そして二人は海を渡る
考えるよりも先に、脊髄反射で体が動いていた。
鉈を構えて立つナルカと、鎌首を擡げるアニサキス。
直後にアキレス腱が弾けても、足が折れても構わない。今は、一瞬、一秒でも速くナルカの下へ!!
その衝撃でぶら下げていた鉄板がちぎれて飛んで行った。その音も聞こえなくなるくらい、今は脳に行く酸素もブドウ糖も惜しい。全身全霊を足の運動にのみ集中する。
ほんの10メートル程度の距離が異様に遠く感じられた。視界の変化がスローモーションのようになり、さらにコマ送りのような途切れ途切れに変わる。
後ろで何かが大きく動き、風がうなじを撫でる。だが、それを確認する余裕は無い。
身をかがめ、ただ前に進むだけの質量の塊と化す。
静止画の連続で移り変わる世界の最後の一枚が、ナルカの顔に切り替わった。
減速する必要は無い。俺はトップスピードを維持したまま、全力のタックルをぶちかます。
ぞるるっっ
ナルカの軽くて華奢な体にぶつかった瞬間、腕を伸ばして、彼女の細い腰を力いっぱい抱きしめる。そのまま二人が一つの塊になって地面を転がるのとほぼ同時に、俺の背中からナルカの頭があった位置を、白くて太いアニサキスの胴体が通り抜けた。
「……っっ、くひゅっ、はぁ……はぁ……ナルカ……無……事かっっ……!!」
少しずつ肺に空気を補給しながら、途切れ途切れナルカに呼びかける。
返事が無い。碧い肌がさらに青白くなったまま、ナルカは俺の腕の中でぐったりしていた。それでも鉈をしっかり握って離さないのは流石。とっさに手で守ったつもりだったが、頭をぶつけたのかもしれない。落ち着いて診察してやりたいところだが、今は無理だ。
顔を向け、敵の様子を伺う。
獲物を逃したアニサキスは、伸ばした上体をゆっくりと旋回させている。すぐに第二撃が来てもおかしくない。
迷っている暇は無い
まだ意識の戻らないナルカを小脇に抱えて立ち上がる。その拍子に彼女の羽織っている白衣の裾が、はらりと垂れ下がった。
……奴が何故白色を狙うのかは分からない。
仲間を探しているのだろうか?まさか交配相手を求めているわけでもあるまいに。
ただ分かっていることは白を着ている限り、奴の標的になってしまうということ。
脱がせている時間は無い。
ならば……。
「全員聞けぇっっ!!」
誰かに向かってではなく、皆に届くよう声の限りに夜空へ叫ぶ。
「これで最後だっっ!!こいつを川に追い落とせっっっっ!!」
言い放ち、ナルカを抱えたまま森に向かって走る。正確には森の茂みに隠してある仕掛けに向かって。
地面を蹴る振動で、ナルカの着る白衣の裾がぱたぱたとはためく。
それに反応したのかアニサキスが旋回運動を止め、再び鼻先をナルカに向けた。
奴が来る。だがその前に、俺は仕掛けのある場所に辿り着く。
森の奥から伸びる一本の蔦のロープ。木の幹に括り付けられ、びんと張りつめたそれには、4段程度の短い縄梯子が別に結び付けられていた。
これが逃走用の切り札。使う前に決着を付けたかったが、こうなっては仕方がない。
梯子に足を固定し、ナルカの体をしっかりと強く抱きしめる。
頭上を見ると、アニサキスは再度の攻撃態勢に入っていた。一刻の猶予も無い。
自分の手術着の尻ポケットをまさぐり、中から小さな石の欠片を取り出す。村人たちが毛皮の加工に使う、黒曜石のナイフ欠片だ。石鏃サイズだが、ロープを切るには充分。
ナルカを抱くのとは反対の手で梯子を掴み、親指と人差し指で石を鋏んでロープに刃を立てて挽くと、繊維がプチプチ切れる振動が伝わってきた。もう少し……。
と、急に切れ目が広がり、ロープに蓄えられた張力が一気に解放された。
再びアニサキスが襲い掛かるが、既にその場に俺はいない。
ロープは俺とナルカを天空へと引き上げる。
すぐに星々と、いつの間にか雲から現れた月が目の前に迫ってきた。
川縁に見つけた竹っぽい植物をしならせて、弓のように跳ね上がる仕組み。数十本の竹に結びつけたロープで一本の綱を引くため、予想以上に力が強い。
後ろを見ると、攻撃を外したアニサキスが体勢を立て直し、今度は尺取虫の要領で森の木々をかき分けて追ってくる。何でもありかよ……。
迫るアニサキス。だが俺たちの方が飛んでく方が早い。しかも奴は、撃ち込まれた杭の穴から体液を流し続けている。返し(・・)を付けていたにも関わらず何本かは抜けてしまったが、その際肉を引き裂いて傷を一層広げてくれた。一尺体を動かす度に、鯨の潮のように黄緑の血が吹き上がっている。
しかも杭の先には沼の木が結び付けられたまま。残ったそれを引きずりながらの移動速度は、本来のスピードとは比べ物にならないほど鈍重だ。
さらに後ろからはぱらぱらと、村人たちが炎や風、氷で攻撃を仕掛ける。
一度傾いた天秤は戻らない。
だというのに、全身傷だらけで魔法攻撃を受けながら、死体同然の姿でナルカの白を追ってくるアニサキスには、さながら幽鬼のような不気味な凄絶さがある。
そうだ、ついて来な……そこがお前の墓場になる。
まあ墓場っても、具体的には天然水洗便所だけどな。
汲取り式が棲家の寄生虫種風情には贅沢な最期だろ!!
