苦痛と快感、そして覚醒へ
「お兄ちゃん、大丈夫?」
「ほっぺた痛い……」
工房のキッチンに出した簡易テーブルに座ってぶーたれる俺の横っ面には、ナルカ謹製季節外れの真っ赤な紅葉が舞っている。
「だ~から、悪かったって。あのままだとイドルドが暴れて大変なことになってただろ」
「そりゃまあそうですけど……あつッ!!」
アイーダさんが用意してくれたパン粥を食べようとして口を開けるが、途端、頬に電撃のような痛みが走った。治るまであまり大口を開けないようにしよう。
あの後平手打ちで驚いたイドルドさんには、誤解だということと、一応俺が罰を受けたということで無理やり納得してもらった。彼は釈然としない顔をしていたけれども、それはこちらも同じ。両成敗にしても○リコンの汚名を被ったことを合わせると、俺のダメージがでかすぎる。
とはいえ過ぎたことはどうしようもないので、食事を続けるべく木の匙を手に取った。隣に座ったリーシャは、まだ熱いお粥にふーふーと息を吹きかけて冷ましている。
パン粥は、前日に売れ残ったパンをお湯で煮崩して、そこに干しブドウや干しアンズなどの乾燥果物と、アーモンドやクルミなどの砕いたナッツ類を散らしたものだ。要するにフルーツグラノーラ入りのオートミールみたいな感じで、入れる直前に砕いたナッツ類から出る油分が熱せられ、そこから立ち昇る香りが甘いフルーツのそれと混ざって食欲をそそる。
毎度お馴染みいただきます、と言ってからお粥をすすってみると、パンの種類がふすま入りパンや黒パンに近いことから、思ったよりも穀物の味が強く酸っぱさが際立つ。いかにも外国のパン、といった印象で、日本ではまずお目にかかれないタイプだろう。甘くするか、もしくはシチューと一緒でないと、食べるのが大変だ。
ちなみにお湯じゃなくてホットミルクがいいな、と言ったところ、アイーダさんが「朝っぱらから母乳が欲しいって?」と胸をはだけようとしたので、全力で遠慮した。相変わらず情操教育に悪いお方だ。この人の場合、どこまで冗談か分からない。
ナルカはリーシャの隣の席に着いたものの、お粥の入った椀には目もくれず、脇に抱えたままの大きなパンを内側からちぎってはもしゃもしゃと食べている。
「……気に入ったのか、それ」
「ん」
水分無しでよく食べ続けられるな。黒羽の一族は、欧米人みたいに唾液が多いのかもしれないけれど、見ているだけで口の中が渇いてくる。行儀が悪いから、そのうち止めさせなければ。
「にしても、面白いもんだね」
料理と片づけを一通り終えたアイーダさんが、前後逆にした椅子に座り、背もたれに体と顎を預けながらつぶやく。
「何がです?」
「黒髪の人間が、3人も揃ってるってこと。黒羽の一族も珍しいけど、リーシャみたいに肌が白くて髪が黒い奴なんて、他に見たことなかったよ」
「えへへ、本当のお兄ちゃんみたい」
食べる手を止めて、俺の腕に抱きつき頬ずりするリーシャ。何だか知らないけど、昨日から異常に俺への距離感が狭まっている気がする。
「あんまりそいつに近づくなよリーシャ。子供好きの変態だからな」
「スクナ、その子はまだ小さい。スクナの子供は産めないと思う」
「だから誤解ですって。ナルカも、変な想像するな」
憮然とした表情で手と口を動かし続けるナルカ。もしかして、実は不貞腐れているのか?
「ねぇナルカさん、ナルカさんのことも、お姉ちゃんって呼んでいい?」
俺の手を取りながら、キラキラした&上目遣いでナルカに尋ねるリーシャ。
「私が?」
「うん。ナルカさん、お母さんと同じ黒羽の一族だから、私のお姉ちゃんみたいだなって」
手が止まった。どう答えていいのか悩んでいるのか、視線が宙をさまよい、やがて俺に助けを求めるように見つめてきた。
「いいんじゃないか、呼ばせてあげれば。ナルカは俺の義妹みたいなもんだから、俺がリーシャのお兄ちゃんなら、ナルカはお姉ちゃんだろ」
「私がお姉ちゃん……私が、姉様に……」
しばらくぶつぶつ一人で自問自答していたが、
「わかった。そう呼んでくれて構わない」
「わ~い、ありがとうお姉ちゃん!!」
「……お姉ちゃん……んふ」
まんざらでもないらしく、いつもの『ん』が進化してる。けどナメコみたくないか、それ。
「で、今日から秋のお祭りなんだが、みんなどうする予定なんだ?」
「俺はイドルドさんに付いてた方がいいかな、って思ってる。昨日の今日だし、何かあるかもしれないから」
本来ならナルカとリーシャを連れてお祭り見物に行きたいところだけれど、仕方がない。
ちなみにあの後落ち着いたイドルドさんから犯人の心当たりを聞いてみたが、言葉を濁してはっきりとは教えてもらえなかった。抵抗の跡が見られなかったことから、顔見知りの犯行なのだろう。
「え~、お兄ちゃん、お祭り行かないの?」
「イドルドさんのこと、誰かが見てないと。ナルカと一緒に行って来たらいいよ」
リーシャは明らかに不満そうだ。
「大丈夫。何が襲ってきても、お姉ちゃんが倒すから」
真顔で答えるナルカ。姉と呼ばれて嬉しかったのは分かるが、お前は一体何と戦うつもりなんだ。まさかお祭りが全部、あの巨大アニサキスみたいな怪物を倒すイベントと勘違いしてないよな?
