魂の選択
白い霧の向こうに放出機構で作られたオレンジ色の光源が、幻想的に霞んで見える。
俺の邪魔する者は誰もいない。力を抜いてなすがままに体を委ねると、重力の束縛から解き放たれた四肢に再び血が巡るのを感じる。
「ほふゎ……風呂より楽はなかりけり、とな」
水滴がぽちゃん、と落ち、お湯の表面に小さな波紋が広がった。
最初見た時ローマっぽい造りをしている街だと思っていたけれども、まさかこんな大きな浴場があるとは……この俺の目をしても読めなかったわ。
グレリーの使いの女性が『密談にも使える安全な場所』として連れてきてくれたのが、貴族や高級官吏の居住区画にあるこの浴場だった。基本的には併設されている娯楽室やサウナ室を、江戸時代の銭湯の二階みたいに情報交換サロンとして使うことが多いらしい。
にしても、この世界に来て体を洗うのも湯船に浸かるのも、初めての経験だ。久しぶりのお風呂を全身全霊で堪能する。縦横3m、深さ1m弱の床に埋め込まれた風呂桶、その中に入ったお湯全てが俺のもの。
至福と快感の波が途切れることのないリズムで寄せては引き、また打ち寄せて、俺の心を震わせる。えいえんは、あるよ……ここに、あったよ……。
「きゃはははっっ!!おに~ちゃ~んっ!!」
甲高い笑い声と共にばっしゃーん、と大きな水しぶきが上がり、俺だけの世界はいとも容易く破壊された。
「うぉい、入る前にちゃんと体洗ったのか?」
「洗ってないよ、ダメだった?」
お湯につかって顔だけ出した状態のリーシャが尋ねる。肩まで届く黒髪が放射状に広がって、黒いクラゲみたいだ。
「まあ入っちゃったら仕方ないか。今度は気を付けろよ」
「は~い!!」
可愛いクラゲはそのままとぷん、と潜水して、浴槽の反対側に泳いで行った。
「そしてそこの痴女、人がのんびりしてるところに、何でわざわざリーシャを連れて入ってくるかな」
「誰が痴女よ、このすっとこ2世。この店で浴室を2つも借りるとなると、一体いくらかかるやら。そんな御大尽ができるのならば、とっくにこんな仕事辞めているわ」
浴槽から立ち上る薄い湯気越しに、小柄なグレリーの使いの女性が立っているのが見えた。
全裸で。腰に両手を当て、全てをさらけ出して。
先ほどはかろうじてスク水系ボディスーツを着ていたが、今目の前にはその下に隠れていた彼女の体が、余すところなく露わになっている。
胸はそれほど大きくないが、身長が低いこととウエストが引き締まっていることから、実際のサイズ以上に強調されて見える。鍛えられているであろう引き締まった手足は、筋肉の上にうっすらと纏った皮下脂肪のおかげで女性らしいラインを失っていない。
そしてあまりにも堂々としているので丸見えなのだが、二十歳前後と思われる彼女は、にも関わらずリーシャのようにつるっつるで生えていなかった。下が。
「まごうことなき痴女だろ!!何考えたら会ったばかりの男の前に、素っ裸で現れるっつー選択肢が出てくるんだよ」
なるべく視線を向けないようにしながら頭を抱える。もしや脳内に浮かんで奇行を強要するという、伝説のあれですか?
「懐事情」
「……隠す努力はしろよな、女の子」
一気に力が抜けた。そう言われたら働く社会人としては、仕方ないと思わざるを得ないじゃないか。明らかに理不尽だけど。
彼女は気にした様子もなく、ずかずかと湯船に歩み寄ると、その白くしなやかな足先をちょぽっ、と水面に降ろし、その体を見せつけるように俺の対面に腰を下ろした。
薄目にして見ないようにするが、やはり気になってちらちらと視線を向けてしまう。
「……欲情した?」
「うっさい。リーシャがいるのにそんな気になれるか」
「ふふっ。あまり繕わないことね、小さく見えるわ」
湯の中に隠れている俺の股間を横目で見て、鼻で笑う。
何がだよ。そして欧米人と比べるな。
とはいえ無神経そうな言葉を吐きながらも、彼女の顔は何かを我慢しているかのように少し苦しそうだ。気の強そうな釣り目がちの瞳も潤んでいるし、湯に入ったばかりにしては、肌も桃色に紅潮している。
……まさかトイレを我慢してる、ってわけでもあるまいに。
「それにしても、喫茶店か居酒屋を想像していたんだが、浴場に来るとは思ってなかったよ」
正直さっきの戦闘で噴水に入って二人ともずぶ濡れだったから、ありがたいといてばありがたい。しかも風呂を焚く余熱で洗濯ものを乾かす乾燥室があることから、俺たちの服も洗濯してもらっている最中だ。特に俺のトランクスは連続着用一週間を超えたところだったので、非常にありがたい。そろそろ体臭が発酵臭に移行しかけてたところだったし。
「この場所は一旦貸し切ってしまえば、中で何をやっていても気にするものは誰もいないわ。高級官吏が密談や会食に使ったり、下衆な貴族がいかがわしい目的に使ったり……」
なるほど、ファンタジー世界の『例のプール』という扱いなのか。
一瞬会食の意味が分からなかったが、古代ローマの貴族はプールに料理の入った皿を浮かべ、プールサイドに寝そべりながら宴会をしていたっけか。確かに風呂桶の底には、魚やタコといった海の食材の絵が、上から覗いても楽しめるようにモザイクタイルで描かれている。
そしていかがわしい目的に関しては、追求しないでおこう。
「それじゃ、改めて。俺の名前は大国健那。皆もそう呼んでいるから、スクナって呼んでくれると助かる。グレリーから聞いていると思うけど、別の世界からやって来た。今はそっちの、リーシャって子の家で世話になっている」
聞き方によってはヒモってことだよな。異世界漂流者はNEETに入るんでしょうか。
「次はあんたの名前と身分について、教えてもらえるか?」
彼女は、はふぅ、と色っぽいため息をあげた後、きっと俺の方を見据える。
「デューフェ。私はデューフェという。あなたがグレリーと呼ぶ男とは、主従というより単純な雇用契約関係、というのが妥当かしら」
「でゅーべ?」
「どーべ?」
「デューフェよ、デューフェ!!」
俺と、横で話を聞いていたリーシャを正そうと、ずずいっと赤らんだ顔を寄せてきた。
うぉい、近い、近いぞ!!
その後何度か名前を呼んで見るが、いまいち上手く発音できなかったため、仕方なしにデューと呼ぶことで妥協してもらうことになった。すごく呆れた顔をされたけど、英語の発音さえ苦手な日本人に無茶言うな。
にしても、言い合っているうちに会った時のような堅苦しさを口調から感じなくなったような気がする。舌足らずさまさま、ということで。
「んじゃデュー、良かったらグレリーからの伝言、ってのを教えてくれるか?」
リーシャが聞いても問題ない範囲で、と付け加える。
「伝言の内容自体は大したことじゃないわ。それより問題は、今回私が追われる原因にもなった件ね」
俺に少しアバラの浮いた脇を見せながら、風呂の縁に両腕を乗せてもたれかかる。小さくはない彼女の胸が、風呂の壁に押し付けられむにゅっと変形した。
俺は男だから分からないけど、その恰好って乳首が冷たくならないのか?
デューが顔だけをこちらに向けたので、慌てて視線を逸らす。
「スクナ、あなたと同じ、黒い髪と翠の瞳を持った奴についての話よ」