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昔日にトランジはかく語りき

 もしも自分が無邪気に医学の勝利を信じることができなくなっていたとしたら、きっとその時からだったのだと思う。

 

 

 

 きしっ、きしっ、きしっ、きしっ――――


 アルミパイプ製の救急担架ストレッチャーが1分間に100回の速さで規則正しく軋みを上げる。


 その上に置かれた黄色いプラスチックの心肺蘇生用背板には、二十代半ばくらいの青年がシャツの前をはだけ、まるで砂浜に打ち上げられたアオリイカのようなのっぺりした青白い肌を晒して横たわっていた。


彼の痩せていて肋骨の浮かぶ薄い胸郭きょうかくは、屈強な救急隊員の腕で圧迫される度に不自然なほどへこみ、口から気管に挿入された太いビニール製の挿管チューブを通して強制換気袋アンビュバックから肺に酸素が送り込まれた時だけ一瞬元の形に戻ったが、それもすぐにまた押し潰される。


破れかけたぼろぼろの紙風船のようになった人間の身体が膨らみ、また縮み、を他人の手で繰り返す。


そんな光景を、自分はどこか遠い世界の出来事ように眺めていた。


医者ぼくらは、一体何なんだろうね。助けられないことを知っているのに、助けているふりをして』


 唐突に、ほんの数時間前に別れた目の前の彼の言葉を思い出した。


 彼は、自分の同期の研修医だった。


内科ローテーションのため消化器内科で研修していた彼は、担当していた末期癌ターミナルの患者が立て続けに亡くな(ステ)ってね、と少し疲れたふうな顔をして、医局の隣の机に座っていた自分に漏らした。


『……医者ぼくらと患者と、一体何が違うというんだろう』


 胸骨圧迫を続ける救急隊員が体の位置を変える。その拍子に水色の感染防止衣のすそが踊り、救急担架ストレッチャー上の青年の細い頚元(くびもと)あらわになった。


 あごの下、血の気を失った肌に深く刻まれた二本の青黒い紐状ひもじょうの線。


 それは縊頸いっけい-――首吊くびつり自殺の傷痕きずあと


生化せいか速報値出ました!!」


 わざわざ検査室から駆けつけてくれた検査技師の男性が、印刷したばかりの緊急採血検査の結果を強制換気袋アンビュバックを持つ当直医に見せる。人出が足りないため救急部に駆り出された、普段は循環器じゅんかんき内科が専門だと言う卒後12年の当直医は、数値を見るなりさっと表情をくもらせた。そしてやはりか、と技師と互いにうなづき合う。


「先生、2分経過しました」


 記録係を務める年嵩(としかさ)の救急看護師長が、クリップボードを手に冷静に告げた。


「なら追加でボスミン1A(いっとう)!!」


「はい。4回目、ボスミン1A(いっとう)入ります」


 復唱した別の女性看護師が点滴を一旦止め、側管からボスミン―――アドレナリン溶液を注入(フラッシュ)し点滴を再開放。強心作用を持つ透明な薬液は、流れるように落ちてくるリンゲル液の点滴に押され、急速に血管内へと送り込まれていった。


「次のセッションからは、大国がしんマ代われ!!」


「は、はいっ!!」


 いきなり当直医に名前を呼ばれ、慌てて白衣の長い袖をまくり救急担架ストレッチャーに駆け寄った。強制換気をしている間に、救急隊員と位置を交代する。


「胸骨圧迫再開!!」


 すかさず広げた両のてのひらを重ねて、乳首を結んだ線の中心、胸骨きょうこつの真上に置く。感染防止用ゴム手袋越しにも、しっとりと湿った冷たい肌の感触。張力ツルゴールを失いだらしなくゆるんだ皮膚は想像以上に柔らかく、体重をかけると手の下でぐにょりと形を変えて歪んだ。