やがて縄梯子が引かれる力が弱くなり、俺たちを追うアニサキスの速度はさらに鈍る。
夜間飛行も終点が近い。
と、着地をどうするのか失念していた。
本来この仕掛けは風魔法使いの誰かが使うことを想定したものだ。白い布を持って飛んでもらい、アニサキスを滝へと続く川へと誘導する。
あの高さの崖から落ちれば、いかな怪物といえどひとたまりもない。万一生き残れたとしても、恐竜ランドのスタッフに美味しく頂いてもらえるだろう。
村人なら羽を広げて滑空できるので問題ないが、俺には無理なわけで。仕方ない、胴体着陸を覚悟するか。
高度が下がり、木々の頭が足元に迫ってきた。森がまだ続くことを確かめ、覚悟を決めて縄梯子から手を離す。同時に身体を小さく丸めて、ナルカを抱き込む。
上方向の力を失った体は物理法則に従って自由落下を始め、数秒で地面に到達する。途中で木の枝や葉っぱを巻き込んだことで、多少は衝撃が和らいだ。特に落下地点にはタコの木っぽい熱帯樹木が根っこを広げていたため、それがクッションになってくれたようだった。
「ぐあつっ、てて」
全身が痛い。主に尻と背中が。今採血されたら、結果がえらいことになってそうだ。身体の筋を伸ばして、身体の状態を確認する。どうやら骨は折れていないみたいだ。アバラにヒビくらいは入っているかと思ったのだが、カルシウム不足ではなかったらしい。
「そうだ、ナルカは……」
腕の中にいたはずの彼女の姿を探す。落下の衝撃で投げ出されたのだろうか。
「スクナ、動かないで。」
声と同時に、背後から頸元に冷たいものが押し当てられた。
「……ナルカ、止めるんだ。こんなことをしても意味は無い」
「意味なんて知らない。スクナは嘘をついた。村の皆も。」
「それは……」
弁明しようとするが、それこそ意味のない問答と押し黙る。
「姉様はあの化け物に殺された。スクナもそれを知っていた。……私だけが知らなかった。」
俺の首筋に鉈を突き付けながら、ナルカは続ける。
「家に来た時、ギプワが全部喋ってくれた。お祭りの秘密も、今夜の化け物退治も、白が目印になることも。」
傷だらけで帰ってきた時は苦労を掛けたと思ったけど、あんガキャ、後で張っ倒す。
「分かった。それで、お前は一体何をしたいんだ?何もしなくても、あの化け物はもうすぐ死ぬ。あいつの姿、ナルカも見ただろう。」
「でもっ!!」
「デュナさんの仇は討った。もうお前が危険を犯す必要は無いんだ。だから……」
優しく諭す。遠くから地響きを伴って、巨大な何かが這いずる音が聞こえる。奴が近付いて来た。俺たちも早く逃げなければならない。
無言の時間が続く。しばらくして、頸に押し当てられた刃が緩むのが分かった。
ナルカ、分かってくれたか。
振り向くと、ナルカは呆けた顔で空を見上げていた。
何が起きた?
「スクナ、あれは……」
彼女の指差す方に視線を向ける。
木立の隙間から、こちらに迫る傷だらけのアニサキスが見えた。村人の追撃と杭の傷で、奴の全身はズタボロになっている。後は自然に死ぬのを待つか、このまま逃げて川まで誘導すればお終い。そのはずだ。
と、その時、俺もナルカの指摘する異変に気が付いた。
いつの間にかアニサキスの顔面あたりに大きく縦に裂けた傷があり、それが奴の前進に合わせてどんどん広がっていく。まるで体が割れるように。
ああ、俺はやっぱりファンタジーを舐めていた。
一度は傾いた天秤が今、目の前で軋みを上げてひっくり返される。
ぱっくりと開いた傷口からのぞく見覚えのある白い肌が、月光を反射する。
……この期に及んであの野郎……脱皮するつもりだ!!
