仕事をするのは一週間ぶり
「お父さんっっっ!!」
床で仰向けに倒れて動かないイドルドさん。俺たちが静止する間もなく、工房に飛び込むなりリーシャは父の巨体に縋りついた。
「リーシャ、診察するから離れてろ」
「いやっ、お父さんっっ!!死んじゃやだよっっ!!」
聞いちゃいない。でも家族がケガをしたら、気が動転しても仕方がないか。
そして、こうなることは想定済み。
「アイーダさん、リーシャの面倒をお願いします」
「よっし任せな。ほらリーシャ、手当の邪魔になるからこっちに来い」
人を宥めるには女性が一番。赤ちゃんを寝かしつけたので、酒場からアイーダさんに応援に来てもらった。ちなみに女性に頼むのは精神科でも使われる手だ。患者が暴れた時は例えおばさんであっても、女性が抑えにかかると患者も遠慮してか抵抗を弱める。逆に男が強引に抑えにかかると、患者も全力で抵抗するので大乱闘になったりするんだとか。救急でも興奮してる人や酔っ払いは、怪我も気にせず暴れるからな~。
「離してっ、邪魔しないでっっ!!むぎゅむ……」
あ、普通に諭して大人しくさせるかと思ったら、アイーダさんの必殺メロン固めが決まってしまった。
豊かな双球に顔面を押しつけられたリーシャはしばらく脱出しようとばたばた手足を動かしていたが、やがて力尽きたのか、ぐったりと小さな体をアイーダさんに委ねた。
恐るべき母性(物理)。
「これでいいのか?」
「ええまあ……。上でリーシャを寝かせててもらえます?あとナルカ、上から俺の荷物を全部持ってきてくれ」
わかった、とナルカと胸元にリーシャを抱いたというかぶら下げたアイーダさんは、奥の階段を登って行った。要救助者を増やしただけの気もするけど、何だか知らんがとにかくよし。
「グレリーは俺の手伝いを頼む。ただし相手は怪我人だから、俺が指示した時以外は手を出さないでくれ」
「わかりました。一人じゃ体を動かすのも大変ですからね」
3人がその場を離れてから、俺は改めてイドルドさんの状態を確認する。冷たい石の床に横たわった彼は、意識が朦朧としているらしく、呼び掛けには答えない。少なくとも頭を殴られたり、ぶつけたりした様子は無いので、怪我のショックで気を失っている、と思われた。
ざっと簡単に全身を観察するが、お腹の傷以外に目立った外傷は無い。続いて診察に移る。
まずはバイタル。頸動脈は触れるし、手首の頭骨動脈も触れる。脈拍は時計が無いので正確には分からないが、分速100前後。危険なショックバイタルである可能性は低そうだ。
次に呼吸。浅く早いが、唇も爪もピンク色でチアノーゼは起こしていない。ついでに爪先を押して末梢血管再充填時間を確認したが、こちらも2秒以内にピンク色が戻ってきたため、循環不全も無い。喉の奥から少し唸るような音がするが、肥満のせいで舌の根が落ちているためだろう。
とりあえず全身状態は落ち着いている。これならしばらくは余裕を持って対応できそうだ。
次は傷の状態。
木綿のシャツの上からかけたエプロンのお腹のところに、流れ出た血が黒く固まっている。滲んだ血の染みは今は大きくなっていないことから、動脈ではなく静脈からの出血だろうか。
「ところで何か刃物を持ってないか?」
「ナイフがありますけど、小さいのでよろしければ」
グレリーが腰のベルトに吊るした革製の鞘から刃渡り10cm程度のナイフを取り出す。造りは簡素な木の柄に、少し幅広の鋼の刃が固定されている。さすがに青銅器じゃないんだな、ナルカの鉈も鉄製だし。
「しばらく借りるけど、汚したらゴメン」
エプロンの紐を切り、身体から外す。さらにその下のシャツをナイフで切り裂き、イドルドさんの太ったお腹を露出させた。
傷は縦に長さ10cm,幅1cm以下、深さは分からない。グレリーのものより一回り大きいナイフで刺した傷跡のように思えた。
