、リーシャは?お姫様たちは?」
彼女たちが逃げた先を視線で追う。そこには再び盾を構えて防御陣を構築した騎士団と、その後ろ、山車の上で戦況を見守っているデューとお姫様の姿があった。お姫様の腕の中のリーシャが、こちらに向かって手を振っている。そして彼女は手すりから乗り出そうとして、またお姫様に捕まった。
「良かった、皆無事だったんだな」
安堵が心を満たす。と同時に、先ほど一瞬でも憎悪にまみれてしまった自分のことが急に恥ずかしく思えてきた。
「スクナ、遅くなった!!無事か!?」
背中の黒い羽根を羽ばたかせながら、ナルカが横に舞い降りる。
「ああ、ヴァイキングのおっさんに助けてもらったから。ナルカは?」
「角兜の男たちのことか?私もそう。逃げる途中で彼らが突然赤い人形と戦い始めてくれたから、無事に包囲を抜けることができた」
ヴァイキングたちが動き始めるのがもう少し遅かったら、俺はもちろん、ナルカ達も危なかったということか……。
自分の危機意識の甘さには呆れるしかない。
今頃になってやっと、死の恐怖が実感を伴って背中をよじ登って来る。両膝の関節が笑って、立つのがやっとだ。
アニサキスの時は、最後は直接相対して戦う羽目になったものの、不完全ながらも敵を殺しきれるだけの準備をしてから戦いに臨んでいた。それに比べれば今回は、相手の正体もよく分からない状態で敵を戦乙女と断定し、攻撃を仕掛けた挙句がこのざまだ。
何が『男だから』だ。
自分の言動を思い出すだけで、穴掘って埋まりたくなってくる。
「……あ~いかん、へこむなへこむなっ!!」
「ん?戦う時に自分の頭を叩くのがスクナの国の習慣なのか?」
ぽこぽこと自分の拳を頭に当てて、ともすればネガティブな方向に落ち込みそうになる自分を必死に鼓舞する。それを見てのナルカの感想は、さもありなん。気持ちを切り替える方法としては幼稚だが、柱の方々みたいに大泣きしたり自分の目玉を潰したり、なんてことはできないわけで。
「気にするな。リーシャ達が無事なら、俺たちもさっさと離脱したいところだけど……」
血人形と戦い続けるヴァイキング……死せる戦士たち。彼らの攻撃は、人形たちを藁でも倒すかのように吹き飛ばし、蹴散らしていく。ただ、血人形は恐れを知らず、その数も後方のヘル=ガルムが供給を続けている限り、極端に減ることは無い。戦線は膠着した状態……ということは、一手で良い方にも悪い方にも転がる、ということだ。
ここで俺ができることは……。
……いや、俺には何もできないとさっき身に染みて分かったばかりだ。また自分と、それだけでは飽き足らず周囲の人間を危険に巻き込もうというのか。
けれども……。
「スクナ、何を考えている?」
突然思案顔になった俺を、ナルカが訝しがった。
「……俺は今迷っている。あの化け物と戦うべきか、それとも逃げるべきか……」
彼女は黙って耳を傾けている。独白を続ける。
「俺は……元々戦士じゃない。武器は借り物だし、魔法も使えない。闘い方は授業でやったくらいだ。本当の俺は口ばっかりで、腕力も無くて、戦場にいてもいい人間じゃない。だけど……」
ふいに、直刀を握る右手の上にナルカの手が添えられた。彼女の体温が伝わる。温かい。
「例えそうだったとしても……私が戦った時、スクナは隣にいてくれた。もしスクナが戦うのなら、次は私が隣にいる」
ナルカの手に力がこもった。
「……スクナは何がしたい?私はそこにいる……たった一人の、私の家族だから」
言葉は出なかった。いや、単に必要なかっただけだ。
一瞬の逡巡の後、俺の心は決まった。
「……あの化け物を、今度こそ倒すぞ、ナルカ!!」
「んっっ!!」
こんなに追い詰められた状況の下だというのに、ナルカは満面の笑顔で、嬉しそうに大きく頷いた。
助力を求めるべく先ほどのヴァイキングのおっさんを追って、まだ残る血人形の群れに飛び込む。
「ナルカ、雷を!!」
走りながら指示を出す。ナルカの碧い肌の体に白い電光が宿り、俺たちの進路上の血人形に向かって扇状に放電が走る。人形たちはヴァイキングの攻撃に触れた時と同じように、雷の一条が接触しただけでも簡単に崩れ落ちた。
「これは……とても楽」
「そういうこと。ってな感じで、じゃんじゃん頼む!!」
「ん!!」
よくゲームなどでHP1の身代わりや分身を出現させる技がある。今俺たちを襲ってくる血人形もそれと同じ特性を持った敵ではないかと仮説を立てたのだが、どうやら正しかったみたいだ。
