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接近遭遇は第六種から

 レジャーシート代わりに広げた白衣の上に胡坐あぐらをかいて坐り、体感約22時間ぶりのお食事タイム。


浮島の周りに広がっている沼は、と言っても水はガラスのように透き通り、底に折り重なって堆積たいせきする枯草や、その周りを泳ぐ妙にでかいタガメやら淡水クラゲまで、上からはっきりと見通せる。クラゲ……丸い浮き袋の下で、ゴカイのような足が沢山ぶら下がってわきわきしてるけど、絶対にクラゲだな、うん。なんか昔図鑑で見た筆石ふでいしっぽいのは気のせいだろう。


 視線を上に向けると、ボルボックス達が飛び去った空は爽快に晴れ上がり、ちょっとしたピクニック気分に花を添える。


 そうしてのんびりしているうちに、朝昼夕食兼用のツナマヨおにぎり×1がお腹の中で消化吸収され、ブドウ糖になり血管を巡り巡ったところで、やっとこさ脳味噌が正常に動き始めた。


「って、どうなってんだこれ!!」


 改めて現状を認識し、頭をかかえてうなる。むしろ空腹が見せた幻覚であって欲しかったが、残念ながらおにぎりを食べた後ではその線は消えてしまった。


「まず連絡を……」


 色褪せた手術着ザールぎの尻ポケットからプライベート用のスマホを取り出す。


 ディスプレイの時計表示は深夜23時。白夜でなければこんなに明るいはずは無いが、先ほどから感じるじっとりとした湿気を含んだ暑さが、ここが北欧でないことを教えてくれている。


 当然アンテナは圏外。


 半分諦めながらも地図アプリを起動するが、アプリは立ち上がったもののGPSの現在位置が定まらない。アラスカに行ったと思ったらイースター島、練馬区ボリビアとアイコンが世界中を飛び回っている。


 電池の残量は64%。心もとないが多少はもちそうなので、GPSの作動が安定するまでしばらくスマホは脇に置いて触れないようにした。


 その間にサバイバルに使えそうなものが無いか、全部のポケットをひっくり返して持ち物を白衣の上に並べてみる。


 まずはコンビニの小さな白いビニール袋と、非常食用に残した梅おにぎりが1個。長ったらしいカンファレンス中にこっそり食べるつもりだった、糖分補給用のミントタブが1つ。それにお手拭1袋。


 さらにポケットから出てきたのは、アパートと病院のロッカーの鍵。財布、製薬会社からもらった薬の名前の書かれたボールペンとメモ帳、3000mAhの携帯用充電器と付属のマイクロUSBケーブル1本。


 そして、先ほど謎の非通知電話がかかってきたPHS。


「問題はこいつ、だな……」


 大学病院で臨床業務に携わる医師一人一人に配られる院内PHSは、白黒ディスプレイにグレー色の塗装が剥げかけた細長いシンプルなデザインの本体、そのうえ着メロは単音と、『無難』『凡庸』『質素』にステータスを全振りしたようなダサさ。以前気になってネットで機種名検索してみたところ、12年前の新商品説明ページがヒットする古式ゆかしき逸品だ。


 院内にいた時はギャンギャン五月蠅く鳴り響いていたこのPHSだが、先ほどからおにぎりを食べている間も、うんともすんとも言わなかった。


 当然の如くアンテナは圏外。そもそも大学病院から100mも離れると電波が入らなくなる仕様だし、もし電波が入ればそこは病院の敷地内。だがうちの病院の裏にこんな南国庭園があるなんて聞いたこともない。そんな余裕があるなら、とっとと従業員の給料を上げろ。


 無駄とは思いつつも試しにPHSを耳に当ててみる。受話口からはツー、という待機音が聞こえるだけ。耳を澄ましてもさっき謎の非通知でかかってきたような、全く違う場所の音などは聞こえない。


 PHSを耳から離し、通話履歴の参照ボタンを押した。しかし、


「非通知が消えてる?」


 確かにあの時、ディスプレイに『非通知』の字が表示されていた記憶があるのだが、受信リストの一番最後は救急病棟の看護師長持ちPHSの番号。ダメ元で履歴にある全ての番号にかけてみるが、圏外だからもちろん回線は繋がらない。


