低血糖で別世界?
『先生、点滴の流速指示忘れず出して下さい』
『先生、次回受診日までの退院時処方が足りていません』
『先生、研修医の先生のカルテチェックお願いします』
『先生、入院患者は前回|多剤耐性緑膿菌(MDRP)の検出歴があるので個室の確保にしばらく……』
「はいはいはいはいは~い!!」
『大国先生っ、はい、は一回で――――』
勝手に動いた親指君が通話終了ボタンを押していた。
「やべっ、今の病棟師長だった!!」
我に返り慌ててPHSの受話口を耳に押し当てるが、聞こえてきたのは通話の終了を知らせるツーツーという電子音のみ。思わず出た溜息と共に、ぐったりと肩を落とす。
前世では屋根裏部屋の没落公女をいびり倒していんじゃないか、と噂されている気難しい救急病棟師長のこと。今頃額に青筋立てて周囲の関係ない看護師や初期研修医たちに、ガミガミ八つ当たりの雷を落としているかもしれない。
まぁさっきのは俺が悪いんだし、ちょっと冷却時間を置いてから直接病棟に謝りに行くか。
PHSを胸ポケットに仕舞うと、背筋を伸ばして首をこきり、とこり解した。
「……」
リノリウムの廊下を挟んだ反対側で、見舞客らしい親子連れが豆鉄砲を喰らった鳩のように目を丸くしてこちらを見つめているのと目が合う。
首を曲げた姿勢のままで、とりあえず小学校中学年くらいの息子の方に手を振ってみると、あからさまに目を逸らされ、そのまま親子はそそくさと来訪者駐車場の方に消えて行った。
え、ひどくない?
ぐ~
そう思ったところでいいかげんお預けに我慢できなくなったのか、胃袋が食料を要求して大声を上げ始めた。
そういえば昨日の夜からまともに食事を取っていない。忙しさにかまけているとついつい食べ忘れてしまい、そのままずるずると断食モードに移行することは、医療現場ではよく見かける風景。だが、今日は違う。
手首にぶら下げた白いコンビニ袋からは、美味しそうな香りが漂ってくる。塩水で焚き上げた白米のほんのり甘い香りと、パリパリした海苔が放つ磯の香り。業務の隙をついてコソコソ院内の売店で買ってきたものだ。
哭いてくれるな腹の虫、もうすぐ黙らせてやるかんな。
腹を撫でて胃袋を宥めると、運んでいる途中だった蘇生器具と薬品の入った赤い金属製の救急カートを押して自分の所属する救急部へと帰途を急いだ。
並んだ窓からオレンジ色の夕陽が差し込む大学病院診療棟の一階廊下を進んでいく。
ごろごろと転がるカートのタイヤの響き。そこにぺたん、ぺたんと980円で買った安物のゴムサンダルが廊下にぶつかりパーカッションを加えた。
ちら、と外を見ると、コンクリートの高層ビル群がガラスで光を反射してキラキラと眩しく輝いていた。あれを集めたらサンマめっちゃ焼けそう、などとどうでもいい考えが浮かぶが、また腹の虫が目覚めそうになったので慌てて振り払う。
道中すれ違うのは白衣を着た医者や看護師よりも、終業時間を迎えた医務科や資材部、薬剤部など制服姿の人が多い。この時間、各科の医者は夕方のカンファレンスの準備に、看護師は準夜帯への引き継ぎ業務で忙しいから当然か。
かくいう俺もカンファレンス前にちょっと時間ができただけで、働き詰めという意味では変わらない。
そもそも昨夜は遅くなったので下宿に帰るのを諦め、病院地下にある新兵訓練施設みたいな宿直室で眠っていたところを明け方早くに「先生っ、交通事故で入院した患者さんが血ぃ吐きました!!」という深夜勤ナースからの悲鳴で叩き起こされ緊急胃カメラへ。その後寝ることもできずに朝の回診、検査と点滴、薬の指示出し。途中救急隊から『県外の方なんですけど、鼻血で搬入いいっすか?』と楽しい電話がかかってきたのをと心の中で突っ込みながら乾いた笑いで受け流し。肺炎で運ばれてきた患者を、呼吸器内科の当番医に「うち満床だからしばらくそっちで見てちょ」 と拒否られ、これも円滑な病院運営のためだからギギギ、と苦虫を噛み潰しながら緊急入院の手続きをしたり。
今もたまたま通りすがりの外来ナースから救急カートの片づけを頼まれたのを、救急外来に戻るついでに押しているわけで。図体ばかりでかい割に、この大学病院は人手が足りなさすぎる。そのくせ給料は研修してた市中病院の半額だし。
