衝動
反射的にナルカが動いた。
俺に喰いつき損ねた何かが追撃に伸ばした黒い腕を、電光石火の動きで切り払う。
撒き散らされる黒い血飛沫。
何かは腐ったトマトを踏んだ時のような、潰れて湿った悲鳴を上げながら腕を引っ込めた。
「これは……一体何が起きているのですか……」
眼前の醜悪な光景をリーシャに見せないよう抱きしめながらも、お姫様の声は怯えている。俺にも見当がつかない。
さっきまで嫌になるくらいの快晴だったのに、いつの間にか空は黒い雲で覆われていた。薄暗がりの中で戦乙女……俺たちがそう思っていた女性のスカートの下から、その体には不釣り合いに巨大な黒い何かの瞳が、爛々(らんらん)と怪しく輝く。大きく切り裂かれた半月状の口からは、茶色がかった牙がのぞく度に生臭い息が吐き出されていた。
突き出た鼻先、光沢をもった黒い毛皮の胸元には誰のものともしれない乾いた血痕がこびりつき、毛を巻き込んで固まったそれは赤褐色の鎧にも見える。
黒い犬?狼?
西洋で神話の犬や狼の怪物と言えば、フェンリル……フレキ、ゲリ……ケルベロス……
いや、こいつは……
「ガルム!!」
俺が名前を呼んだ声に答えるかのように、地獄の魔犬はしゃがれた喉を震わせてぐおおおおん、と大きく遠吠えした。空気が、水面が、大地がびりびりと揺れる。思わず皆が耳を塞ぐ。
ガルムは女性の下半身から頭と前足、そして胴体の前半分を生やしている状態だ。スカートに隠れて分からないが、奥では女性の身体と融合しているのだろう。女性の躰は5,6mはありそうなガルムの前半分の後ろで、壊れた人形のように引きずられるままだ。彼女のどす黒く変色した左腕からは、相変わらず鮮血が滴り落ちている。まさに異形。
「姫様、敵の動きを止めます。『水魔の堅牢』を二重詠唱で!!」
「分かりました!!」
デューとお姫様が同じ文言で呪文を唱え、ガルムの居る噴水池に宿る水の精霊に呼びかける。二人同時の効果は明らかで、数秒とせずに池の水面から4つの太い水柱が立ち上がりちょうどガルムと女性の身体に覆いかぶさるように、その頭上に4方からアーチをかける。最終的に8方向に足を持つドーム状の水の檻が完成した。見た目には噴水芸にしか見えないが、直後、囲いを破ろうと飛び上がったガルムは体が檻を構成する水柱に触れた途端、また水中に叩き落された。恨めしそうにぐるるるる、と喉を唸らせる。
捕獲できたのか?
いや、二人の精霊魔法は確かにガルムを足止めできているが、それ以上のことはできないのも事実。このままここに捕え続けるとしても、いつまで可能だろう。大がかりな魔法だからか、それとも対象の問題なのか、デューとお姫様の額には既に珠のような汗が光っている。あまり長くは無い。
そうしているうちにも女性の腕から流れ続ける血が、噴水池を赤く染めていく。やがてその色は水の牢屋を形作る柱に滲むように広がっていった。
と、突然水の柱が温められた蝋燭のように、蕩けるように崩れ落ちる。
「どうしたデュー?!」
「くっ……精霊が……」
「駄目です、私の方も……声が消えてしまいました……!!」
同時に脱力してへたり込むデューとお姫様。二人とも息が荒い。
檻から解き放たれたガルムは、せいせいした、とばかりに身震いをする。周囲にその毛先から赤い水が撒き散らされた。
くそっ、こうなったら――
「皆、撤退するぞ!!」
「戦わないのか、スクナ!?」
ナルカが声を上げる。
「ああ。理由も無いのに馬鹿正直にあんな化け物、相手をしてやる必要は無い!!」
きっぱりと言い放った。
つ~か勝てるか、あんな奴に!!
