8.ラッキーマン
8 2013/08/27
シノブはさらに続けた。
「彼女はバスの外へ吹き飛び、ダーツはボクの足元に転がった。ボクはそれを拾い上げた。なんだか、特別な物のような気がして」
幸運のダーツ……まさか、そんな。バカバカしい、オカルトにきまっている。
だいたい、あれのどこが幸運を呼ぶってんだ。キヌエはボコボコにされ、オレは職を失った。踏んだり蹴ったりじゃないか。
「あれからボクは悩みはじめた。なぜ彼女はボクをダーツで刺したのか。彼女は誰なのか。いくら考えてもわからない。四六時中そのことを考えていた……ダーツを握りながら」
高崎が言っていた、シノブの奇行とはこれだったのか。
「あんた、結局ダーツを上司に取り上げられて、会社をクビになったそうじゃないか」
「よくご存知で」
シノブはまた気持ち悪い笑い方をした。
「ボクも一度はあきらめた。あのダーツに特別な意味なんてない、と。ところがダーツを失って、会社もクビになったあたりから、様子が変わってきた。じわじわと効き目があらわれたみたいです」
「どういうことだよ」
「なんだか、頭のなかにあった靄が晴れていくみたいな。そのクリアな頭で考えたら、意外と簡単にわかった。彼女は、ボクにイタズラをしただけなんじゃないか、と」
「そうだよ松垣さん、あれはただの悪ふざけだったんだ」オレは言った。「あんたには悪いことをしたが、キヌエも大怪我したんだ。お互いに痛み分けってことで、もういいじゃないか」
ウーロン茶を飲みつつ、シノブはオレを見ている。
「彼女に手引きしたのは、あなたなんじゃないですか? 山元さん」
「ああ……そうだよ」オレはぐうの音も出なかった。
「あなたたちは、じつに悪い人たちだ。なんの罪もない人間を傷つけて、ほくそ笑んでいるんだから。ボクはあなたたちを、懲らしめてやりたいと思った」
そしてシノブは笑った。
「でも、どうしようもなかった。あなたはあの職場から姿を消していたから。まあ、クビになったのはボクも同じだけど」
怖かった。シノブにどんどん追い詰められる自分を感じる。
「あなたともう一度会いたいと思っていた。それが叶うなんて、ボクはなんてラッキーなんだろう」
オレは言葉を失った。まさか、そんな……。
「偶然だ、ってのか」
「幸運、とも言いますね」
幸運のダーツ……ウソだろう。幸運にあやかったのは、キヌエじゃなくシノブだっていうのか。
「オレにどうしろと」
「ボクの言うことを実行してもらいます」
「はっ、脅しのつもりか。その手には乗らないよ」
「それじゃあ、ボクはここで失礼してその足で警察に行きます。あの刑事さんに会って、あなたたちがボクにしたことを全部話します。それでも、いいんですか」
オレの背中を冷たい汗が流れた。こいつ、本当に脅してきやがった。
もしシノブがあの刑事に事実を話せば、オレとキヌエは間違いなく社会的な罪に問われる。オレに選択の余地はなかった。
「わかったよ……どうすればいい」
「べつに金品を要求しようってわけじゃない。ボクにも分別がありますからね」
シノブは笑った。嬉しそうだった。
「あなたにはレポートを書いてもらいます」
「なんだよ、反省文か?」
「そんなつまらないもの、要りません。謝罪の言葉も必要ない」
そしてシノブは、意外な課題を提示した。
「あなたには、人の悪意について報告してもらいます。あなたが見たり聞いたり、感じたりしたことで、けっこうです」
苦し紛れにオレは訊いた。
「自由に書いていいんだな?」
「採点はボクがします。いい加減なものをよこしたら、反省の色なしと判断し、即刻警察に……」
キビしーっ! 超キビしい。
「わかった、わかったって」オレはシノブをなだめた。「でもまさか、死ぬまでそれをやれってんじゃあ、ないだろうな」
シノブはゆっくりと首を振った。
「そんなわけ、ありません。レポートはA四サイズで、きっちり一〇八枚書いてもらいます」