ずるりっ
傷ついた外皮の中から、二回りほど小さいアニサキスが姿を現した。ぬめりを帯びたその表面には、今は傷一つ無い。纏っていた皮がロープに引き摺られ、どう、と地に崩れ落ちた。
後ろから歓声が上がる。村人たちが、アニサキスを倒したと勘違いしたのだろう。
だが、奴は今、ここにいる。
奴が鼻先を巡らし、再度ナルカに標的を定める際、よく分からないが、一瞬奴と視線が交差したような気がした。
背中の毛が総立つ。
ヤバい。
「ナルカっ、逃げるぞ!!」
脱皮を終えたアニサキスは、サイズ以外は前の姿とほとんど変わらない。小さくなったとはいえ、まだ小型のバスくらいの大きさはある。あれに勝てると慢心できるほど、俺は強くない。
くるりと背を向け、まだ呆然とするナルカの手を掴んで走り出す。
「スクナ、何なんだあれは!?」
「脱皮したんだ。とにかく走れ!!」
川まで行けば何とかなる。流れを利用して逃げることもできるし、囮を立てて滝から落とすこともできる。さっき予定よりも手前で落下したせいでかなり距離があるが、全力で走れば何とかなるはずだ。
「いやだっ!!」
だがナルカは逃げることを拒否した。その場で足を踏ん張り、抵抗する。
「無茶言うな!!今は逃げて体勢を立て直して、それからどう戦うか考えればいいんだ」
「難しいこと言われても、わからない。私はこの手であいつを倒したい。それだけ。」
俺の手を振りほどき、踵を返して迫るアニサキスを睨みつける。
「スクナは先に行って、やるべきことをやって。私はここで戦う。」
「ナルカ……」
「敵わないかもしれない。でも姉様の仇を前にして逃げたら、私は私が許せない。」
彼女の決意は固い。
どうする?
ナルカを抱えて逃げても、全力で抵抗されると容易に追いつかれてしまうだろう。
……というか、そもそも川に逃げるというのは本当に正しい選択なのか?
俺がナルカを連れて飛んだ時点で作戦の前提は崩壊している。さらに先ほどの脱皮。奴があんな能力を隠し持っているなんて想定外だった。
こんな状況でなお相手が予想通りに動いてくれると期待するなど、思考停止もいいところだ。
俺の考えるベストが、現実でも常に最良解であるとは限らない。そんなことは、千変万化する人体を相手にしてきた自分が一番良く知っている。
『ナルカちゃんとずっと一緒にいて下さい……どんな時でも、ただ一緒にいてくれるだけで十分です。』
……いや、今更理屈はいらないか。
俺はデュナさんとの約束を守る。それだけでいい。
ナルカがここで戦うことを決めたのならば、俺もここで立ち向かう。
一度ふり払われた手を、もう一度握る。
……震えている、彼女も。
その震えを押さえつけられるくらい、強く握りしめる。
「俺がやるべきことは、お前と一緒にいることだ。」
「スクナ……」
「ここであいつを倒す。それで全部お終いだ。」
お終いにしなければならない。こんな不愉快な物語は。
小さくなったアニサキスは、もう50mほどしか離れていない。
「ナルカは、魔法は使えるのか?」
「ん、雷の魔法なら。」
鉈を持つ手に電撃を走らせて見せる。彼女の肌より青白い稲妻が空中を走った。
そういえば村人たちに雷を使う者はいなかった。てっきり彼女も風火水の3属性の一つだと思っていたが、一族でも大陸から来た者だけが使える魔法なのだろうか。詮索は後回しで。
「ならいい、充分だ。白衣と鉈を俺に渡してくれないか。」
「どうして?」
「俺が囮になって、どうにか一撃を入れる。そうしたら鉈に、思いっきり雷を落としてくれ。それが止めになる」
ナルカは一瞬躊躇したが、自分が止めを刺せることに納得して、白衣と鉈を渡し徒手空拳になった。
俺は白衣を右腕に巻き付け、その手に鉈を握り、数回素振りをして感覚を馴染ませる。見た目よりも重い。全力で叩きつければ、ある程度のダメージは期待できそうだ。
「それと、もしもの話だ。もしあいつがナルカの方に来たら、とにかく一発目を避けることに専念してくれ。後は俺が何とかする。」
「?あいつは白を追いかけるはず。」
「なら、それはそれでいいさ」
不思議そうな顔をしながらもナルカは頷いた。
「よし、じゃあ左右に分かれて待つぞ。」
もうすぐそこにアニサキスは迫っている。俺たちは別々に太い木を選び、それを背にして相対した。奴のスピードがどんどん速くなる。
さあ、どっちに来る?