……むぅ、腹が減ると無駄にイラついていかん。さっさと糖質を補給して脳味噌に砂糖を補給してやらなければ。よし、もうあと一つ角を曲がれば救急部……
ピリリリリ ピリリリリ
「うわ、フラグ回収早っ!!」
さっき仕舞った胸ポケットのPHSが、バイブレーションと共に古臭い電子音でさっさと取れ、と言わんばかりにがなり立てる。
病棟師長か看護師か、はたまた医局か研修医。でなければ救急の患者搬入要請とか……。頭の中を様々な可能性が駆け巡るが、何にしても俺のささやかな朝昼兼用ディナータイムが延期になることは間違いない。
人呼んで『ホラー映画の脱出直前やったわ私たち助かったのねグワーキャー』現象。
空気を読まない発信者にやや辟易しながらも、通行人の邪魔にならないよう救急カートをごろごろと廊下の脇に寄せて停車した。
受話ボタンを押す前に、ポケットから取り出したPHSの白黒ディスプレイのナンバーを確認する。
発信者は『非通知』。
「……誰?」
一瞬首をひねった。病院関係者のPHSなら番号が必ず表示されるはずだし、外線でかかってきた電話も一度は大学病院の電話交換を通すから、非通知はありえない。つまり発信者はこのPHSの外線番号を知っている人物ということになるが……。
「PHSの番号教えた奴、いたっけ?」
病院がらみなら内線だし、友人家族は携帯にかけるはず。となれば発信者は前の使用者の知り合いか、不正に番号を手に入れた謎のマンション業者かもしれない。
ならさっさと終わらせよう。いいかげんすきっ腹をだまし続けるのも限界だ。
耳にPHSを押し当てながら受話ボタンを押す。
「もしもし?」
呼びかけてしばらく応答を待ってみる。
……が、相手は何も話そうとしない。それどころか受話口のスピーカーからは、何も聞こえてこない。
「もしもしもしもしっ?」
いたずら電話か? そう思うと別の意味で腹の虫が騒ぎ出した。少し苛立ちながらもう一度通話口に呼びかけ、息を殺してスピーカーの音声に耳を澄ます。
……やはり何の音もしない。
諦めて通話終了ボタンを押そうとした時、ざわっ、という何かが動いた音が鼓膜をなぞった。
「!?」
さらに神経を聴覚に集中する。
聞こえる……これは、風の音。正確には通り過ぎる風が木々の枝を揺らし、葉を打ち震わせる音だ。その一つ一つの輪郭が、俺の中でくっきりと浮かび上がってくる。
木立を抜ける風、さざめく葉。
遠くから響く名前も知らない鳥の甲高い鳴き声、鈴を転がすような虫たちの合唱。
「ってあれ、虫の声って確か電話だと……」
--――ちゃぽん
すぐ傍で水音がした。
意識がPHSから現実に引き戻される。途端に梅雨時の空気を何倍かに濃縮したようなむわっとした湿気を含む、濃厚な緑の匂いが鼻に飛び込んできた。
「え――――」
驚き、思わずたたらを踏んで後ずさる。ちゃぱちゃぱっ、と足元で水音が跳ねた。
「うをっ!?」
見ると薄いサンダルの靴底を乗り越えて、透明な水がくたびれた手術室用靴下に襲い掛かろうとしていた。慌てて足をどけようとするが、いつの間にか辺りは湿地帯のように一面水浸しになっている。
右足を上げれば左が沈み、左を上げれば右が濡れる。
ひょいひょい、あわあわと社交ダンスの練習をする蛙のように不格好なステップで黄色い花を咲かせたエメラルド色の水草を踏み、やっとのことで丈の高い草が倒れ重なり合って出来た浮島のようなところに辿り着いた。
急いで両の靴下を脱いで絞る。既にたっぷりと液体を吸い込んだ靴下からは、ゆるんだ蛇口をひねったときみたいにたぱたぱと勢いよく水が垂れ落ちた。
「やっべ、カンファまでに乾くかな、これ」
あの暗く狭いカンファレンスルームで教授から准教助教、上司同僚研修医と皆がひしめく中、俺の足が原因で異臭騒ぎなぞ起こしたくはない。
限界まで絞った靴下をぱんぱんっ、と勢いよく振って残った水気を払う。幸い陽射しが強いので、絶好の洗濯物日和。しばらく干していればじきに……じゃないっ!!
思わず自分にツッコミを入れる。
水!? 院内のどこからそんなもん湧いて来たっ!!
陽射し!? さっきまで外は夕方だったぞっ!!