さらにデューの攻撃が効かなかったことから、血人形には特殊な防御能力があり、逆にそれを突破できれば容易に破壊できると推測。俺やヴァイキングの武器攻撃、ナルカの鉈や雷撃が有効だったことから、なるべく弱く、なるべく広範囲にナルカの雷撃をばら撒いてみた。
結果は大成功。先ほどまでに比べると、無人の荒野を行くが如き楽ちんさだ。
手足への攻撃では機能停止に追い込めないので、ナルカは胴体の高さで横薙ぎに電撃を放射する。少しでも電撃が触れれば血人形は動きを止め、土団子が割れるようにしてぼろっと簡単に崩れ去る。
おかげで大した時間も取られずに、件のヴァイキングのところへ辿り着くことができた。
「おっさん!!」
「おお、さっきの坊主か」
俺が叫ぶと、男は血人形を破壊する手を止めて振り向いた。その体には傷痕は無かったものの、人形のあの強烈な打撃を何度か喰らったらしく、青あざのようなものがいくつかできている。
疲れた様子は無いが、いつかは押し切られていたかもしれない、と考えると怖い。
「どうした、逃げろと言ったろうに。もしかしてお前も戦いに来たのか?」
「……そうだと言ったら、一緒に戦ってくれますか?」
突然の言葉に驚いたヴァイキングは、俺と俺の隣に立つナルカの顔を覗きこんだ。そして俺たちが冗談で言っているのではないことを知ると、大口を開けて、再びがははははっ!!と豪快に笑った。
「儂は構わんぞ。だがお前たち、その細腕で何ができるというのだ?」
男の値踏みするような視線が容赦なく降り注ぐ。だが、ここで怖気づいている暇は無い。
「策があります。あの化け物……冥府の女王と地獄の魔犬、そして戦乙女が一つになった、あいつを倒す方法が」
ほう、と小さな感嘆の声がヴァイキングの口から洩れる。
「見たところ儂らのようなノルドの民ではないというのに、よくあれの正体が分かったな」
「すぐには分かりませんでした。あなたたち死せる戦士たちが戦っていたからこそ、確信できたんです」
そう、あの怪物が単純にヘルとガルムだけの融合体だったのであれば、死せる戦士たちはここに存在できない。ただの死者はヘルの管轄領域に入るが、勇者の魂である彼らは、オーディンと戦乙女が管理する特別な存在、英霊なのだ。戦乙女が戦場にいなければ、ここに居続けられる理由が説明できない。
「坊主、お前はどうやってあれを斃すつもりだ?」
「……その前に、あなた方はどうするつもりだったんです?」
「儂らか?簡単な話だ。この溢れ出る亡者を蹴散らし、ガルムの喉を裂き、ヘルの首を刎ねればお終い。それだけだ」
……こんの脳筋っっ!!
それだと確実に戦乙女も一緒に死んでしまうだろーが!!
心の中で盛大に突っ込むが、口には出さないで、へーそうですかーと適当に相槌を打って誤魔化す。
「もっと確実な方法があります。これならヘルとガルムだけを倒して、戦乙女も救い出せるかもしれない」
「……おう、言ってみろ坊主」
……あの化け物は、冥府の女王、地獄の魔犬、戦乙女の3つがくっついたものではあるが、混ざっているわけではない。
つまり、戦乙女とヘル、ヘルとガルムは繋がっているが、戦乙女とガルムの間に連結は無い。前者は死者を先導するという職能で、後者は冥府の主従ということで繋ぐことができるが、戦乙女とガルムには共通部分が無いためだろう、直接繋ぐことができないのだ。
また攻撃する上で一つ問題がある。
ヘルは半身生者、半身死者の神なのだが、現状では生者部分を戦乙女が肩代わりしているため、純粋にヘルと呼べる部分は左半分の死者側だけ。そして死者は、既に死んでいるため殺せない可能性がある。
この2点から導き出される最適解は、
「ガルムだけを倒すことができれば、戦乙女を傷つけることなくヘルに打撃を与えることができます。ヘルの支配力が弱まった瞬間、戦乙女を切り離せればそれで良し。そうでなければ少し乱暴ですが、ヘルと戦乙女、その両方に雷をぶつけて攻撃します。すると弱っている方が先に死ぬ。戦乙女を傷つけてはしまいますが、弱ったヘルが先に音を上げるはずなので、戦乙女だけを助けることができます」
要するに癌の治療法の発想だ。
戦乙女が正常な細胞で、ヘルが癌細胞だと考えると分かりやすい。
前者は術前化学療法……手術の前に予め抗癌剤を投与することで、癌組織と転移巣にダメージを与えてサイズを縮小。その後残った病巣を手術で切り取る方法。