俺とお姫様は丸腰、精霊魔法は効果が無い、しかもリーシャを守りながらだとすると、正面からぶつかればどうしたって全滅しか考えられない。何もしてこない戦乙女ならともかく、今にも飛びかかってきそうなガルムなんて、絶対無理だ。
「立てるか?リーシャは俺が担ぐから、立ったら走るぞ」
デューとお姫さまに手を差し出す。
精霊魔法が使えないならナルカに特大の雷撃をかましてもらい、それを合図に全力で逃げよう。というかさっきの鉈での一撃みたいに、ガルムに通用する攻撃手段はナルカしか持っていない。俺たちが回復魔法や強化支援魔法が使えるのなら彼女を軸に戦術を組めるのだが、他のパーティーメンバーはただの足手まとい要員というのが現実だ。
「……逃げるっていうのは同感だけど、少し遅かったみたい」
自力で立ち上がったデューが、二本の直刀を構えながら言う。
彼女の言っていることは分からなかったが、逃走経路を捜そうと視線を戻した瞬間、その意味が理解できた。
噴水池の脇に立つ俺たちを、いつの間にか現れた無数の人影が取り囲んでいる。シルエットだけなので何者かは分からなかったが、雲の切れ間から光がさした一瞬、その正体が明らかになった。
彼らは……人間ではなかった。髪も毛も無い、服も来ていない、曝け出された真っ赤で平滑な肌。目と口のあるべきところには、ぽっかりと穴が開いているだけ。
表現するのなら固まりかけた血、そう凝血塊で作られた血人形たち。
「こいつら一体どこから!?」
俺の疑問はすぐに解消された。先ほどガルムが振りまいた血飛沫。石畳に落ちた一つ一つの赤い水滴がブクブクと泡立ち、そこから新しい血人形がぬらり、のそりと次々に姿を現す。地獄から彷徨い出た亡者のような血人形たちは、見ている間にもその数をどんどん増やしていく。今すぐに攻撃してくるわけではないものの、徐々に退路が塞がれていっている状態だ。
亡者のような、か。実際そうだとしても、ガルムに亡者を操る力は無い。
そんな力があるとすれば、その飼い主の方。冥界の王にして半身生者、半身死者の女神。神々の黄昏では亡者の大軍を従え神々に反旗を翻す役目を持つ邪神。
「……そこにいるのか、冥府の女王!!」
ばっ、と地獄の魔犬に引き摺られるだけだった鎧姿の女性が上半身を起こす。異形となった彼女の左脚。血を滴らせる左腕はさらにどす黒く、所々に紫や緑の斑点が見えることから腐り始めているのかもしれない。そして顔の左半分は、蒼白だが瑞々(みずみず)しい右側に比べ、痩せこけて頬骨が土気色の肌から張り出している。左目の角膜は白く混濁し、まるで死後半日以上放置された死体のそれだ。
山姥のような左側の貌が口をがぱっと開けた。歯肉が衰え隙間だらけの茶色い歯が覗く。
ぐゎばばばばば……
そうとしか形容しようのない痰の絡んだような濁った嗤い声が、正面からでも見える大きく広がった虚のような咽喉から放たれた。
それが合図だったのだろう。
ぼんやり立っていただけの血人形たちが、突然俺たちに向かって襲い掛かってきた。その歩みは遅いが、腕を持ち上げながらじりじりと距離を詰めてくる。さながらゾンビ映画の一場面みたいだ。穴が開いただけの顔は表情など分かるはずもないが、それがさらに恐怖を掻きたてる。
「リーシャに――近づくなっ!!」
ナルカの体から白く輝く雷光が迸り、包囲網を狭めてきた人形たちに続けて叩きつけられる。雷が当たった血人形は生まれてきた時と同じようにもろもろと崩れ落ち、一掴みの赤い色をした土くれに変わった。
やはりこの手の輩には、ナルカの攻撃が一番効果的なようだ。デューも近づく血人形に双剣で斬りかかっているが、斬り落とされた上半身と下半身が別々に動いているところを見ると、彼女の剣では完全には倒しきれないらしい。