攻撃の前兆を掴むべく、全身の神経を集中させる。
奴の視線は値踏みするかのように、俺たち二人を見比べる。本当に「白」だけをターゲットにしているのであれば、俺の方に来るはず。だが、
「避けろっっっ!!」
俺が叫ぶのと同時に、アニサキスは一本の矢になってナルカに襲い掛かった。
懸念した通りナルカが標的になってしまった。先ほど脱皮した直後、奴が白衣でなくナルカを見たような気がしたのは、間違っていなかったようだ。考えてみればデュナさんの時も、最初に攻撃されのは白い衣装ではなく、顔だった。
声をかけられて一瞬早く動いたことが功を奏し、ナルカは間一髪アニサキスの突進を回避する。
空振りしたアニサキスの攻撃は、背後の大木の幹を貫いたところで一旦止まった。
チャンス!!
「うぉおおおりゃああぁぁぁっっ!!!」
数歩走った後、一足一刀の間合いから両手で大上段に構えた鉈を、全体重とジャンプの位置エネルギーを乗せて、渾身の力で奴の首筋に叩き込んだ。
奴の身体は脱皮して小さくなったといっても、まだ電柱位の太さがある。ゴムタイヤを叩いたような分厚い弾力が手に伝わって来た。やはり硬い。が、表皮に少しはめり込んだらしく、刃の横から黄緑色の体液が噴き出した。
致命傷ではない。
そうだろうとも。
だけどっ、
「ナルカぁぁぁっっっ!!」
回避行動から体勢を立て直したナルカが、俺の手の上から鉈を両手で掴む。
「うわぁぁぁぁっっっっ!!」
俺に負けないくらい大きな雄叫びを上げながら、彼女にできる限りの電撃がぶちかまされた。紫電が迸り、鉈からアニサキスへと駆け抜ける。
「ぐぁくっ……!!」
当然俺にも電気が流れる。ここで病棟から履いて来た偽ク○ックスが役に立った。ゴム製のサンダルは電気を通さず、俺の足がアースになって電流が失われることを防いでくれる。それでも筋肉がてんでばらばらに収縮し、立っているのがやっとだ。視神経も勝手に発火して、視界に火花が乱れ飛ぶ隅田川状態。
「スクナっっ!!」
「構うなっ、全力でやれっっ!!」
躊躇しそうになるナルカの背を押す。
「よくもよくもよくも、姉様を殺したなっっ!!喰ってくれたなぁぁぁぁっっっっ!!」
憤怒と憎悪と悲嘆の感情が綯交ぜになり、最大級の雷撃が放たれた。余波が放散して空気を帯電させ、辺りに塩素系洗剤を思わせるオゾン臭が立ち込める。
鉈の刃は赤熱し、アニサキスに食い込ませた傷口は焼けただれ、じゅうじゅうと蒸気が立ち昇る。
ただの電撃なら電気が奴の湿った体表を伝って逃げてしまう。
なら、電熱ならどうだ。
ほとんど麻痺した両腕に体重をかける。沸騰した傷口はやがて水分を失い炭化し、それに伴い少しずつ刃がアニサキスの身体に沈んでいく感覚が伝わって来た。
アニサキスも電撃から逃れようともがく。が、そこは電気信号を運動制御に使う生物の悲しいところ。俺と同じようにうまく体を動かすことができず、痙攣するように尻尾をぴくぴく動かすのがやっとだ。対してこちらは倒れ掛かるだけでいい。
電熱により不気味に紅く輝く鉈は、容赦なくアニサキスの体を1mm、また1mmと斬り進む。
一秒が長く感じる。
自分の魔法に耐性のあるナルカはともかく、俺の体も限界に近い。
足元がぬかるんできた。
泥や汗ではない。あまりの電圧の高さに、とうとうゴム製のサンダルが溶け始めたのだ。
「どぉりゃあああぁぁぁっっ!!」
「やぁぁっっ!!」
もう一度鉈を振り上げる。そして残ったすべての力を使い、ナルカと一緒にアニサキスの傷口に叩きつけた。
ごろん
その一撃で既に半分以上が炭化していたアニサキスの首は、椿の花弁のようにあっさりと捥げ落ち、俺たちの足元に転がった。
残された胴体は断面から湯気を上げながら地面に倒れ、しばらく頭を探すみたいに蠢いた後、完全に動きを止める。
と、同時にアニサキスの死体が光り始めた。光はどんどん強くなり、森の一角だけが真昼のように明るくなる。そして突然、光が虹色の輝きに変わった。虹の光は空に昇っていき、やがて夜の色に溶けるようにして消え去った。そこにあったはずのアニサキスの死体も、いつの間にか消え去っている。
あれだけのことをした奴が最期の瞬間だけファンタジーとは、ふざけた世界だ。それにしても、
「ざま……みやがれ……」
それだけ呟いて、俺も体を重力に委ねてくずおれる。とっくの昔に限界を超えていて、気力だけで立っていたらしい。
ああ、平たい地面が気持ちいい。