今は脈打つ出血は無く、じわじわと血がにじみ出ている状態だ。
「スクナの荷物、持って来た」
そこへ俺の医療器具一式を抱えたナルカとアイーダさんが到着した。無事にリーシャは寝かし?つけられたらしい。
「ありがとう。あと、他に捨ててもいい布って無いかな?」
薬から聴診器まで全部まとめて風呂敷包み状態にしていた荷物を工房の床にばさっと広げ、必要な物品を探す。この包み布も使えるけど、多分足りない。
「うちに戻ればネムリスの古いおむつがあるぜ。持ってくるか?」
「う、おむつか。一応あった方が……。お願いします」
「おっし、じゃあちょっと行ってくらぁ」
褐色の肢体が外に飛び出し、すぐに闇の中に消えていった。酒場とはそれほど離れていないので、あまり時間はかからないだろう。今のうちにできることはやっておかないと。
初めに点滴のボトルを手に取る。青いシールが貼ってある、外液という失った血液の代わりになる種類のものだ。次に血管に刺すための針。普通の注射針と違い血管留置針と呼ばれ、柔軟性のある筒状の針を血管に刺したままにできるタイプ。そしてボトルと針の間を繋ぐ点滴ラインのチューブを選び出す。しかしごちゃまぜになった荷物中から必要なものを探すのは意外と骨が折れる。例の青い狸型ロボットの気持ちが少し分かった。
点滴の組み立ては簡単だ。ナルカに立ったまま点滴ボトルを持ってもらい、ボトルの口にラインチューブの先をブスッと刺して弁を開放すると、高低差でチューブの中に点滴液が満たされる。
倒れているイドルドさんの左腕を伸ばして駆血帯、要するにゴムチューブなのだが、を巻いて締め上げる。やがて心臓に戻れない血で静脈が膨れて浮き上がってきた。肥満の人は通常血管が見えにくいのだけれども、彼の場合はただの肥満ではなく肉体労働者、筋肉質の肥満体なので、腕の筋肉を栄養するための血管がよく発達していて分かりやすい。
他の2人は息を呑んで俺の作業を見つめている。説明していないので当然だが、彼らにとっては目の前に異世界が出現したようなものだろう。理解の範疇を超えているため、一言の声も発せられない。
血管留置針は基本使い捨てなので一発勝負。刺す場所を消毒綿で拭いた後、浮き上がった静脈に向かってえいやっと針を進める。かなり太い血管なので、失敗する恐れは無い。針の中をどす黒い静脈血が逆流してきたのを確認し、血管留置針の内針を抜いて筒状の外側だけを血管内に残す。駆血帯を解き、ラインチューブを接続して再度弁を開放すると、点滴液がぽたぽたと落ち始めた。
点滴ラインと血管留置針を医療用テープで固定し、点滴ボトルを脇にあった帽子掛けに吊るして即席の点滴スタンドにする。とりあえずこれで急な出血にも対応できるし、薬剤も投与可能になった。もっとも大量出血の場合は、さらに太い針を太い血管に刺さなければ追いつかないのだが。
さて、次が本番。傷の処置なのだけれども。
「おい、おむつ持って来たぞ。あと、ついでに使えそうな奴を何人か連れてきた」
入り口の方からアイーダさんの声がした。振り返ると少し顔が赤い程度の屈強な男性が4人ほど、黄色い染み跡の付いたおむつを持って彼女の後ろに続いている。こんな時になんだが、映画にありそうな面白い光景だな。
「ありがとうございます。じゃあおむつは僕がもらいますんで、今来た人たちはこっちに来て体を抑えるのを手伝ってください」
男たちが中に入ってくる。彼らからおむつを受け取り、イドルドさんの膨れた腹の左右に堤防を作るように敷き詰めた。既に床に広がった血がおむつに付いたが、どうせ捨てるので気にしない。
4人の男たちをイドルドさんの手足に一人ずつ付く形に配置し、四肢を押さえつけられるよう備えてもらう。特に点滴の刺してある左手は、腕を曲げて点滴が止まらないよう注意を促す。手が空いたアイーダさんはナルカの横に立ち、事の推移を見守っている。