後者は薬物放射線治療……放射線を当てて癌細胞を弱らせ、その上で抗癌剤を投与する。抗癌剤は正常な細胞にもダメージを与えるが、より癌細胞に効きやすく作られているため、正常な細胞が死に切る前に、既に放射線で弱ったガン細胞を殺しきる方法。
ナルカの雷が血人形、つまり亡者に有効だったことからこの方法を思いついた。特に後者は戦乙女にも攻撃を浴びせてしまうのが難点だが、そこが俺たちの限界でもある。
「だが、死者であるヘルを殺しきれるのか?」
「ヘルがわざわざ敵である戦乙女と一つになっている理由……ヘルは、ヘル単独の力だけでは、ここには存在できないのではないかと考えました。だから戦乙女を取り込み、それだけでは足りずに自分の飼い犬ガルムとも合体している。ヘルの存在条件が戦乙女とガルムなら、ガルムを削ればヘルは存在できないほどの痛手を受ける」
首をひねりながらも納得するヴァイキングの男。
ただ彼には説明しなかったが、それは同時に戦乙女の存在にも、ヘルやガルムが必要である可能性も意味する。それが俺の杞憂であってほしい。
「……なるほど、口だけではなく理に適っているな。だがガルムだけを倒すというのは、どうやるつもりだ?」
「神々の黄昏でガルムの最期は、軍神テュールと相打ちになる、と言われています。それを再現してやればいい」
「テュールの力でも借りるつもりか。だがどうやって?」
俺は自分の腰帯からデューから託されたグレリーの呪術ナイフを取り出して、ヴァイキングに見せつけた。その柄には○の中に上向きの矢印↑の刻印がなされている。
「こいつがテュールの代わりになる、勝利のルーンです」
同じ名前を持つものは互いに作用し合うという、二つある魔術の基本の一方、感応魔術の原理。
「……坊主、お前は魔術士か何かか?」
ヴァイキングの反応に苦笑する。俺の本職は……、
「医者です。でも冥界の亡者たちが死せる戦士たちの敵なのと同じくらい、死は俺たちの商売敵ですから」
突然、男が先ほどよりも大きな声で笑い出した。耳が痛い。
「面白い、実に面白いぞ!!まるで神話の英雄譚に詠われるような、知恵と魔術の戦いではないか!!」
笑いながら俺の背中を、その大きな毛むくじゃらの手でばんばん叩く。背中が痛い。
「坊主、名は何という?俺はノルドの戦士ゲラックの息子ホート。お前の提案、乗らせてもらうぞ!!」
「俺は大和の医師健那。戦士ホート、よろしく頼む」
「おお、任せろ!!それで儂は何をすればいい?」
彼の装備を見る。斧と盾、角の付いた兜を被った、一般的なヴァイキングの装備だ。使えそうなものは……
「盾を使って抑え込んで、ガルムの動きを止めてほしい。その間に俺が、このナイフでガルムの心の臓に一撃を入れる」
「構わんが、美味しいところだけ持っていくのか?」
少々不満を口にするホートのおっさん。この期に及んでその発想というのが、非常にヴァイキングらしい。
「悪いけど、俺にはガルムを止める力が無い。その代り上手く一撃が決まったら、戦乙女を助け出す役を頼みたい」
「それならば不満は無い。では行くぞ、戦士スクナ!!」
いきなり俺を置いてヘル=ガルムのところに走り出す。
やっぱり脳筋だ、この人。
「ナルカ、俺たちも続こう」
「ん」
おっさんが切り開いた道が閉じる前に、二人で走り出した。敵の待つ噴水池まで、距離はほとんどない。
と、
「おい、戦士スクナ!!今だ、こいつの芯を抉ってやれ!!」
叫び声が聞こえたので見ると、早くもおっさんがガルムの頭突きを盾で受けながら、じりじりとその頭を押し込めようと全身の筋肉をフル稼働させているところだった。ガルムはぐるぐるぐる……と怒りの唸り声を上げている。連携とかそういう発想も皆無らしい。
「早いよ!!少しは待てよ!!」
思わず突っ込みを入れるが、こうしている時間も惜しい。
「――ナルカ、闘っている間、あの人型をした血が俺たちに近づかないようにしてくれるか?それと俺が合図をしたら、あの犬だかゾンビだか分からない化け物に、上から全力の雷をぶちかませ!!」
「分かった!!」
だっ、とその場で踏み切って再び天空に舞うナルカ。
俺は呪術ナイフを左手に、デューの直刀を右手に構え直し、全速力でガルムへの距離を詰める。