眼球だけ動かしてナルカの様子を確かめると、彼女も全身全霊を使い果たしたらしく、同じように横たわり、肩で軽い息をしている。
地面を這い、少しでも距離を詰める。
近づいてみて判った。ナルカは、声を上げずに泣いていた。大粒の涙がその碧い肌をつたって大地に落ちる。1粒、また一粒と雫がこぼれ、やがて小さな池が生まれる。
体に残った力をかき集め、何とか片手だけ動かす。
ナルカの肩にぽん、と手を置くと、彼女はその手に全身でしがみついてきた。
頬に押し当てられた掌に、涙の熱さが伝わってくる。
泣き止むまで一緒にいてあげよう。今度こそ、ずっと。
「おーい、大丈夫か?」
アニサキスの消えた空から、俺たちを呼ぶ声と、いくつもの羽音が聞こえてきた。
バウンさんたち村人が、先ほどの光を見て集まってきたのだろう。
安心した途端、意識が朦朧としてきた。
今日はかなり無茶したからな……明日ちゃんと起きれるだろうか?
そんなことを考えながら、いきなりパタンと俺の世界に漆黒の帳が降ろされた。
夢は見なかった。
あの夜から俺は昏々と眠り続け、次に目が覚めた時には丸3日が過ぎていた。
その間に色々なことがあったらしい。
宿敵を討ち倒した村は、住民総出で昼も夜も無く2日間どんちゃん騒ぎを続けたとか。
男衆だけの秘密とされていた祭りの正体は日の光の下にさらされ、女たちは自分の代わりに犠牲になった娘たちに心を痛めた。そして脅威が取り除かれたことに安堵し、英雄となった夫たちを褒め称えた。この調子だと、しばらく村のベビーブームは終わりそうにない。
ナルカも魔力の使い過ぎで昏倒していたが、目を覚ました後はずっと俺の世話をしてくれていたという。彼女曰く、
「スクナの靴を脱がすのが、一番大変だった」
何でもゴムが半分溶けており、さらにそれが火傷で溶けだした俺の足の皮膚と混ざり合ってくっついていたため、あの鉈で無理やり引っぺがしたらしい。
なんつ~恐ろしい光景!!火傷は見慣れているけれども、自分となると話は別。
意識が無くて本っ当に良かったと思えた瞬間だった。
それだけでなく、俺の全身は酷い状態だったらしい。指は炭化して何本かが引っ付き、身体の表面は焼けただれ、こちらも溶けた皮膚が服にくっついていたため、着ていた術衣ごと切り裂かれた。髪の毛はちりちりに焦げあがり、顔は皮膚がとろけたおかげで目も口もわからない、ほとんどのっぺらぼうになってしまっていたという。
いや、ナルカの電撃を直近で浴びた時点で死ぬかもしれないとは漠然と考えていたけれども、想像以上に酷いことになっていたんだな、としみじみ思う。
「ナルカ、おかわり」
「ん、食べすぎるのは良くない……でも、スクナが元気になって嬉しい」
寝床から半身を起こした状態で、ナルカが差し出す自分の腕サイズの茹で手羽先にかぶりつく。岩塩だけの味付けだが、それが淡白な鶏肉に合って美味い。良質の動物性蛋白質が、身体に、筋肉に沁み渡る。
受傷直後は悲惨な状態だったが、村の謎薬草やら治癒呪術みたいなのを受けた結果、体の状態は完全に元に戻っていた。
正確には3日間飲まず食わずだった結果、今猛烈な空腹感に襲われているのだけれども。
後遺症が残っていてもおかしくない傷だったのに、そんな気配は無く、むしろ以前より調子が良いくらいだ。理由は分からないが、とりあえずファンタジー万歳、ということにしておけばいいか。
そんなこんなで目を覚ました俺は、ナルカの家で体の回復を待ちながら、ひたすら食事を続けていた。
給仕をしてくれるナルカの表情は、出会った頃のような無表情に戻っていたが、実はまんざらでもない、というのが少し解かってきた。俺のナルカ検定も8級が5級くらいには進級したってことか。
「お邪魔するよ、ナルカ、スクナ」
いきなり竪穴式住居の入り口が開けられ、バウンさんとタパヌさんが入ってきた。
その背中から差し込むオレンジ色の光が目を突き刺す。そういえば太陽を拝んだのは3日ぶりだ。
二人は家の中に入ると、俺の枕元に座り込んだ。彼らの顔を見るのも3日ぶり。お見舞いに来てくれたのだろうと軽く思ったが、その割には二人の表情は厳しい。不審に思ったナルカが、給仕を止めて俺の横に身を寄せた。
「まずは礼を言う。スクナ、よくぞあの化け物を倒して村を救ってくれた」
深々と地面に付くまで頭を下げる。お辞儀の習慣は無いはずたが、俺に合わせてくれたのだろうか?