「いちっにっさんっしっ―――!!」


大声で回数を数えながら精一杯力を込めて胸を、心臓を掌と背骨で挟み込むようにして押す。押すたびに沈み込む手の下で肋骨が何本も何本も、ぽきぽきと枯れ柴でも手折るかのような軽い音を立て折れるのが分かった。


「にっにっさんっしっごっ――――!!」


 テープで顔に固定した挿管チューブの脇から、血の混じった赤白二色の泡が吹き出してきた。看護師が吸引器アスピレーターで吸引するが、泡は唇の端から鼻の穴から、そしてチューブの中からもあふれ出し、いくら吸っても追いつかない。


「さんっにっさんっしっごっろくっ――――!!」


 ……皆は、自分は、一体何をやっているのだろう。


 必死で腕を動かしながらも、言いようのない虚無感が木陰に吹く涼風のように心を掠めて吹き、その熱をどんどん奪い去っていった。


 彼はもう死んでいる。


 意識が無い。呼吸が無い。心拍も、血圧も、体温も、血中酸素分圧も、彼が生きていることを示すものは、ここには何もない。


最終生存確認から5時間以上。その身体が生命活動を停止してから一体どれだけの時間が過ぎたのか、もはや見当もつかない。


「いちっにっさんっしっ―――!!」


 頭の中に浮かび上がった邪念を振り払うようにして、ひたすら無心に圧迫動作を続ける。




「……蘇生は中止だ。もういい、手を止めろ大国」


 それから30分ほどしてようやく救急部に現れた研修指導責任医が治療の終了を告げた時には、救急担架ストレッチャーの上は血塗れで真っ赤に染まっていた。。


「先ほど患者家族と連絡が取れた。発見された時点で心肺停止状態であったこと、時間が経ちすぎて回復の見込みが無いことを説明したところ、家族はこれ以上の蘇生措置を希望されないとのことだ」


 事件性の有無については警察に調べてもらうことになるが、多分司法解剖にはならないだろう。死亡確認の後、清拭せいしきして着替えさせたら家族が到着するまで霊安室に……と責任医は、看護師と当直医に次々と指示を下していく。


 先ほどまでとは別の慌ただしさが救急部を包み始める。


 自分は、彼の胸に置いたままだった手をそっとどけた。押されてへこみ、穴のようになった跡。彼の虚脱した肺はもう息を吸うことは無く、彼の潰れた心臓は二度と脈打つことは無い。


 口から挿管チューブが外され、少し頬のこけた生気の無い彼の顔があらわになる。


線の細い柔和な好青年だった彼。


同期研修医の誰よりも学び、誰よりも働き、誰よりも患者を理解しようとした彼。


だが彼はその生来の勤勉さと真面目さにより、結果誰よりも早く医療の限界を知り、そして絶望に出会ってしまったのかもしれない。


……最後に生きている彼を見たのは、自分だった。


救急当直研修の時間つぶし用に、参考書を取るため医局に戻った際すれ違った。その時彼の後ろ姿がやけに寂しげで、しばらく目が離せなかったことを覚えている。


彼を見送ったほんの数時間のうちに、彼は将来を嘱望しょくぼうされた若く優秀な研修医から救急患者に。そして今、物言わぬ自殺死体となって目の前に横たわっていた。


「ん?」


 ふと目をった彼の穿いているベージュの綿パン、その右ポケットから何か白いものが覗いていることに気付いた。


周囲の誰も気にする様子が無いので、手に取ってみる。指が触れた時かさり、と音がしたそれは、今日の日付と彼の下宿近くの住所が印字されたコンビニのレシートだった。


けれども何気なくひっくり返したレシートの裏を見た瞬間、突然闇から現れた冷たい手が自分の心臓を捕まえようとしたような感覚に襲われた。


恐怖から逃れようと心臓が身をよじって抵抗しているのか、鼓動が滅茶苦茶に乱れ打つ。視界が歪み、世界の音が遠くなっていく。


 そこには、ついさっき書いたかのような瑞々しい黒インクのボールペンで、文字が書かれていた。




『やっぱり同じだったよ』


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