幸いガルムはホートのおっさんが盾の下にする形でしっかり抑え込んでおり、俺に構っている余裕はない。さらにその後ろ半分にくっついたヘルも、俺を狙って動こうとはしない。
片方が動くと片方が止まる。やはりこいつら、セットで一体だ。
目立たないようにガルムの左側に回り込む。股下の高さ1.5m程度だが、十分手は届く。その左前足の斜め下、毛皮の間に痩せて浮き出た肋骨の隙間に狙いを定める。
「ぜいやッッ!!」
その牛のように太い胴体に向かって、思いっきりナイフを垂直に突き上げた。
毛皮に覆われて刺さったところまでは見えないが、その奥で皮膚に刃が刺さり、ずぷ、という固い革を切り裂くような感覚が伝わって来る。
少しずつめり込んでいくナイフの刃を伝って、どす黒い血が俺の左腕に流れ落ちてくる。毒があるという話は聞いていないが、死人の血のように冷たくゼリー状に固まりかけたガルムの血は、当たったところの肌が灼けるようにひりひりと痛んだ。
血に濡れた汚れたガルムの毛皮が俺の眼前に迫る。臭い。血の生臭さはもちろんのこと、噴水で濡れたため、文字通り濡れ犬を拭いた雑巾みたいな悪臭だ。
ここに至ってやっと俺を危険因子だと認めた地獄の魔犬は、押さえつけられながらも必死で左前脚を動かして俺を排除しようともがく。俺の頭を狙って砂かけの要領で丸太のように太い毛むくじゃらの脚が飛んできた。
「ぬぅ―――やらせはせんぞぅっ!!」
突然盾を投げ捨てたホートのおっさんが、ガルムの意識が俺に向いた隙をついて、全身でガルムの頭に飛びついた。屈強な両腕でその頸筋に取り付き、裸締めにギリギリと締め上げる。
虚を突かれたガルムは抵抗できず、ぎゃいんっ、と悲鳴をあげて体勢を崩した。その拍子に体重を受けて俺の左手のナイフが進み、刃の根元まで深々と突き刺さる。一気に傷口が広がったのだろう、毛皮に隠れて見えないの腕に大量の血液が降り注いだ。が、
「くっ!長さが足りない!!」
「何だとっ?!」
小さなサバイバルナイフ程度の長さでは足りなかったのか、一番奥まで突き刺したにも関わらず、ナイフを持つ手に心臓の拍動が触れない。
そもそも心臓が動いていないのかもしれないが、魔術的意味を考えれば、たとえ動いていなくとも心臓は急所のハズ。にも関わらず、少なくともガルムは動きを止めていない。
腕を伝って落ちる血は先ほどよりも明らかに増えているのだが、俺の知る心臓や大動脈の破裂……患者から噴き出した血が天井まで真っ赤に染める……そんな勢いとは明らかに違う。
「うぉっ!!この犬めがっ!!」
ガルムがホートのおっさんを引き剥がそうと大きく首を振った。おっさんも離されまいと必死でしがみ付く。彼の巨体は、ガルムの鼻先でロデオマシーンに乗っているかのようにゆすられた。いくら疲れを知らない死せる戦士でも、力任せに振りほどかれればどうしようもない。
飛び散った赤い雫から新しい血人形が生まれるが、その都度天空から薙ぎ払うような白い雷が落ち、血人形は次々と崩れ去る。ナルカが頑張ってくれているのだ。幸いガルム自身の血自体には、血人形を生み出す力は無いみたいだ。しかし、悠長なことは言ってられない。
「こうなったら――」
覚悟を決める。
ナイフを持つ左手の人差し指と中指とを太極拳でいう指剣……指を閉じたジャンケンのチョキの形に変え、ナイフの刃に添えた。
「直接抉るっ!!」
ガルムの肋骨の間に開いたはずの傷口に向かって、二本の指をナイフに沿って全身の力を籠めて突き出した。
ぎゃんっ、とガルムが再び短い悲鳴を上げる。知ったことか!!
肋骨の隙間をこじ開け、無理やりに指をねじ込み進めていく。指先に触れるガルムの肉は、まるで屍肉のように冷たいが、血液だけが妙に熱く感じる。苦痛のためか、無茶苦茶に暴れるガルム。閉じられた口の端からは血の色の混じった泡を吹き出している。しがみ付くホートのおっさんの巨躯が、振り子のように上下左右に振られる。
「急げ、戦士スクナ。このままではあと寸刻ももたん!!」
「分かってる!!もう一寸――ッ!!」
硬い皮膚を、柔らかい皮下組織を、筋肉を体繊維を血管をかき分けてガルムの体内を押し進む。耳元にぐちゅりと湿った泥をごねるような音が聞こえる。
指、拳、そして左手が半分までが埋まったところで、ナイフの切っ先に弾力のあるゴム鞠のような塊が触れた。その激しく律動する塊から脈動が伝わり、ダマスカス鋼製のナイフの刃がびりびりと震える。
見つけた――ガルムの心臓!!