「頭を上げて下さい。俺はただ皆を焚きつけただけです。貴方たちの傷を抉ったりもした。それでも俺に賭けてくれた、貴方たちこそが英雄なんです」
お世辞でなくそう思う。
俺はデュナさんとの約束を守れず、どうにもならない自分勝手な感情をあのアニサキスにぶつけ、結果ナルカを危険に巻き込んだ。侮辱されてもなお、護るべき人のために立ち上がった彼らとは、高潔さの違いは歴然としている。
だが、彼らは面を上げようとしない。どうしたのだろう?
家の中に無言の時間が流れる。やがてバウンさんに代わってタパヌさんが口を開いた。
「スクナ、お前は強い。魔法は使えないが、知恵だけであの化け物を追い詰め、その身を犠牲に終には奴を打ち倒した。それは、常人にできることではない。だから……」
黙る。次の言葉を選んでいるようだった。
彼らの葛藤と、そこに混ざった感情が伝わってくる。
これは、本来人が人に向けるものではない。
『畏れ』
……ま、俺は元々よそ者なわけで、その戦力は熱狂が過ぎれば持て余すのは仕方がない。
潮の流れた時が、潮時というやつなんだろう。昔の人は上手く言ったものだ。
「分かりました。俺は村を出ていくので、船を用意してくれませんか?」
「……っっ!!」
大人二人は息を呑んだ。どうやら言い出せない用件とやらは図星だったらしい。が、
「スクナ、何を言ってる?」
驚いたナルカが俺の肩を揺さぶる。
「姉様の仇は討った。全部スクナが頑張ったおかげだ。なのに何で村を出る必要がある?」
その矛先は、やがて頭を地面に付けたままの二人に向く。
「ハゲ、お前たちはスクナを追い出すのか?一番戦ったのも、一番傷ついたのも、スクナなんだぞ!?それを……」
「いいんだよ、ナルカ。」
バウンさんに今にも掴みかからんばかりの彼女を窘める。
「どのみち俺は大陸にある王都の話を聞いて、いつかは島の外を見に行くつもりだった。それが少し早くなっただけなんだから」
「でも……」
まだ納得できていない様子だ。そんな彼女の手を取って引き寄せ、少し潤んだ金色の瞳を真正面から見つめる。
「だからナルカ、俺と一緒に来て欲しい。」
「スクナ、それって……」
「大陸を知っているナルカがいれば、俺も心強いんだ」
一瞬ナルカは何故か落胆したような表情になったが、すぐに気を取り直す。
「分かった。スクナが島を出るのなら、私も島を出る。」
そうバウンさんとタパヌさんに宣言した。
彼女を連れて行くことに迷いが無かったわけではないが、村に残しても累禍が及ぶ可能性を否定できない。
「ということで、俺たちは村を去ります。準備さえしてもらえれば、明日にでも」
「わかった。すまんな、スクナ」
やっと顔を上げた二人は、もう何も言わずに家から出ていく。
「ああそれと、村の人には俺たちが自分で出ていったことにして下さい。説明が面倒臭いんで。」
背中に呼びかける。
そして家の中には俺とナルカが残された。急に肩の力が抜ける。
「ふぅ、明日ってのは言い過ぎたかな?」
体の状態は万全に近いが、どこかふわふわした心持で、まだ心身の歯車が噛み合っていないような気がする。
「急に決めて悪かったな。今さらだけど、大丈夫か?ナルカは大陸生まれらしいけど、逃げて来たんだろ?」
「私は小さかったからよく覚えていない。だから上手く案内できるか自信は無い。でも……」
隣に腰掛け、身体を俺の上体に持たれかけさせる。今俺ほぼ裸なんで、あんまり密着するのはちょっと。
「姉様がいないこの村にいても、私は一人ぼっち。私の家族はスクナだけ」
「家族、ね。ありがとう。」
嬉しいこと言ってくれるじゃないの。
なお、ここで『お兄ちゃんって呼んでもいいよ』とか言うと色々台無しになるんだろうな。
「
そうだナルカ、スマホ……じゃなかった、俺の魔法の石版、取ってくれるか?」
「ん」
俺の荷物を指差す。医療道具は色々持って来たけど、結局使わなかったな。いや、使わないで済んだことを喜ぶべきか。一番治療を必要としたのは俺でした、というオチで良かった。
ちなみに村人との会議からずっと持ち歩いていたPHSは、ナルカの電撃を受けた際、いつの間にか胸ポケットでひっそり爆発炎上していたらしい。その時は気づかず、焼け焦げた術衣とPHSだったものの残骸を見せられて初めて知った。
