一知半解
最終戦の前に与えられた短い作戦タイム。俺は自分の厨房で、リーシャと顔を見合わせた。
「お兄ちゃん、私たち何も準備してない。どうしよう……」
「それはあっちも同じはず。確か、予備のパン生地は持ってきているんだっけ?」
うん、と材料箱の中に視線をやる。そこにはまだ発酵させていない生地と、今まさに二次発酵中の膨らんだパン生地が置いてあった。他にアイーダさんの居酒屋の倉庫をさらって持ってきた、干した果物や豆類なども入っている。それ以外には共用品としてステージに置かれた果物、肉、野菜、牛乳、卵などの生鮮食品。
これらを使って新しいパンを作らなければならないわけだが、相手を追い込むために挑んだこの勝負……よく考えたらこちらも手が尽きていたという、なかなか間抜けな状況だ。
「リーシャは何か思いつかないか?」
無言で首を振る。さすがにそう美味い話は無いか。
実は俺には、決勝戦が始まってから作りたくなったパンがあった。それはモチロン、この被り物にちなんだ「アンパン」。
今仕込んでいるパン生地は予選のものと同じ、ワイン蔵から分けてもらった酒種を使っている。アンパンの生地としては十分だ。しかしながら、
「ここに缶詰の餡があればな~」
そう、アンコの材料になるものが無いのだ。小豆はもちろん、ウグイス豆やだだちゃ豆も含め、使えそうなものが無い。まあどうせ、ひと晩水に漬けて柔らかくしなければ使えないのだけれど。
『それでは両者、調理を開始してください!!』
大した相談もできないうちに、無情にも司会の声が響く。
こうなったら仕方ない。無難に果物系のデニッシュで攻めるか……しかし今更その程度で勝てるか?
向かい側の厨房に陣取ったモトローラだかの若い男は、既に作るものを決めているらしく、台の上に取り出した二つの生地を加工し始めている。いっそ相手の技法をコピーして、最後に味を追加することで+1での勝利を目指す……のはスパイス王国のお姫様でもないし、ムリダナ。
アンパン……アンパン……が駄目なら、アンマンはどうだろう?外側は蒸しパンで比較的簡単に再現できる。中に餡ではなく果物を使えば……いや、果物では水分が多すぎる。ならば干し果物をすり潰してペースト状にしたものを入れれば、果物餡のアンマンと言えなくもない。
「ねえ、早くしないと間に合わないよ!!」
「分かってる。あと少し待ってくれ」
袖を引いて急かすリーシャを窘める。どこまで考えたっけ。そう、果物餡だ。果物餡……干し果物を使った餡。
そういえば、そんな餡を使った食べ物がどこかにあったような……。
唸りながら何気なく空を見上げる。餡麺麭男の断面、餡の部分である黒い布の向こうに、さんさんと輝く太陽が黄色い丸になって透けて見えた。
「月餅だっ!!」
いきなり大声を上げたので、対戦者を含めステージ上の全員が一瞬動きを止める。
そうだ、月餅。
中国で中秋節に食べる、月に見立てた伝統のお菓子。俺が知っているのは友人からお土産でもらった、杏をメインにした干し果物に、砕いた堅果類を混ぜてスパイスで味付けした餡を入れたもの。堅果の油で餡がしっとり柔らかくなって、しかも砕け具合によって食感に変化が付いて美味しいんだよな。油だらけだからカロリーを考えると悪夢だけど。
よし、餡はこれでいこう。だとすると、蒸しパンのほうにもアレンジが欲しい。中国の蒸しパンと言えば、コンビニやスーパーで売ってるアレに似せればいいか。俺は山崎さんを信じる。
「リーシャ、作るものが決まったぞ!!」
俺の方を心配そうに見つめるリーシャに、早速指示を出して調理を開始する。相手が何を作ろうとも関係ない。これで決める!!
『そこまで!!双方、パンを審査員席まで持ってきて下さい』
司会の女性が終了を告げる。俺の方は準備万端。リーシャが持つ盆に湯気を上げるこげ茶色のアンマンを乗せ、二人でお姫様の席に近づいた。
だが、対戦者の若い男は、自分のパン窯の前から動こうとしない。
『モントマルトル窯代表、後攻でよろしいですか?』
問いかけに対し、自信ありそうなドヤ顔で大きく頷く。少し不気味だが、こちらも冷める前に食べてもらいたい。ここは遠慮なく先攻でいかせてもらう。
お姫様はお盆からアンマンを受け取ると、ひっくり返したりしながら興味深そうにしげしげと眺めた後、おもむろにぱくっとかぶりついた。
息を呑んで反応を見守る。もしゃり、もしゃりと咀嚼。
「美味しいです!!暖かいナッツの油がドライフルーツの味を引き立てて、またとても良い舌触り。外の皮も甘くて少しほろ苦いですし……これは何というパンなんですか?」
「ご明察の通り堅果と果実のペーストを、カラメルソース入りの生地で作った蒸しパンで包みました。名前を付けるのならそう、『月餅餡のカラメル馬拉糕』とでも呼びましょうか」
説明を聞きながらもお姫様は食べ続けている。と、手に持ったパンを一欠片ちぎって、はい、とリーシャに渡した。貰ったリーシャはお姫様と俺の顔を見比べると、「ありがとうございます」と言って食べ始める。どうやら彼女も食べたかったみたいだ。
「あなたもご一緒にいかがですか?」
「結構。自分、共食いはしない主義なんで」