「あ~、何じゃこりゃ」


 一気に体の力が抜けた。ごろんと緑の草の上に寝転がり、独り嘆息たんそく


 仰向けのままボルボックスたちが消えて行った青空を背に、PHSのディスプレイにドットで表示された電池残量を見つめる。残りは2/3。


「充電器は規格が違うから、これが切れたら手がかり無し、か」


 もしあの非通知着信がこの異常事態の原因であれば、また同じ風にひょい、と変な電話がかかってきて、それを取ったら元の病棟に戻っているかもしれない。全く科学的ではないが、そんな風に思ってしまった。


 けれど電池が無くなれば、このPHSはただの箱。その前にもう一度、あの現象が飽きればいいのだが……とりあえず電話がかかってきたらすぐに気付けるよう、PHSを左胸のポケットに納める。


「そういや、スマホの方はどうなった?」


 手を伸ばしてもう一度画面の地図アプリを確認するが、肝心のGPSのポインタはミクロネシア連邦の島々を足場に華麗なステップダンスを舞っていた。


「う~、こりゃ遭難決定か」


 喉元まで出かけた『そうなんだ』の親父ギャグを呑み込む。


 ぶっちゃけ、突然拉致らちされるオプション付きびっくり南国サバイバルツアーに応募した覚えも、乗ってもいない飛行機がジャングルの上空で爆裂四散した記憶も無い。


 けれども俺が今、一人でこの密林に置き去りにされたということは、まぎれもない事実だ。


 つ~かGPSが反応しない時点で、ここが日本なのかどうなのかさえ分からん。


 頭上に輝く真夏のような太陽。高気温高湿度、アマゾンの密林のようなどぎつい原色の緑に彩られた植生、そして空飛ぶボルボックス……むしろここが日本である方が嫌すぎる。感覚的には南米か東南アジア、オーストラリアの熱帯雨林のイメージ。


 しかしどんなに考えてみても、何で俺を?という疑問に答えは出なかった。 誘拐するなら女子供の方が手軽だし、大学病院への人質テロ?にしては、現金とカードの入った財布やスマホが無事なのが納得いかない。


 自分で自分の頬を、力いっぱいひねってみる。


「……痛い」


 夢であってほしかったけど、夢じゃなかった。


「となると、のんびり寝てる暇は無い……なっと!!」


 がばり、と勢いよく白衣のシーツから体を起こす。音に驚いたのか、すぐ横で蛙っぽい緑の生物が沼に飛び込み小さな波紋が生まれた。


 今は太陽が出ているから問題ないが、このまま日が暮れてしまっては身動きが取れなくなる。遭難したのなら下手に遭難地点から移動しないことが鉄則だが、それは救助隊がやって来るという希望があれば、の話。俺がここにいることは俺しか知らないのだから、楽観的にはなれない。


 幸い水場は確保できた。


 おにぎりを弁当、ビニール袋を水筒の代わりにでもすれば、短時間の探索行なら可能だろう。迷わないようメモ帳に地図を書きながら、暗くなる前にまたここに戻ってくればいい。


「まずは見晴らしのいい場所を探すか、それとも沼を一周してみるか……」


 ざっと見渡してみてもジャングルの緑が濃ゆ過ぎるためか、物見に適した岩山などは頭さえ見えない。


 それなら後者を優先するか。ぬかるみに足跡があれば人や猛獣の存在を知ることができるし、流れ出す川があればそれを辿たどって河口や海を目指すのもいいかもしれない。


「でも沼広いな、おい」


 尾瀬おぜでもないのに霧が漂う対岸は、ぼんやり白く霞んで何も見えない。


 と、その手前に、先ほどは丈の高い水草の陰になって気づかなかったが、鮮やかな赤い色をした箱状のものが片足のタイヤを沼に突っ込んだ状態で、最初に俺がいたあたりの場所に顔を覗かせているのが見えた。