暴れる刃を捻じ伏せ、踏ん張る左足から左腕を一本の槍にして、分厚い心臓の筋肉を突き刺した。意外にもナイフは抵抗を感じることなく、あっさりと吸い込まれるようにガルムの心臓を貫き通す。
その瞬間、ガルムが哭いた。
苦痛に歪んだ大きな口から放たれた音とも思えない空気の振動が、世界を凍結させる。
それは間近にいた俺の鼓膜ではなく脳髄を直接揺らす。
いや、ガルムだけではない。その後ろに繋がるヘルも哭いていた。
土気色をして痩せこけた戦乙女の顔左半分、地獄の女王の部分が声にならない悲鳴を上げている。
無音の慟哭、無音の絶叫。
意味もメッセージも無い、悲鳴のための悲鳴。
数秒後、再び世界は動き出す。途端に俺が開けた傷口から、屍肉のようなガルムの体には似つかわしくない熱い血潮が吹き出すように溢れ出した。
「やったのか!?」
「多分ッ―――!!」
確証が得られるまでナイフは抜けない。だがガルムの抵抗は明らかに弱まってきているようだ。一旦は勢いよく噴き出した心臓からも出血も減り、ナイフの刃先からガルムの体内にある左手に伝わってくる脈動も、次第に細くなってきているのが分かった。
これでいい。
この呪術ナイフに宿る勝利のルーンの加護があれば、一度殺せば確実にガルムを殺しきれる。さっきの反応から、ガルムに繋がったヘルにも一定のダメージがあったはずだ。
間を置かずに、次ッ!!
「戦士ホート!!今のうちに戦乙女を!!」
おう、と野太い声が応えると同時に、ガルムの体がゆっくりと傾く。既に生気を失い脱力した牛のようなガルムの巨体は、支える力を失って静かに噴水に沈む。ヘルはガルムの背中に倒れ込むようにして身を伏せており、今のところ動く気配は無い。
って、自分の腕を抜くのを忘れてた!!
引き抜くタイミングを逃した俺の左手は、ガルムが体勢を崩したため、左腕ごとその体に押しつぶされる形になってしまった。何とか角度を調節して脱臼や骨折は回避できたが、心臓に刺したナイフは抜けてしまい、腕を取られた俺が今度は身動きできなくなる。
まあいい、ホートのおっさんが戦乙女を引き剥がしてくれれば、ヘルもガルムも、この戦いもお終いだ。
「戦乙女!!目を覚ませ、おい!!」
俺の反対側に回ったおっさんが、うつ伏せになったヘル=ガルムの右半身、取り込まれた戦乙女の腕を取って引っ張りながら怒鳴り声に近い声をかける。
女性の扱い手荒いな、おい。
呼ばれた戦乙女は、最初は中身のないヌイグルミのようにくたり、と全身を脱力させ、ホートのおっさんに腕を揺すられるままになってしまっている。
しかし何度か押したり引いたりを繰り返しているうちに、やがて戦乙女の蒼白の頬にぽっ、と紅が差した。紫色の小さな唇に血の気が戻り、明らかにヘルのものではない可愛らしい声が、吐息と共に漏れ出す。
「おお、我が戦乙女!!」
宝物にそうするように、戦乙女の上半身を両の手でかき抱くおっさん。
そのまま彼が強く引っ張ると、古い殻を脱ぎ捨てるように、戦乙女の全身がずるりと左半身……ヘルから引き剥がされる。
同時に彼女の豊かな左側の胸がぽろり、とまろび出た。それだけでなく、ヘルに取り込まれていた部分の彼女の肢体は、脱皮と同時に服が脱げ落ちたのか、見事なまでに素っ裸だ。
ホートのおっさんはそれを気にした様子も無く、戦乙女の上半身を自分の肩に担ぎ直し、もう片手をくびれた輿に廻して、よっこらせと一気に引き抜く。
と、そこで戦乙女の身体が止まった。何度かおっさんが引っ張るが、それ以上彼女の身体は動こうとしない。
「引っ掛かってます?」
俺が尋ねるが、おっさんは無視して戦乙女の身体を引っ張り上げ続ける。
やがてその動きがどんどん激しく、それにつれておっさんの表情もどんどん必死なものになっていった。
何が起きている?