血人形がゆっくりと拳を振り上げ、同じくゆっくりした動きでそれを振り下ろした。デューは余裕で躱す。彼女の脇を通り過ぎた赤い塊がそのまま地面にぶち当たると、ごぅん、石畳が悲鳴を上げた。動作は鈍いが、奴ら攻撃力だけはあるらしい。俺たちは一発でも喰らったらアウトだ。こうなると空手なのが悩ましい。
こんなことならさっき使った角材を捨てなければよかった。何か武器はと探すと、腰に提げたグレリーのナイフに指が触れた。ナイフを引き抜く。『勝利』のルーン文字が刻まれた呪術ナイフ。御守り程度の効果はあるのかもしれないが、刃物としてはサバイバルナイフの域を越えたものではない。正直怪物とやり合うには心もとない長さだ。これを使うとなれば、最後の最後だろう。ナイフを腰帯に戻した。
「デュー、一本貸してくれ!!」
視線が合い、こちらに彼女の直刀が一本投げられる。それを右手で掴み、ちょうど眼前に迫っていた一体に振り下ろした。脳天唐竹割がきれいに決まり、血人形は左右真っ二つに別れる。ゾンビみたいにまだ動くかと思ったそれは、ナルカが攻撃した時のように崩れ落ちた。
俺でもいいのか?この世界の怪物に対する攻撃の有効判定基準がわからない。
デューの直刀は、ちょうど小太刀サイズの鋳造忍者刀といったところだ。刀身自体はサクソン人の片刃刀のような、やや幅広で武骨な形をしている。しかし女性でも取り回しが容易なように、拵えを軽くしたりと工夫がなされているようだ。日本人の体格に合った日本刀のようにはいかないが、これなら俺でも片手で振り回せる。
……覚悟を、決めなきゃダメみたいだな。女の子には危険な真似はさせたくないし。
「どうやら俺とナルカの攻撃は通じるみたいだ。今ならまだ完全には包囲されていない。ナルカ、まずステージに向かって退路を開け!!デューはお姫様とリーシャの護衛を頼む!!途中のヴァイキングは無視して、騎士団との合流を最優先にするんだ!!」
「ん、任せて!!」
「分かった。でもスクナ、あなた……」
デューが表情を曇らせる。
「……お兄ちゃんは?」
リーシャが尋ねてきた。彼女はお姫様の腕の中、真摯な眼差しで俺の眼をじっと見つめている。
「俺は……」
流れ落ちる赤不浄で血の池地獄と化した噴水池の中、まるで水浴びをするように体を揺すってしきりに血人形の種を撒くヘル=ガルムに、きっと視線を向けた。
「俺はここで、リーシャたちが逃げるのを助ける!!」
「でも、それじゃお兄ちゃんは……」
リーシャの瞳には大粒の涙が浮かんでいた。この子は、子供ながらに俺が何をしようとしているのかを感じ取ったのかもしれない。
剣を握っていない左手の親指で、その涙を拭ってやる。
「仕方がないさ、リーシャ。仕方ない――それが男の子、ってやつなんだよ!!」
そしてそのまま彼女に背を向けた。
「お兄ちゃんっ!!」
「行け、ナルカ!!」
再度雷撃が放たれ、俺たちを囲む血人形が5,6体ほどまとめて消し飛んだ。それを合図に後ろの4人がステージに向かって全力疾走を開始する。
上手く逃げてくれよ。俺とて無駄死にするのは趣味じゃない。彼女たちの安全が確保できれば、自分もさっさと後退するつもりだ。でもそれまでは、
「ここから行かせるかっ!!」
仲間が倒されたのも気にせず、再び迫ってくる血人形に刀を振う。その刃先に触れた血人形は、手足の部分は斬っても大したことは無いが、頭や胴体であれば少し傷付けただけでもそこから崩れ落ちていく。急所は人間と同じようだ。
第一波、第二波、と数にものを言わせて次々と押し寄せる血人形たち。それらを打ち払いながらも、すり足でじりじりと後退していく。視界の中のヘル=ガルムは、まだ自分から襲って来ようとはせず、血人形を供給し続けているだけだ。
あいつが来ないのなら好都合。今の俺に血人形とその親玉を、一緒に相手にできるような余裕はない。
この膠着状態がもうしばらく続いてくれれば、俺も脱出できる!!