こっちにも差し出されたが、固辞するとお姫様はあら残念、と言って食事に戻った。
やがて大サイズのアンマンがきれいにお姫様の胃袋に収まると、待ってましたとばかりにモンサンミッシェルだかの男が、自分のパン籠を手に現れる。
凝った細工を施した籠の上には布の覆いがかかっており、ここから中は見えない。
「これから姫様がご覧になりますのは、先ほどのケーキよりも魔訶不思議な代物です。王都のどこを探しても、私以外にこのパンを作れるものはいないでしょう」
いやにもったいつけるな、こいつ。
あれか、4分なんたら秒みたいに「パンがあると言われて思い描いた理想のパン、そのイメージこそが本当のごちそうなのです」みたいなネタだったら、餡麺麭頭拳をお見舞いするぞ。
「わかりました、心して臨みましょう。あなたのパンをお願いします」
答えに満足したのか、男は優雅な動きでさらり、と覆いの布を取り払った。
焼き菓子のように香ばしい香りが解き放たれる。
「まあ……これはデニッシュの一種ですか?」
お姫様は手を伸ばし、籠の中から格子模様の刻まれたドーム状のパンを一つ手に取った。
「は、正式な名前はまだありませんが、私は二種類の生地を使って作るこれを『二律背反』と呼んでいます」
「なるほど、確かに理解の範疇を超えているようです。お味は……」
小さな口がパンに近づき、かりっ、と噛む。
こり、こり、とやや硬い音が聞こえ、やがてごくん、と飲み込まれた。
俺は先ほど彼のパンを見た時から、点になってしまった目で推移を見守る。なぜ彼がこんなものを知っているのか、後で直接問いたださなければならない。
しかしまた、これから起こるであろうことを想像すると、正直なところ今は被り物の中で笑いを抑えるのに精一杯だ。
「いかがでしょう、姫様?」
自分の勝利に絶対的自信を持っているかのように尋ねる、モントリオールだかの若いパティシエ風の男。
お姫様は少し逡巡した後、
「これ、硬すぎます」
素っ気なく言い放った。
「硬すぎる?そんな馬鹿なっ!!」
狼狽してお姫様の眼前であるにもかかわらず、自分のパン籠から手づかみでパンを取り、大口を開けてかぶりつく。
「本当だ……硬いっ!!これも……これもこれもこれもっっ!!!何故だっ!!どうして……」
全てのパンにかぶりついて試す間にも、どんどん声と表情が絶望に彩られていく。
そりゃそうだ。
起死回生のつもりで作ったんだろうが、聞きかじった情報だけで普通に焼いたら失敗するんだよ、”メロンパン”は。
パン生地の上にクッキー生地を乗せて作るメロンパンは、しっかり焼いてしまうと、クッキーが乗った硬いパンにしかならない。
何故そうしているのかを理解していなければ、本人が言った通り、何がやりたいのか分からない謎パンになってしまう。彼がお姫様に差し出したのは、結局メロンパンの失敗作でしかない。
男が呆然自失している間に、お姫様は司会の女性からメガホンを受け取る。
『ここに勝敗は決しました。パン祭り優勝は、ドルドッドレイドパン工房です』
割れんばかりの拍手が会場に鳴り響いた。
「やったよ、お兄ちゃん!!」
「ああ、やったなリーシャ!!」
走って飛びついてきた彼女を抱きしめ、一緒に喜びを分かち合う。
「おめでとうございます。リーシャちゃんと、それに餡麺麭男さんも」
「はいっ、姫様ありがとうっっ!!」
今度はお姫様に突撃して抱き付くリーシャ。あ、勢い余って巨乳に跳ね返された。
俺もやりたいけど、やったらデューに消されるな。さっきからこっちを警戒してジロジロ見てるし。
と、お姫様がリーシャに気を取られている間に、俺の仕事を終わらせとくか。
「おい、そこのあんた」
審査員席の机の下に潜り込んで、嘘だ、間違ってる、騙されたなどとブツブツ呟いている男に声をかける。
男はひっと叫んで這って逃げようとしたが、首根っこを掴んで引きずり出した。
「騙されたとか言ってたけど、どこの誰にこの二種類の生地で焼くパンのことを聞いたのか、ちゃっちゃと吐いてもらおうかっ!!」
「違う、私は関係ない、何も知らない!!ただ祭りに出てパンを作れと命令されただけだ」
「だ~か~ら、誰にそう言われたかを聞いてるんだよっ!!」
屈みこんで自分の顔を、ずずいっと男の顔に極限まで近づける。布にかかるフーッフーッという荒い鼻息。
「もしかして――」
俺は覆いの黒い布を少し外し、脇へ寄せる。隙間からおびえる彼の顔が覗く。
「――こんな『翠の眼』をしたヤツじゃないのか?」
ひぐぎいぃぃッッ……!!
男の顔がぐしゃしゃに歪み、口から音にならない悲鳴が上がった。
クロ、か。
その反応に満足して立ち上がる。
後はデューと相談してこいつの身柄を確保してから、じっくりたっぷり情報を吐かせるとしよう。
ぶぅんっ!!
唐突に目の前に現れた褐色の塊が、男に当たった。そしてくの字にへし折れて、音もなく飛んでいく男の体。
あれ、馬拉糕が何でここに、と、ぼけた考えが一瞬頭をよぎる。
見ていると、男を弾き飛ばした褐色の塊は、今度はどんどん大きくなってきた。
それが俺の顔面に迫ってくる巨大な拳骨だと理解できたのは、自分の体が宙を舞った後のことだった。