「だったらちょうどいい。あたしがこのままイドルドを見とくから、3人で祭りに行ってきなよ」
「……ありがたいですけど、アイーダさん大丈夫なんですか?お店とか、赤ちゃんとか」
今日も朝から様子を見に来てくれているし、彼女自身のことが心配だ。
「それなら気にしなくていいぜ。店は夜からだし、ネムリスは親父に預けてきた。」
「でも……」
ちらっちらっと横の二人に視線を遣る。ナルカもリーシャも散歩前の犬みたいに、目の中に『行きたい行きたい』『まだなの?まだなの?』の文字が浮かんでる。
「じゃあお願いします。一通り見たら、早めに帰ってきますんで」
「わ~い!!」
声を上げて喜ぶリーシャと、無言ではにかむナルカ。
「そうだ、こいつも渡しておかないとな」
小さな革袋を俺に手渡す。受け取るとじゃらっという音がして、金属の重みが伝わって来た。
「これは?お金が入ってるみたいですけど」
「ここに来るときに言付かったんだ。ほら、昨日のグレリーっての、覚えてるだろ?店の前にあいつの使い、って奴がいてさ」
忘れるはずもない。イドルドさんを刺した相手を探すと言って去って行ったが、あれから何か掴めたのだろうか。
「昼ごろに中央広場の噴水で会いたい、だそうだ。で、これはお茶代だってよ」
ついでに昨日うちで食べた分の支払いも色を付けて持ってきてくれた、とほくほく顔で教えてくれる。確かにあの後すぐ店を飛び出したから、会計してる暇なんてなかったからな。
「ありがたく受け取っておきます」
使うかどうかは別として、この世界のお金があると心強い。一文無しでは何もできないし。
「おう、貰っとけ。片づけもあたしがやっとくから、飯が終わったら準備して出かけるといい」
借りたナイフも返さないとな。俺たちは手早くお粥を掻き込み、席を立つ。
と、急に天井の方からイドルドさんの呻き声が聞こえてきた。
すぐに階段を駆け上り、傷の状態を確認する。特に出血しているわけでもなく、単に傷の部分が痛んだだけみたいだったらしい。
扉の隙間からリーシャとナルカが心配そうに中をうかがっているが、大丈夫、というと安心した表情になった。
「そういや、イドルドが痛いって言ったらどうしたらいいんだ?」
アイーダさんが尋ねてきた。
起きてから点滴は外して、今は痛み止めと胃薬を飲んでもらっているだけだが、それでも完全には抑えきれないようだ。
「座薬、ですかね」
「座薬?」
答える代わりに実物を取り出す。狂気なウサギが弾幕に使っているロケット型の解熱鎮痛剤を、アイーダさんは物珍しそうに観察していた。
「これをお尻の穴に入れます。一度入れたらしばらく効果が続きますから、今使って、あとは夕方痛くなったらもう一度使いましょうか」
「ケツの穴に入れる薬か……。お前の世界の人間は、よく考えるな、そんな方法」
確かに座薬を考えた人物は、天才か変態か、どっちかだと思う。もしくは両方。
「よっし、あたしに任せな。ばっちり突っ込んどいてやるからよ」
「イドルドさん恥ずかしがるんじゃないですか?俺がやってから出かけますけど」
俺たちの話を聞いていたイドルドさんが、布団の中から顔を覗かせて、うんうん、と頷く。
しかしアイーダさんは首を振り、
「こんな面白い……いや、貴重な体験は譲れないね。そもそもあたしとイドルドは幼馴染だから、尻の穴から○○○まで全部お見通しさ」
なるほど、二人は妙に気の置けない仲だと思っていたが、そういう関係だったのか。にしても子供の頃の話だろうけど、ひどい幼馴染があったもんだ。二次元の幼馴染はあんなに可愛くて健気なのに、これだから三次元は。
にやにやと笑うアイーダさんと、やめてよして、な仔犬の表情でぷるぷる震えるイドルドさんを見比べる。
そして俺は……無言で彼女に座薬を手渡した。
喜色満面のアイーダさんと、絶句するイドルドさん。
「ナルカ、リーシャ、邪魔にならないようさっさと出るぞ」
「は~い!!じゃあお父さん、アイーダ姉ちゃん、行ってきま~す!!」
手を振ってとんとん、と階段を降りるリーシャにナルカが続く。
「さ~てイドルド、その汚いケツを久しぶりに見せてもらおうか!!」
「ひィっ、スクナくん……」
助けを求めるイドルドさんに、高校球児みたいな爽やかな笑顔で「力むと尻も傷も裂けますよ。じゃっ!!」と別れを告げると、振り返らずに階段を降り、先ほどの革袋とグレリーのナイフを引っ掴んでそのまま工房の外に出る。
先に待っていた2人と一緒に、掃き清められた大通りに続く石畳の道を歩いていくと、陽気で賑やかな音楽と高い物売りの声、そして人々のざわめきが大きくなってきた。
途中、元来た方向から、獣の断末魔のような「アッー!」という野太い雄叫びが聞こえたような気がしたが、気のせいだろうな、うん。