再度ホートのおっさんに尋ねようと少し身を乗り出したところで、その理由が分かった。
戦乙女の白くすらっとした左脚とその付け根、薄い金色の毛に覆われた彼女の恥部との境界線にくっついている茶色い繊維状の何かが、彼女の身体をヘルの残骸に繋ぎ止めている。
おっさんが再度強く引っ張った際、戦乙女の脚の向きがわずかに変わる。そして彼女の大腿部の内側にあるその何かの正体が明らかになった。
それは、一本の腕だった。
エジプトのミイラの腕をお湯に入れて三分待ったような……そんな間抜けな表現がぴったりだ。
骨が突き出たところに茶色く変色した皺だらけの皮膚が垂れ下がり、枯れ枝のような指も、そこから半分はがれた爪も、てんでばらばらの方向を向いている。
ちょっと触っただけでも簡単に崩れ落ちそうなそれが、崩れない、壊れないという明らかに異常な光景。
それはまるで抜け殻から飛び立とうとする蝶を、朽ちた蛹から伸びた手が行かせまいと引き止めるように。
「剣を使え!!」
気が動転して思い至らなかったのか、ホートのおっさんは俺の声ではっとして、戦乙女の身体を肩に乗せたまま器用に腰の剣を抜き、茶色い骨だらけの手を切り捨てる。
離脱には成功したが、その反動で体勢を崩したおっさんは、戦乙女と一緒に赤い噴水池に転がり落ちてしまった。
「無事か、おっさん?!」
「お?おお、戦乙女は助け出した!!だが気を付けろ、こいつはまだ――」
最後まで聞こえなかった。
真ん中から先を失った茶色い腕がするすると引っ込み、次に現れたのは茶色くて丸い大きなボールのようなもの。直径1mくらいはあるだろうか。
そのボールに続いて現れたのは解剖学の授業、骨学実習で見たことのある構造物。
頸椎、肩甲骨、上腕骨、胸椎、)肋骨……腰椎までで止まったそれは、わずかに皮膚や筋肉や腱が付着しているが、まぎれも無く人間の上半身、その骨格だ。
普通の人間のものの倍くらいの大きさがあるそれは、神話に語られる巨人族を思わせる。
骨盤が見えれば性別が分かるのだが、そうでなくても女性に決まっている。
冥界の女王だ。
頭としっぽの両方が頭になったプラナリアのように、ガルムの上半身、その断面からさらに上半身を生やした骸骨状態のヘルは、腕立て伏せの要領で立ち上がろうと試みる。
同時に、今まで沈黙していたガルムの身体が蠢いた。
「なっ……こいつも生きてっ!?」
だがガルムの瞳は閉じられたままだ。口も半開き、真っ赤な舌がでろり、とだらしなく垂れ下がっている。
俺は左腕をガルムの傷口に突っ込んだまま、振り落されないようにその毛皮を直刀を持つ右手でしっかり掴む。
立ち上がるかと思われたガルムは、その頸を持ち上げるのではなく、思いっきり噴水池の水に突っ込んだ。両方の前足がぴん、と地面に対して垂直に伸ばされる。
ガルムは生きていたわけではなかった。
上半身だけのヘルが、ガルムを自分の両脚にして立ち上がったのだ。
……何て醜悪かつ冒涜的な姿だろう。
自分の中で再認識する。
こいつは、既に神ではない。邪神でもない。
人々に災禍をもたらすだけの、本当の意味でのバケモノだ!!
そこではた、と気づく。
「おっさん、戦乙女を、戦乙女を連れて逃げろ!!」
また取り込まれてはたまらない。
俺の言葉に素直に従い、すぐさまホートのおっさんは戦乙女を、ヴァイキングが略奪品でも運ぶかのように肩に乗せて逃げ出した。
白魚のような半裸の肢体が、ゆっさゆっさと空中を泳ぐように揺れる。
ヘルが環椎を回して戦乙女を捜し始めた時には、二人は既に残った他の死せる戦士 たちに合流し、ステージの陰に小さな防御陣を築いた後だった。戦乙女の姿は屈強なヴァイキングの肉の壁に阻まれて、こちら側からは見えない。
目標を失ったヘルはしばらく右に左に頭蓋骨を動かしていたが、そのうち突然泣き出した……ように見えた。
肩を落とし、頭を伏せ、両手は虚ろに開いた眼窩に添えられて、出るはずの無い涙をしきりに拭うような仕草をしている。
うわん、と化け物ではない、もの悲しい女性の声が聞こえたような気がした。
途端に血人形の動きが変わる。さっきまでは群れながら近くにいるものを手当たり次第に攻撃していたのが、明確な目標を持って全員での進軍を開始する。
その向かう先は……
「――――お姫様かっっ!!」
最初に自我を失っていたヴァイキングたちの攻撃目標であったお姫様、彼女が立てこもる山車と護衛の騎士団に向かって、無数の赤い人波が押し寄せる。
騎士たちも抵抗するが、俺やナルカ、死せる戦士たちのように、血人形に対して決定打を与えることができない。連戦続きで疲労困憊の彼らが作る防衛線は、砂のお城のようにあっけなく崩壊していく。
騎士だけでなく死せる戦士たちも個別に反撃しているが、ヘルの立つ赤く染まった噴水池からは、地獄の釜から這い出すかのような血人形……亡者の群れが無尽蔵に供給されている。その数は先ほどのガルムの血飛沫から生まれたものの比ではない。
このままでは皆、呑み込まれる。
早く――早く何か対抗策――ッ!!