 急いで白衣を羽織り直し、広げていた小物をポケットに詰め込んで立ち上がる。


「まさか!?」


 近づいてみるとそれはやはり、ここに来る直前俺が押していた救急カートだった。重いカートの車体を沼から引き揚げ、湿気を避け乾いた地面へ移動。


 はやる心を抑えながら、恐る恐るカートの引き出しを開けてみる。


「うぉっしゃっ!!」


 思わず声を上げ、その場でガッツポーズ。


 中身は全部無事だった。


 割れていることを危惧したガラスアンプルの注射薬などは、紙箱に分けて入れられていたため特に異常なし。他にも気管挿管きかんそうかんに使う喉頭鏡こうとうきょう、挿管チューブや強制換気袋アンビュバックなどの蘇生具は、紫外線滅菌の後に一つずつビニールに包まれたまま。電気ショック用の除細動器も、フル充電状態ですぐにでも使えそうだ。


 勿論これらは現状の打破に役立つ道具ではない。けれども自分の元居た場所の匂いがするものに出会えたのは単純に嬉しいわけで。


 故郷は遠きにありて思うもの、とはよく言ったもんだ。歌う暇は無いけど。


 引き出しを開け閉めしてカートの中身を一通り確認、探索に持っていけそうなものを選ぶ。


 まずペンライトが1本。


 維持いじ液が2本……本来は点滴用だが、その組成そせいはスポーツドリンクに近いため、飲んでも問題は無い。中身が厚いビニールでパッキングされているため、持ち運びも便利。ちょっとビニール臭いことを除けば、寄生虫わっしょい!!の生水を飲むよりよほど安全だ。


 そして鋏、ピンセット、持針器、メスを一纏めにした縫合セットと、小分けした生理食塩水3つ。手術手袋、清潔シート、歯ブラシ、キシロカイン麻酔注射と注射器、注射針各一つずつ。汚染創部洗浄用の滅菌歯ブラシ、あとカミソリも別に持った。加えてガーゼと包帯、テープ、消毒用アルコールを少々。これで簡単な怪我なら対応できる。内服薬として抗ヒスタミン薬と胃薬、整腸剤、解熱鎮痛剤、どんな細菌にも効く巨大な500mg抗生物質錠。


 あとは護身用に使えるかも、ということで、アドレナリンの注射製剤を1アンプル。これも注射のセットと一緒に持っていくこととした。心肺蘇生用の強い薬品で、健康な人に注射すると吐き気や動悸、頭痛、場合によっては不整脈を起こし心臓が止まってしまう。もちろん、こんな危険な薬を一々注射してる暇があるのなら、さっさと逃げればいいのだけれど。


 荷物が多くなってしまったが、そんな時こそビニール袋の出番。ついでに残りの物品は使うことも無いだろうから、カートと一緒に沼の傍に生えていた大きな木のうろの中に隠しておくことにした。


 カモフラージュに大きなシダの葉っぱを集め、雨水などが入ってこないようしっかりと口を塞ぐ。そして目印になるように、足元の石を拾って樹皮をがしがし削り、大きな×印を付けた。木の形もしっかり覚えたので、万が一必要になって取りに戻ることがあっても探すのは容易だろう。


 でもその前に途中で捜索隊か現地の人にって、さっさと救助されたいのが正直な気持ちだ。


 手元にある水も食料も、せいぜいもって今日明日分。あとは沼の水飲んで……ボルボックスでも食べるか。見た感じオオマリコケムシみたいなゼリーっぽい感じだったし、最近ミドリムシが栄養食品になってるから多分大丈夫だろう、多分。そして体内で増殖した変異ボルボックスが小腸の壁を食い破り……うん、この件は後で考えることにしよう。


 気を取り直し、いざ探索に出発!! 


 意気揚々と第一歩を踏み出した……そのサンダルを履いた右足が、ずぶり、と地面に沈み込む。


「うわぅわっ!?」


 どうやら地面だと思ったのは、泥の上に枯草でできた別の浮島が乗っかっていただけのものだったらしい。さらにその下の草は半分腐っており、踏ん張ろうとすればするほど、ずぶずぶと足が呑み込まれていく。まさに天然の落とし穴。


 落ち着け!! 沼にはまったら、逃れようともがくほど沈んでいくのはお約束。冷静に、何かロープ代わりになりそうなつたとかを……。


 ぶぃんっ!!