むしろよく無事だったな、俺の左乳首。
ナルカからスマホを受け取り、久しぶりに電源を入れる。電池はギリギリ10%。急いで目的の画像を表示する。
「忘れてたけど、ちゃんと報告しておかないとな。」
「報告?」
スマホをナルカに向ける。
そこにはあの日、3人で撮影した写真が表示されていた。遺影としては小さすぎるけれども、贅沢は言えない。
画面の中でナルカの隣には、デュナさんが永遠に変わらない笑みを湛えている。
「俺の国の慣わし。自分に何か大きな変化があった時は、家族にちゃんと伝えるんだ。これこれこうなりました、って。」
食い入るように画面を見つめながら、無言で俺からスマホを受け取る。
「そうしたら、家族は自分のことをずっと見ていてくれる。ナルカ、お前の家族は俺だけじゃない。デュナさんも、ずっとお前の家族だ。」
それだけ言って、俺は布団代わりの毛皮の中に潜り込む
照れ臭かったのと、自分で喋りながらデュナさんのことを思い出して、少し目頭が熱くなったを悟られたくなかったからだ。
布団越しに、スマホの中の姉に話しかけるナルカの声が聞こえる。楽しかったこと、悲しかったこと、言えなかったこと……。まるで仲の良い姉妹が本当に会話しているようにも聞こえるそれを耳枕に、俺はいつしか眠りについていた。
「これがお前たちの船だ」
翌朝早くに連れてこられた外輪山の割れ目にある外海に小さな砂浜で、俺たちは自分の命を預けるべき乗り物を紹介された。
ええまあ、村が縄文文明レベルだったので大体想像はついていましたが、なんて見事に刳り貫かれた丸木舟!!これで翡翠を積んで糸魚川から青森に行けるよ、やったねタエちゃん。
一応当時は外洋航行もしていたらしいし、材料になっている木の種類は分からないが、太い丸太をしっかりと乾燥させた頑丈な作りになっている。叩くとこんこん、と身の引き締まった音が聞こえた。
「王都の港まで3日ほどだが、水と食料は5日分積み込んだ。」
船の隅には水を入れた土器製の壺がいくつかと、籠に山盛りになった果物、そしてバナナっぽい葉っぱの包みが積まれていた。おまけに釣竿と釣り針が一式。いざとなったら自給自足も可能だ。俺たちの少ない荷物は、既に船に積み込んである。
バウンさんが、船と同じ材質の木で作られた大きなオールを差し出す。受け取った拍子に少しよろめいてしまった。何この重くて硬くて大きな物体は。これ絶対1人用じゃないだろ。
「元気でね、ナルカ。スクナさんが一緒だから大丈夫だろうけど」
「ん、ジャナンも。強い子を産んでくれ」
「そうね、頑張るわ」
見送りに来てくれたのは、バウンさんとジャナンさん。それと最近何故か出番の増えたタパヌさんの3人だ。正確には俺たちが去る事情を知っている人たち。最初ジャナンさんは知らされていなかったのだが、不審に思ってバウンさんを問い詰め、真相を知ってわざわざ来てくれた。母になる女性は強い。
「スクナ、ナルカ。お前たちが化け物を倒し、村を救ってくれたことは、男たちは全員が知っている。」
タパヌさんが続ける。
「いつか、俺たちを含め、村の全員がお前たちのことを受け入れられる時が来る。それがいつになるかはわからないが、その時にはまた、ここに戻って来てくれないか?」
社交辞令だ。でも、この村の人たちならば、本当にそう思ってくれているのかもしれない。
「ありがたくお受けします。その時は、そう遠くないと信じます。」
「ああ。」
それだけ言って、仏頂面に戻る。何このツンデレ生物。もしかすると、この人は以前の戦いで自分の子供か孫を失いでもしたのだろうか?もしそうなら説明がつくけれども、まあ一々聞くのも詮のないことだ
「私も、いつか戻りたい。ここは、姉様と2人で暮らした思い出の場所だから。」
「ありがとう、ナルカ。」
ジャナンさんがナルカを抱きしめる。その瞳には涙が光っていた。対するナルカは、姉以外の抱擁にどぎまぎしているのが分かる。
「ところでお前たち、王都に渡ってどうするつもりだ?」
バウンさんが尋ねる。
「ん~まずはタパヌさんが話に出てきた、別の世界の話をする人、というのを探してみたいと思います。他に手がかりもありませんし。」