手元のカードは上空で待機するナルカと俺自身、たった二枚。
だが、ここで迷っている暇は無い!!
ガルムに取り付いたまま曇天を見上げる。
「ナルカっ、リーシャとお姫様たちを……」
そう指示を出そうとした瞬間、山車の方から巨大な何かがこちらに向かって飛来した。
木でできた三角形のそれは勢いよくヘルの骨だけの胸郭に衝突し、ガルムの脚がたたらを踏む。
この形には見覚えがある。
そう、俺がジャンプ台として使った、お姫様の山車から伸びる絡まり合った木の枝の集合体だ。
木製の錨にも見えるそれはぶつかった後も止まらずに、ぐいぐいとヘルを押し倒そうとしてくる。
と、ヘルのミイラのような茶色の腕が三角形に伸びた。手が触れたところから木は枯れ始め、風化し、最後には塵になって跡形も無く崩れ去った。
三角形が飛んできた方向を見る。
そこにはステージと山車、その上に立つデューとお姫様の姿があった。
表情は見えない。
声は聞こえない。
だが、何が言いたいのかは分かった。
俺にこいつを斃せというのか、自分たちには構わずに――
冷水をかけられたように、頭の芯が一気に冷却される。
そうだ、ここで俺とナルカがヘルから離れたら、もう二度と手が届かなくなる。あとは数の暴力で磨り潰されるだけだ。
ここは絶対引いてはいけない――――何があっても進むしかない局面。
気付かせてくれてありがとう、と心の中で念じ、きっとヘルに視線を向ける。
戦場の狂騒に茹だる頭を切り替え、もう一度冷静に考えてみる。
俺がガルムに与えたダメージは、確実にヘルに通っている。そしてヘルの取り込んだ戦乙女は奪還した。
仮説が正しければ、ヘルはじきに活動停止、もしくは活動縮小するはずだ……俺の仮説が、本当に間違っていなければ。
ぎゅっと両手に持つ直刀とナイフを握りしめる。
ん?両手?
違和感があった。
右手にはデューから借りた直刀。
左手にはグレリーから借りた呪術ナイフ。
……ガルムと相打ちになったはずの勝利のルーンが、何故健在なんだ?
歯車がキチリ、と音を立てて噛み合う。
つまり、ガルムは死んではいなかった……ヘルはガルムが完全に倒される前に主導権を自分に移すことで、ガルムが完全に斃されることを回避したということか!!
ならば勝利のルーンの呪術ナイフが未だ破壊されていないことにも説明が付く。
そういうことならッ!!
ガルムの胸の傷口に突っ込んだままの左腕を盲滅法に動かす。あるはずだ、まだ動きを止めていないガルムの心臓が!!
腕が動く度に煮凝り状に固まったガルムの血液が、傷口からぼとぼとと零れ落ちる。ヘルは俺の動きを気に留めた様子は無い。
しばらくしてナイフの先端に俺が突き刺したはずの心臓が、再び微弱ながらも脈を持って触れた。先ほどは熱を持って感じられたガルムの鼓動だが、今は電気刺激で収縮と弛緩を繰り返す人工筋肉のように機械的な脈動を続けている。
ならば、
「何度だって刺し殺す!!」
左腕に力を籠めて、もう一度抉るようにしてガルムの心臓にナイフを叩き込む。そのままやたらめったら斬りつけて、心臓を使い物にならなくする。二度と復活してこないように。
ガルムは、今度は哭かなかった。
水に沈んだままの鼻先、力無く開いた口から、ただ重力に任せるままどす黒い血が流れ出す。その前足から力が抜け、片膝をつく。
代わりに反応したのがヘルだった。ガルムの心臓が攻撃された瞬間、骸骨の上半身が震えて動きが止まる。
だが直ぐに活動を再開したヘルは、俺を排除するべく自分の下半身……俺の取り付くガルムの上半身に骨だけの右腕を伸ばす。尻のほこりでも払うように。
「邪魔するなっ!!」
右手に持つ直刀をヘルの橈骨に叩きつける。
乾いた橈骨は尺骨と一緒にあっさり斬り飛ばされ、稲刈り後の切り株のような断面が覗く。
俺の左手の中にある呪術ナイフは壊れていない。だが心臓の鼓動は明らかに弱っているの。完全に殺しきるにはまだ時間が必要ということか。
片腕だけではどうしようもないと考えたのか、ヘルは上半身ごとこちらに向き直る。
背骨の関節を180°回転させて。
ファンタジーだからって何でもありだな、おい!!
俺の方を向いたヘルは、早速無事な左腕を伸ばしてきた。そっちはさっきホートのおっさんに斬り落とされていたような気がするが、どうせ新しいのが生えたのだろう。ファンタジーだし。
「届くかよっ!!」
その腕を再度直刀を振るって斬り飛ばす。
少しは学習しろ!!
