9.一〇八枚のレポート
9 2013/08/29
一〇八とは除夜の鐘を打つ回数、すなわち煩悩の数か。煩悩と悪意がどう関係あるのだろう。だが、オレはあえて、つっこまなかった。
「キヌエは? 彼女もレポートが必要か」
「彼女はいいです」シノブはそっけなく言った。「ボクが彼女に怪我を負わせた経緯もありますし。まあ、正当防衛だけど」
正当防衛に気づいたのは最近だ、とシノブは言っていた。じゃあ、もし気づかなければ、オレたちを訴える口実もなかったということか。まったく……運がいいんだか頭が悪いんだか、わかったものじゃない。
「そのレポートを出せば、オレたちは無罪放免でいいんだな?」
「ええ、いいですよ。力作を期待しています」
とりあえずヤツの言葉を信じるよりなさそうだ。それともうひとつ、オレにはどうしても訊きたいことがあった。
「あのダーツのことなんだが……元同僚から聞いた話だと、血みたいなものが付いていたそうじゃないか」
「ああ、あれは自分の血です」シノブは無表情のまま頭を掻いた。「ボクもおっちょこちょいだから、知らぬ間に自分の手足を刺していたみたい」
それを聞いて安心した。あのダーツを握りしめて人や動物を襲っているシノブは考えたくない。
「松垣さん、あんた来週から本当にウチの現場にくるの?」
「そのつもりでいます。ただ、」シノブは言葉を濁した。「もっと好い仕事の口が見つかれば、そちらを採るかも」
「アテでもあるの?」
するとシノブは意味ありげに笑った。
「なんかツイてるというか……止まらない気がするんです」
ひょんなきっかけからシノブと再会したこと、そしてヤツに弱味を握られていることをキヌエに伝えるべきか、胃に穴が空くほど考えた。
結果、伝えるべきと判断した。
シノブと話したかぎりでは、ヤツのキヌエへの制裁は済んでいるような口ぶりだったが、予断はならない。いつどんな状況でヤツが彼女に接触してくるか、わかったものじゃない。
キヌエにはくれぐれも注意するよう促さないとだ。そして、オレらの立場を知ってもらう必要がある。
もちろん、伝えるなら伝えるでリスクはあった。必要以上に彼女を怯えさせてしまう可能性もあるし、最悪、オレと別れて地元へ帰ると言い出すかもしれない。あるいは良心の呵責に堪えかねて、自首すると言い出すかもしれない(たぶん、ないと思うが)。
オレの部屋で彼女に話をした。すると彼女は意外にもあっさりしていた。
「ふーん、それじゃあ、その一〇八枚のレポートを出せば許してもらえるんだ? よかったね、サトっちゃん」
「他人事じゃないんだよ? キヌエちゃん、もしヤツがあらわれたらダッシュで逃げること。絶対に独りで相手にしないで」
「了解です!」
彼女はよく訓練された兵士のように敬礼してみせた。まったく、とんだ幸運の戦士だ。
数日後、また剛流さんから電話があった。
「もしもし」
「あ、剛流です。いま、お電話いいかな?」
その電話は、シノブが今回ウチの現場を辞退するという内容だった。オレは内心でガッツポーズをした。むろん剛流さんにそれを悟られてはならないので、注意が必要だ。
「山元さん、彼と話されたんでしょう……なにか聞いてます?」
「ああ、それが」
具体的な話は聞いていないが、シノブはほかにも仕事のアテがあるようだった。そのことを彼女に伝えた。
「そっか……まあ、事前の辞退だから仕方ない部分もあるけど。お客さん(現場)の印象、悪くなっちゃうよね。アタシからもまた現場にごあいさつに伺うけど、山元さんからも、よろしくお伝えください」
「わかりました」
そう言ってオレは電話を切った。