 そう思った瞬間、鋭い風切り音がさっきまで俺の頭があった場所を通り過ぎ、近くの木の幹に何かが勢いよく刺さる。茶色く細長いそれは、槍の柄のように見えた。鼠色ねずみいろに鈍く輝く金属片を草のつるで先端に括り付けただけの粗末な槍、それが木にめり込んでぶらぶらと揺れている。


「くっ!?」


 落ち着いてる場合じゃ無い!! このままだと七面鳥みたいに狙い撃ちにされるだけだ!!


 慌てて視線を巡らすが、身体を支えられそうなものは無い。


「しょうがないっ!!」


 邪魔になるので、持っていた荷物を目についた木の根元に投げ捨てた。そしてつま先から足首まで総動員し、ゴムサンダルを脱ぎ捨てる。


 チャンスは一回!!


「えいやっ!!」


 脱いだサンダルを足場にして思い切り踏みつけ、一気に右足を泥の中から引き抜いた。そのまま地面に転がり、姿勢を低くして森の中に逃げ込もうとする。


 だが襲撃者はそれを許してはくれなかった。


 俺の頭上に黒い影が舞ったかと思うと、背中に何か重いものが飛び乗ってきた。


 衝撃で一瞬、息が詰まる。


「くそっ、退けよっっ!!」


 のがれようと必死で体をよじるが、向こうはロデオマシーンの要領でうまくバランスを取り、そう簡単には振り落されてくれない。


 いつ襲撃者の刃が自分の首筋に振り下ろされるかもしれない恐怖。無茶苦茶に暴れながら夢中で背後に手を伸ばすと、どこだかわからないが相手の身体に指先が触れた。


「くんぬぅりゃあっっ!!」


 触れたところをがっしりと掴み直し、背負い投げの要領で背中から引っぺがすようにして、思いっきり襲撃者を投げ飛ばす。最近は聴診器より重いものを持った覚えのない自分の、どこにそんな力があったのか。不思議と軽く感じた相手の体は、まるで体力測定のハンドボール投げでもしたかのように、勢いよく近くの太い木の幹目がけて飛んで行った。


 やばっ、強く投げすぎたか!?


 いや、相手の心配をしている余裕なんて無い。片足を泥だらけにしながら、今度は確認しながら足場になる堅い地面の上に立ち、追撃に備える。


 ……だが俺はその光景を見た瞬間、あっけにとられて動けなくなってしまった。


 俺に投げ飛ばされた襲撃者が木にぶつかる直前、翼を広げたのだ。


 それも純白の天使の翼などではない、鉤爪の付いた漆黒の悪魔の翼。


 蝙蝠傘こうもりがさを広げるみたいに、ごく自然にばさりと身体から解き放たれたそれは、空力エアブレーキのように働く。翼を開放した反動で身体をくるりと反転させた襲撃者は、そのまま減速しながらふわりと巨木の根元に降り立った。


 それだけでも驚いたのだが、襲撃者の姿を改めて光の中で確認したことで、本日もう何度目か数えるのも嫌になる衝撃が、いなづまのように俺の脳髄を駆け抜けた。


「まじか……」


 襲撃者は―――中学生くらいの女の子だった。


 成人男性に襲い掛かる女子中学生、というだけでも十分ネタになりそうだが、それいじょうに驚いたのは、彼女の容姿が普通の女の子ではなかったことだ。


 背中に蝙蝠のような翼を持ち、真昼の光の中でもうっすらと青白く光る肌。あまり手入れをしていないらしい、枝毛だらけでぼさぼさの黒髪を肩にかかる長さのボブカットにしており、その黒髪の隙間からは小さな角らしき突起が覗いている。


 そして彼女の肉食動物のそれを思わせる、虎目石タイガーズアイにも似た金色の瞳は、やや困惑の色を帯びながらも俺の瞳をしっかりと見据えていた。

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