そんな枯れ柴みたいな腕一本で、俺が止められると思っているのかよ!!
ヘルは失われた自分の両腕を虚ろな眼窩でしげしげと眺めると、やがて残った腕を伸ばして前へ倣えのポーズを取った。
何故そんなことをしているのか理解できなかったが、次の瞬間、俺は数秒前の自分のツッコミを後悔する。
伸ばされたヘルの腕を覆い尽くすかのように、彼女の肩甲骨あたりから無数の新しい骨の腕が伸びてきたのだ。
それこそ数えるのも馬鹿らしくなる本数。
出来損ないの千手観音みたいな姿になったヘルは、一度両腕を空中でぶるん、と振るう。
何本もの上腕骨、橈骨、尺骨がぶつかり合って、台風の日の竹林みたいな消魂しい音が響いた。手骨が打ち鳴らす甲高い手拍子の波は、まるで豪雨がトタン屋根にぶち当たったみたいだ。
あんなものを打ち下ろされたら、いくら相手が骨でも一たまりも無い。
――さっさとケリをつけなければ!!
「こんのぉっっ!!」
ガルムの体内の左腕を必死に動かして、呪術ナイフでその心臓を切り刻む。勝利のルーンが刻まれているのは、ナイフの刀身でなく柄だ。
柄の壊れた時がガルムの、そしてヘルの最期。なのに、
「くそっ!!このっ、何で壊れないんだよっ!!」
ヘルが再度俺を睥睨する。目玉の無い眼窩、その奥にある上眼窩裂と視神経管が、瞳孔のように俺の姿を捉えた気がした。
仰ぐようにしてヘルの両腕が天に掲げられる。俺に止めを刺すために。
時間が無い!!死に物狂いで左腕のナイフを動かす。
早く、早く、早く――――壊れろ、壊れろ、壊れろ――――
「壊れろォォォォッッッッッ!!!!」
声も枯れよと絶叫した瞬間、ガルムの身体から黒い光――そうとしか表現できない漆黒の影が飛び出した。
一本の剣にも見える黒い錐状のそれは、まるで光が溢れ出すように、続いて何本も何本もガルムを内側から食い破るようにして飛び出してくる。
同時に俺の左手の中で、呪術ナイフの柄が溶けるようにして崩れ落ちた。
ダメージが伝わったのか、両腕を掲げたままヘルの動きが止まる。
ヘルの力の源となっていたガルムは潰した。
復活の術を失ったあいつを完全に倒すチャンスは今しか無い!!
「ナルカァァァッッッ!!」
『んっ!!』という彼女の声が聞こえたような気がした。
俺の合図に応えるように上空の大気が鳴動し、灰色の分厚い雲が放電を始めた。電圧の変化で俺の肌の産毛が総立つ。
いかん……全力でやれって言ったけど、一体どれだけの雷を落とすつもりだ!!
脱出しなければ俺も巻き込まれるっ!!
ガルムの胸の傷口から左腕を引っこ抜く。ギリギリまで突っ込んでいたせいか、二の腕の肩口までべっとりと赤黒い血と脂がこびり付いている。気持ち悪いけど、洗うのは全部が終わってからだ。
すぐにその場を離れる。
後ろを見るとガルムから飛び出していた黒い何かは、いつの間にか消えていた。
ヘルの身体がぐらりと揺れる。首をかしげるように頭蓋骨が傾いた一瞬、彼女と目が合った。
「あ……」
どうしてか自分でも分からない。
何かを言わなければいけないような気がしたが、言葉未満のそれはただの音にしかならず、永遠に形を得る機会を失った。
俺の視界が眩しい光に覆われる。
ナルカの放った全力の雷魔法。
『御神椎』とでも呼ぶべき破邪の白雷が、まるで天から落ちる華厳の滝のように圧倒的な電子の奔流を伴って、動かぬヘルとガルムに叩きつけられる。
天地を繋ぐ太い光の柱が広場に出現した。
噴水池の赤い水は焦げた臭いを放って蒸発する。
ばら撒かれた散雷が次々と血人形を砕いてゆく。
リーシャ、デュー、お姫様も、騎士団もヴァイキングたちでさえも、魂を抜かれたようになって眼前の光景をただ眺めている。
白い光の中、浮かび上がった巨大なヘルの躯の影は、粛々と運命を受け入れるように、まるで水浴びでもするかのように、全身で雷の滝を受け止めた。
飛び散る雷光が、白梅の蕾が次々と開くように、ヘルの体のあちらこちらで白く小さな花を咲かせる。
満開の白い花の中、彼女の輪郭は削られるように徐々に小さく、薄くなってゆき、やがて白色に塗りつぶされるように姿を消した。
光が失われた時、そこにはヘル、そしてガルムがいたという証は何も残っていなかった。