「何が起きたよ……」
不意に一陣の風が吹き、さっと頬を撫でる。どうしてか俺にはその風が、先ほどPHSの向こうで吹いていた風と同じものだということが分かった。
周りを見渡してみると、そこは裏磐梯の五色沼みたいな緑に囲まれた浅い沼地だった。沼を取り囲むのは、ありえないくらいに背の高い巨大な木性シダの森。その重なり合った葉の隙間から、これまた巨大なゼンマイだかワラビだかの芽が突き出している。
視線を上に向けるとちょうど森が途切れており、ぴーかんに晴れ渡った青い空には眩しいばかりにさんさんと輝く真っ白な太陽が。
……夏だ。これは真夏の日差しだ。
待て、落ち着け俺。まず現状を確認せねば。
名前は大国健那。28歳男。救急部の後期研修医。2浪でやっとこさ入った医学部を卒業し、市中病院で2年間の初期研修を終え、この春希望していた大学病院の救急部に配属。めでたく専門科としての第一歩を踏み出したところだ。
よし、自分のことは大丈夫。|日本昏睡スケール(JCS)は0、|グラスゴー昏睡スケール(GCS)もE4V5 M6の満点だ。意識清明、健康優良児は伊達じゃない。
でも、ここはどこだか分からん。
そもそも時間にしてもそうだ。頭上の太陽は中天から光の矢を俺のつむじに向けてさんさんと放ち続けているわけで。もし今が正午頃なのだとすると、あれから24時間近く経っているのか、それとも時間が戻っているのか……今は亡き超音速旅客機に乗って、日付変更線を越えない限り無理だ。大体俺はついさっきまで病院に居て、でもって電話に出ただけだぞ。
頭が混乱して、もう何がなんやら。
と、急に何かが首筋を、産毛のようなものがさわさわと触れた。
「ぎゅわっっ!!」
思わず悲鳴を上げ、その場から斜め後ろに飛びずさる。
だが、飛んだ先も安全では無かった。ちょうど俺の顔の高さに緑色の球体が浮いていたため、そこにヘッドバットを喰らわせてしまった。
瞬間、猫と間違えてアメフラシの腹をもふってしまったような、何とも言えないぬっちょりわさわさした感触が頬に伝わって来る。
必死でそれを払い除けると、球体は明後日の方向に飛んで行った。盛大に水しぶきが上がる。どうやら沼にゴールインしたらしい。
俺は白衣の裾で顔を拭いながら、最初に首筋に触れた何か、の正体を確かめようとする。それは先ほどと同じ場所でくるくると回っているだけで、特にこちらに近付いて来ようとはしない。
空に浮かぶバスケットボール大の緑色の球体。
その表面には一層の鞭毛を伴った細胞が敷き詰められ、間をゼラチン質が満たし、透明な球体壁面を形成している。鞭毛の動きにより絶えずくるくると回転する球体の中には、同じような形をした小さめの緑色の球体が十個ほど浮かんでいた。
「これは……ボルボックス?」
思い当たったのは、中学高校の生物教科書でお馴染みの群体生物。水中に棲む緑藻の仲間で本来は味塩の粒より小さいし、もちろん空は飛ばない。飛ぶわけが無い。
「ドッキリなら引っ掛からないぞ!!」
大声を出して威嚇してみる。
しかし、しばらく待ってみても応える者はいなかった。
そうしている間にも俺のいる草の浮島の周りを取り囲むようにして、沼から上がって来たボルボックスたちがマイペースにくるくる回りながらその数を増やしていく。10匹から先は数えるのが面倒になるくらいの数だ。
しばらく距離を取ったまま彼らを観察してみたが、どう考えてもこいつら、ボルボックスとしか表現のしようが無い。
試しに近くにいた一番大きい奴を指で突っついてみる。
むにゅり、とゼリー質の中に指がめり込んだ。そのまま穴をこじ開けると、中からキャベツっぽい生臭い野菜の匂いのする透明な液体と一緒に、子供である娘群体が零れ出てきた。
指を引っこ抜くと穴は自動的に塞がり、ボルボックスも何もなかったように浮かんでいる。先ほど出てきた娘群体は、空気に触れるとつるっとした表面が鞭毛に覆われたものに切り替わり、回転しながら母群体の横に浮かび上がった。
まぁ生物的には正しいか。そして正しいのに、あまりにも奇怪な光景が俺の眼の前で繰り広げられていた。
突然、ボルボックス達の回転が止まった。彼らは止まったまま何かを待つように、空中でホバリングを続ける。つか浮遊能力と回転には何の関係も無かったんかい!!
二、三分ほど待っただろうか。
風が、来た。
木性シダの木立を駆け抜け、沼の水面を渡る風。それはボルボックス達を巻き込み、勢いよく空高くに舞い上げた。
なるほど、彼らはこうして風に乗り、水場を探して旅をしていくのか。
「……とりあえず、今のうちに飯食っとこ」
手に下げたコンビニ袋からツナマヨおにぎりを取り出した俺は、そのシールをぺりっと剥した。