と、一応注意しておかないと。自分の周りにいる全員に視線を巡らす。
「今から俺がやることは結構強烈だから、見てて気持ちが悪くなるかもしれない。そうなっても俺は手一杯だから、介抱してる余裕はない。だからできれば、これからしばらくの間目を瞑っていてほしいんだ」
そして捕捉。
「あ、ちなみにグレリーは別。手元が狂うと困るから、しっかり見ててもらうぞ」
「仕方ないですねぇ。けど、あまり脅さないでくださいよ」
俺の軽口にフードの陰で少し乾いた笑いを浮かべながら答える。
「私はいい、このままで」
「あたしもだ。それくらいでぶっ倒れるほど、上品に生まれついちゃいないさ」
自信ありげに答えるナルカとアイーダさん。そういう問題じゃないんだけど。続いて4人の男たちも口々に大丈夫、と告げる。女の子には負けられない、ということなのだろう。気持ちは分かるけどね。
仕方ないのでそのまま処置の準備にかかる。
傷口の周りを茶色いイソジン液で消毒。ここで新しく0.9%の塩水、俗にいうところ『生理食塩水』の500ml点滴ボトルを取り出し、そこに太めのピンク色の針をブスッと刺してグレリーに手渡す。ついでに合図したら中身を絞り出して傷にかけてくれ、と簡単に説明を付け加える。
手術用の清潔手袋を着け、注射器に局所麻酔薬を吸う。そして傷口の周りの皮膚に針を刺し、麻酔液を小分けに満遍なく注射していく。麻酔の効果は直ぐに現れるはずだが、イドルドさんは意識を失っているので確認のしようがない。とりあえず麻酔薬アレルギーもなさそうだし、効いていると考えよう。
ここからが山場だ。
「グレリー、水を頼む。ゆっくりな」
頷いてプラスチックの点滴ボトルを押すグレリー。ボトルに刺されたピンク針のお尻の部分から水が吹き出し、傷に当たってこびり付いた血を洗い流す。どす黒く変色したゼリー状の小さな血の塊が押し流されてお腹の山を伝い落ち、そのまま地面のおむつに吸い込まれていく。やがて傷本体の姿が明らかになり、隙間から鮮やかな黄色の皮下脂肪の層が顔を覗かせた。
そろそろ行くか。グレリーに合図し、一旦水を止めてもらう。
意を決して、俺は手袋を着けた人差し指をイドルドさんのお腹の傷に突っ込んだ。
「うっ……」
誰かが小さく呻き声を上げる。それには構わず、俺は指を傷の奥へと進めた。
皮下脂肪の層をかき分けて進み、しばらくすると指先に固いものが触れた。お腹の中心を縦に走る筋肉、腹直筋だ。
指先に神経を集中し、丁寧に腹直筋をなぞる。どこかに傷は無いか、穴は開いていないか。
もし筋肉の壁に穴が開いており、さらに下にある胃や腸などの内臓が詰まった腹腔に傷が達していたらアウトだ。今ある医療器具では開腹して内臓の傷を縫うことも、生理食塩水でお腹の中を洗う腹腔洗浄もできない。そもそも全身麻酔がかけられないからだ。いくら外側の傷を縫い合わせても、傷ついた内臓、お腹の奥に入り込んだバイキンのせいで、いずれ命を落としてしまうことになる。
判断ミスが命に係わる。じっくりと時間をかけて傷口を探った。そして、
「じゃあ手袋以外に水が当たらないようにして、またゆっくり傷を洗ってくれ」
グレリーに告げる。少なくとも調べた限りでは、刃は筋肉まで達していない。心の中で胸を撫で下ろす。
水流が再開された。今度は指を2本に増やして徹底的に傷の中を擦り洗いする。血と脂にまみれたゴム手袋が、じゅぽっじゅぽっと傷口を出入りする。
「むぉっ……」
「うぐっ……」
周りから野太い悲鳴が上がるが気にしない。どんな刃物で刺されたかさえ分からないのだから、今は物理的に極力汚れを取り除くしかない。
「目をつぶっててもいいぞ」
自分は傷から目を逸らさずに声をかける。