そう思った瞬間だった。
「うぁっ!!」
突然左足が動かなくなり、視界が反転。全身が石畳に強か打ちつけられた。
「何が……」
足元を確認する。最初は石畳の継ぎ目に足を取られたかと思ったが、違った。先ほど切り落とした残りだろうか、俺の左足首を肘から先の手の形をした血塊が、がっしりと掴んでいる。
「離せっ、よッッ!!」
必死で残った右足で蹴り飛ばす。腕はしつこくしがみ付いていたが、4度目の蹴撃でやっと弾き飛ぶ。
しかしその短い間に、戦場の天秤が大きく傾いた。体勢を崩した俺に、これまでで最大数の血人形が襲い掛かる。
次々と時間差で振り下ろされる、一撃必殺の赤い拳の雨。
倒れたままで右に左にと、必死で体を動かして必死に避けるが、そのせいで立ち上がる切っ掛けが掴めない。
がむしゃらに右手の直刀で林立する赤い脚の群れを薙ぎ払うが、腕と同じく足を斬っただけでは倒しきれず、逆に血人形の胴体から上が俺と同じ高さに落ちてきた。頭上からの攻撃に加え、それら半端な高さになった血人形たちが、両腕で這いずりながら俺の足や胴体に纏わりつく。
ぬるり、という感触と共に体が重くなる。こいつらは、蹴ったのでは駄目だ!!
直刀で心臓の位置を突き刺すと、俺の胴体にしがみつく半端に壊れた血人形は赤い土くれに還った。しかしそのせいで貴重な時間がさらに失われる。殺到する血人形の数はさらに増え、振り下ろされる拳の雨はどんどん激しくなっていく。抵抗しようとして直刀を振るうと、さらに半端な血人形が増え、しがみつかれて動きが制限される。
ヤバい、これは詰んだ。
もはやまともな攻撃はできず、手足をひたすら振り回して抵抗するのがやっとだ。しかしそんな駄々っ子のような攻撃で、退けられるわけがない。
「ぐぁっ!!」
ついに血人形の一撃が鳩尾に叩き込まれた。背骨が軋み、内臓が揺らされる。重い。咽喉の奥まで胃酸がこみ上げ、思わず呻き声が漏れた。
俺が抵抗できなくなったのを確認したのか、乱撃の雨が一瞬途絶え、血人形たちが一斉に拳を振り上げる。止めを刺すため振り上げられたそれは、落とされる直前のギロチンの刃にも見えた。『死』の文字が脳裏をよぎる。
こんなところで死ぬのか、俺は。
こんなところで終わるというのか、俺の世界は。
まだ何も分からず、何も為しえていないというのに。
空を睨む。
曇り空は何も変わらない。
……俺が……死のうというのに……
視界の中、スローモーションで血人形の拳が落ちてくる。
「あああああああぁぁァァァァッッッッ!!!!」
突然今まで感じたことの無い感情が俺の中に湧き上がった。
不条理だ不条理だ不条理だ不条理だ憎い憎い憎い憎い憎い……!!
リーシャたちを逃がせたという満足感もあったはずなのに、心の風景が一瞬で闇よりも昏い漆黒の一色に染まる。
もし俺に力があったなら、お前ら皆殺してやる。
もし俺に力があったなら、お前ら皆壊してやる……コワシテヤル……!!
その瞬間、俺を取り囲む血人形たちが一斉に砕けて消し飛んだ。