君子も虎穴に入らずんば
湯上りに飲んだライム水に付いていた、ストローがわりの草の茎を咥えて遊びながら、高級住宅街を貫く大通りを下る。お祭りのメインは下町なので、それを見物に出払っているのか、人に出会うことが不自然なくらい少ない。
「しっかし、どうしたもんかな……」
俺の眼の前の石畳を、ナルカとデューに両手を引かれたリーシャが歩いている。あの後互いに体や髪を洗い合ったためか、リーシャとデューはかなり打ち解けられたみたいだ。
ちなみにナルカは浴場に姿を現さなかったので、何をしていたのか聞いてみたところ、サウナ風呂の方に連れていかれていたそうだ。蝙蝠っぽい羽の生えた黒羽の一族は、羽が邪魔になるのでお湯につかって温まる、ということはやらないらしい。その代りサウナ風呂で汚れを浮かせて、垢すりの要領で落とすのだとか。風呂から出てきた時のナルカは、全身ぴかぴかに磨かれていて、肌がまるで青瑪瑙のように輝きを放っていた。初めての経験で彼女も驚いていたが、終わってみるとまんざらでもなかったらしい。
『明日のパン祭りに、工房として参加してほしい』
あれから息が切れて浮上してきたデューは、開口一番そう言った。
下手人があっさり始末されてしまったため、結局イドルドさんを刺した犯人は分からず仕舞い。しかし、たかが傷害事件で何故犯人は殺されなければならなかったのか。何故翠の眼と異能を持つ男が出てきたのか。
それを探るために『撒餌』になってほしい、というのがグレリーの依頼の要旨だ。
ただし彼がそう言ったのはデューが紙兵に襲われる前の話なので、今後この一連の流れの裏にいる存在を刺激するのであれば、かなりの危険が伴うであろうことは想像に難くない。
逆にこのまま何もしなければどうなるだろう?
犯人が死んだのなら、事件としては迷宮入り。動機も、背後関係も闇の中。例の分裂男が通りすがりの正義の味方だったのでなければ、今後あのパン工房に同じ事件が起きないとは言い切れない。
姉代わりの二人に手を引かれながら、楽しそうに歩くリーシャを見る。イドルドさんを襲った凶刃が、次は彼女の上に振り下ろされる可能性もあるのだ。自分の想像に身の毛がよだつ。
そして俺にとって分裂男の件は、俺をこの世界に喚んだ者とその目的を知り、元の世界に帰るという本来の目的からしても、避けて通ることはできない。
つまり、なんだかんだ言ってもいつも通り、自分の中でも既に結論は出ているわけで。色々理屈をこねくり回したところで、何が変わるわけでもない。
口にくわえたストローの先を噛み潰す。セロリの葉先を噛んだ時のようなしゃきっという感覚と同時に、口の中に苦い汁が広がった。
そうしている間に、港町と高級住宅街を隔てる城壁に辿り着く。明らかに怪しい風体でなければ、門をくぐって出て行く分にはお咎めなしだ。
石を積んだアーチ型のトンネルを抜けると、さあっと視界が開けた。中天を過ぎたオレンジがかった太陽の光は、相変わらず街並みと海を照らしている。
と、港へと続く大通りを、何やら祇園祭りの山鉾のような、金銀やら羅紗で鮮やかに飾り付けられた山車が下っていくのが見て取れた。しかし祇園祭のものよりも太い角材を使用しており、明らかに頑丈に作られている。
「何だあの、南蛮渡来のびっくりどっきりメカは」
「質問の意味が分からないけれど、あそこに見える大きな箱車のことなら、あれは姫様の御輿よ」
「わ~、大きくてきれい……。あの上に姫様がいるんだ。」
目を丸くして見とれるリーシャ。
「お姫様というのは、高い場所が好きな生き物なのか?」
「違うわ。姫様は庶民と目線の高さを同じにしたい、とおっしゃったのだけれども、かといって御身を危険にさらすわけにもいかなくて。それであの高い御輿が作られたの」
そしてナルカはお姫様というものの意味を、よく分かっていないらしく、デューもナルカが分かっていないことを分かっていない様子だ。異文化理解は難しい。
「しかし、もう少し可愛く作れなかったのかね。なんというか、お姫様用にしては無骨すぎないか?でっかい車輪が八つも付いてるし」
「その感覚は正しいわ。あれ、攻城兵器を転用したものだから。中には警備兵が控えているはずよ」
ああ、あの城壁に橋をかけて中に兵士を送り込む移動式の木製塔、「攻城櫓」というやつか。三国志とかでよく燃やされてるイメージしかない。あの手の攻城兵器って、山地が多くて城壁の無い日本じゃ、笑えるくらい発展しなかったんだよな。
「ってことは、お姫様は今港に向かっているのか?」
「そうね。予定では、今日の午後は港にある風読みの塔近くで、海で亡くなった人の慰霊祭を行うことになっていたはずよ。何でも今年は海難事故が多かったから、姫様が特別希望されたって聞いたわ」
デューはまるで秘書が手帳を見ているかのように、すらすらと説明する。
「そりゃまた、できたお姫様なこって」
この世界で死んだ魂は、どこに行くのだろう。お姫様の慰霊の言葉は、彼らに届くのだろうか。
「ねえ、これから下に降りて、みんなでお姫様見に行かない?」
リーシャが思いついたように提案する。しかし、
「だ~め。今日は用事ができたから、真っ直ぐ家に帰るよ」
「え~」
「あと、せっかく髪の毛洗ったのに、潮風でがびがびになるぞ。明日じっくり見られるんだから、今日は我慢してくれ。その代り、帰りがけにイドルドさんとアイーダさんに、お土産で何か食べるもの買って帰ろう」
くしゃくしゃ、と彼女の頭を撫でる。たっぷりの石鹸で泡立て、仕上げにバラの香油を使って手入れした彼女の髪は、以前とは段違いの瑞々(みずみず)しさを保ち、黒い宝石のような光沢を放っていた。
「わかった。じゃあお土産はわたしが選んでもいい?朝来た時に買いたかったものがあるんだ」
俺が了承すると、喜んだリーシャはナルカとデューの手を引いて、屋台の並ぶ大通りに駆けて行った。