男たちのうち何人かは、今度は素直に助言に従ったみたいだ。しかし俺の目の前のグレリーは、フードの下で顔色一つ変えずに与えられた仕事を淡々とこなしている。図太いとは思っていたけれども、それ以上に肝が据わってるな。
「そろそろ水が無くなります」
「分かった、じゃあ傷を洗うのは終わりにしよう」
グレリーに下がってもらい、簡単に濡れた傷口の周りを清潔なガーゼで拭く。
そして丸く穴の開いた緑色の清潔シートをイドルドさんのお腹の上に被せ、全員にシートに触れないよう注意してから縫合セットをシートの上に広げた。ちょうど穴から傷口だけが見えるような状態になっている。ここまで来れば後は消化試合だ。
傷口の中、脂肪の層を、自然に体に吸収される吸収糸で1針ずつ、2回縫い合わせる。イドルドさんは肥満体のため傷口が開きやすいことを考え、太めの糸を使い結び目を2重にして強く締めた。
そして皮膚の縫合。こちらは抜糸の必要な吸収されないナイロンの糸で2針。
さらに中に溜まった膿や余分な体液を取り除くため、解いたガーゼの端をちょっとだけ傷の中に差し込む。こうしておくと、ガーゼを伝って不要なものが外に出ていくのだ。
最後に新しい大きめのガーゼを傷の上にあてがい、医療用テープで固定。
「よし、これで終了っと。皆ありがとう、もう大丈夫だ」
本来なら破傷風の予防接種もしておきたいが、残念ながらあれは冷蔵庫保管なので持ってきていない。
とはいえあとは安静にして傷がくっつくのを待つだけだ。イドルドさんも暴れたりしなかったし、意外とすんなり終わったな。
しかし周りの反応が薄い。見ると、全員体の力が抜けたようになって、床にくずおれている。見ているだけでも緊張感で憔悴してしまった、ということだろうか。
「あれ、どうしたんだ?」
「何と言いますか……正直何をやっていたのかよく分からないので、凄いとしか表現のしようが無いですねぇ」
グレリーがぽつりぽつりと答える。口が渇いているのか、いつもより唇の滑りが悪い。
「ん~、別に傷口を洗って縫い合わせただけだぞ」
「確かに見ただけではそうですが、その行動一つ一つに背景となる知識があるかと思うと……」
それを感じ取れただけでも、この世界じゃお前は充分規格外だよ。本当にこいつ、何物なんだろうか。
「さてと、どうやらひと段落がついたみたいなので、僕はそろそろ失礼しますかね」
よろめきながらグレリーが立ち上がった。
「おい、大丈夫か?帰るにしてももう少し休んでからの方が……」
「そうもいきません。こうしている間にも下手人が逃亡を企てているかもしれませんから」
空のボトルを俺に渡し、着衣を整える。とはいえ隙間から見える白い肌は、やはり血の気が引いているようだ。
「もうすぐ警邏隊駆けつけてくるでしょうが、実はこの街には少しツテがありまして、それを使って独自に犯人を追いたいと思います」
「ツテ、ね。それはお前が本名を明かせないことと何か関係があるのか?」
「そう捉えていただいて結構ですが、これは僕なりの正義感、ということにしといていただけますか?なに、悪いようにはしません」
何らかの事情持ちということは理解していたが、怪しいことこの上ない。しかしそれを有効利用してくれるというのなら、断る理由は無い。
俺もイドルドさんを傷つけた奴を放っておいていいとは思わない。が、
「このままずっとさよなら、なんてことにはならないよな」
「勿論です。僕もあなたのことをもっと知りたいですからね」
はは、悪い気はしないけど、できればそういう台詞は女の子に言われたい。
「それではまた会いましょう、オオクニスクナ」
「ああ、またな、グレリー。今日はありがとう」
グレリーはマントの裾を翻し、こちらに背を向けて手を振りながら、ブーツの音を石畳に響かせて夜の街に消えていった。
その後ろ姿が見えなくなり、しばらく経ってからはたと気が付く。
……やべ、さっき借りたナイフ返し忘れた。