「それは構わないが、たまたま立ち寄った酒場で耳にした与太話だ。誰が言ったか、どこで聞いたかも今となってはわからん。」
噂の出どころであるタパヌさん自身が、一番懐疑的だ。
「でも時間が経っているのであれば、新しい情報があるかもしれません。とにかく行ってみないと始まりません。駄目だったら、その時考えます。」
なんという行き当たりばったり。けれどもそれ以上の手段が無いのも確か。この島は情報の輪が閉じている。外に出なければ何も掴めない。
「スクナさん、一つお聞きしてもよろしいですか?」
「はい?」
ジャナンさんは続ける。
「その、別の世界から来た人に会うことができたら、スクナさんはどうするんですか?」
言外に、ナルカを置いて去るのか、ということを聞いている。ナルカを見ると、俺がどう答えるかを、心配そうに見つめている。
「正直に言います。まだ決めていません。」
「それは……」
「誤解しないでください。ナルカを一人にして、どこかに消えるつもりはありません。」
俺の横でナルカが胸を撫で下ろす。
「俺は知りたいんです。なぜ自分がここにいるのか、ここで何をするべきなのか。そして元の世界に帰る手段があるのかどうかを」
逆に帰る手段が簡単に見つかれば、別に急ぐ必要はない。この世界でゆっくり過ごしてから帰る、というような余裕も出てくる。何もわからない今、俺の足元は非常に危うい。だからこそ少なくとも何か現状打破の糸口を掴むことで、この状況から脱したい、という思いがある。
「わかりました。スクナさん、王都で何があるか分かりませんが、ナルカちゃんをお願いします。きっと、一緒にいてあげて下さいね」
「はい、任せてください!!」
不安を与えないよう、元気よく答えた。
「じゃあ、そろそろ行こうか、ナルカ」
「ん」
声をかけるとナルカは、タパヌさん、バウンさん、ジャナンさんの順に抱き付いて別れを惜しむと、丸木舟に乗り込んだ。
「そうだ、忘れるところだった」
バウンさんが視線で合図すると、ジャナンさんが木の葉に包まれた何かを差し出した。受け取り、包みを開く。
「おおっ、俺も忘れてた!!」
それは、あの夜ナルカが着て現れた俺の白衣だった。俺が受け取って囮に使おうと思ったところまでは覚えているが、その後完全に脳味噌から飛んでいた。
ちなみに俺は今、村に残っていた布を使って作った自作貫頭衣を着ている。来るときに着ていた術衣は、俺とアニサキスの血と体液でぐじゃぐじゃになり、止めにナルカの雷撃で焦げてしまったため、泣く泣くゴミ捨て場に捨ててきた。パンツはどうしたかというと、焼け残ったものを洗って再利用しいている。さすがに褌は無理だった。
白衣を羽織る。患者と相対するときのように身が、心が引き締まる。
これも俺のアイデンティティを構成するパーツの一つ。俺が俺である証。
丁寧に洗ってくれたのか、白衣は朝の光に透かしてもシミ一つ見当たらない。
白衣を着た俺の姿を見てジャナンさんは満足したのか、夫の後ろに戻り俺たちに優しい視線を投げかけている。
「それじゃ、いってきます」
砂に乗り上げた状態の丸木舟を勢いよく押し出し、海に浮かんだところで自分も飛び乗る。そしてオールを手に、王都へ向かう航路へと漕ぎ出した。いや、思った以上に重いよこれ。
「ナルカ、手を振ってあげたらどうだ」
「何で?」
いや何でと言われても。
「旅に出るときはそうするものなの」
「そうか」
素直に後ろを向き、まだ砂浜にいる3人に手を振る。あちらもいよくわかっていなかったようだが、しばらくすると意図を察してこちらに手を振り返してくれた。
「……何だか悲しくなってきた。分かれるのはやっぱりつらい」
「だな。だからひと段落したら、また会いに来よう。」
「うん」
前途には問題が山積みだ。王都で何をするかより、まず無事にたどり着けるかどうかもわからない。
それでも、何とかなるし、何とかする。
水面は海であるにも関わらず驚くほど静かで、まるで一枚の鏡のようだ。風も凪いでいるため、オールを動かしたら動かした分だけすいすいと進んでいく。
振り返ると既に豆粒のように小さくなった砂浜の3人は、まだこちらに手を振っていたが、やがてその姿も急に漂い始めた朝もやの中に薄れ、消えていった。