現実と変化と1
「明後日にはこの村……というか小屋か、とお別れかあ。長いようで短かったねえ」
ラスティの言葉に、誰もが頷いた。
初めは単にこの人の興味本位でロズリーの実家のある村に行って見ようじゃないかと言う唐突な提案のもと来たのだが、思った以上に有意義な休暇を得られた事に今は純粋に感謝している。
「お姉さんともまたお別れだね、ロズリー。寂しいんじゃないのかい?」
何時でも出立出来るように身の回りを整理しているロズリーが、迷惑そうな顔で振り向いた。
「寂しいですよ。それが何か?」
ともに訓練をする際に気づいていたが、ロズリーは姉思い(やや執着心が強い感はするが)である。
最初は必死で隠そうとはしていたようだが、頻繁にラスティとパーシヴァルがからかうせいもあって、最近はこうして開き直る事が多くなってきた。
「おっと。まさか率直に返してくるとは予想外だった」
おどけたように肩をすくめるラスティの姿も、最近は普段通りの光景となり始めている。
「ラスティさん。あんまロズリーを怒らせないでくださいよー? 俺達の食べる物が壊滅的に不味くならないためにもね」
パーシヴァルがにやりと笑ってそう言ったが、余計なひと言もついてきた。
「からかうならフェルにしておくべきでしょう。ラスティさん」
本当にこいつは、何時も何時も余計な事を言う。
ラスティの表情を見れば、目を輝かせてからかう気満々だ。迷惑な。
「散歩してきます」
何か言いだされる前に、俺は剣を持って外に出た。
日はもう陰りだしている。
大分この森に慣れて来たと言っても、夜の森は危険である事に変わりはないため、日が暮れる前に小屋に戻る必要があるだろう。
そう思って、森小屋と村との間に見つけた、巨大な老木のある場所へと足を向けた。
目的地の近くで人の気配がした。
どうも、この気配には覚えがある。
感じた気配の元が目視で確認できるほどに近くまで来て、その人の気配は誰のものであるかわかった。
ロズリーとカレンの父親カイルだ。
「こんな所で人と会うのは初めてだな」
ロズリーは父親似だ。顔立ちが親子らしく良く似ている。だが、身に纏う雰囲気はロズリーよりもカレンとよく似ている。
言葉で言い表すのは難しいのだが、間合いとでも言うべきか、相手と居る時に取る距離の取り方が、とてもよく似ている、と言えばいいのだろうか。
恐らく相手が望む距離を上手く合わせることが出来るのだろう、と思っている。
距離のとり方が、とにかく上手いのだ。
だから、カレンと距離のとり方に戸惑ったことは無いし、カイルとも距離のとり方に困ることはない。
自然と、自分が望んでいる距離に彼が居るからだ。
「こんにちは」
近寄り挨拶を返すと、カイルは目元を細めて柔らかい笑みを浮かべた。
「たしか、フェルラート君だったね。娘から聞いているよ。弓の腕がとても良いと」
「カレン殿も、とても素晴らしい腕前です。人の射を見て純粋に奇麗だと思ったのは、カレン殿の射が初めてでした」
「私もね、何時もあの子の射はとても奇麗だと思っている。なんて迷いの無い美しい射なのだろうかとね」
葉が全て枯れ落ちた老木を見上げそう言った彼の言葉に、自分も頷いた。
カレンの射には迷いが無い。
矢を番え、構えを取った瞬間に、ただ的だけを見つめている。
矢が放たれるまでの一連の動きと的を見る目に一切の迷いは無い。
これほどまでに、迷わず弓を引ける人がいるのかと、初めて見た時には鳥肌が立ったのを覚えている。
「あの子が生まれて二十年間。私はあの子の成長をずっと見て来た。とても聡く、賢く、手間のかからない子で、大抵の事なら何だって出来る子に育った。私には過ぎた子だとさえ思うほどに、自慢の娘だ」
本当に、大切に育てて来たのだろう。
語るその表情は、とても誇らしい。
だが、少しその誇らしい表情には陰りが有った。
「けれどね。不思議な事に、私の子どもの中で間違い無く一番出来の良い子なのに、子どもたちの誰よりも心配でならないのだよ」
老木の傍へ寄り、その根元に横たわる木に腰をかけて、再び老木に目線を向けるカイル。
自分も同じように老木へと目線を向けた。
もう僅かにしか届かない光を浴びて、老木が纏う苔に残った水分がキラキラと輝いて見えた。
「あの子は迷っている。ずっと、ずっと、あの子は迷っている。何にそれほど迷っているのかわからない。だが、あの子はずっと、迷いながら生きているように見える。弓を引く時には一切の迷いが無いのに、生きる事に関してはずっと悩み続けたままだ」
カイルは寂しげに笑った。
「あの子はきっと、まだ自分が生き方に迷ったままだと言う事にすら気付いていないのかもしれない。だが、私には導いてやる事も、手伝ってやる事も出来ない。私も大概、不器用な質なものでね」
しばし、静かな時が流れた。
その静かさは、決して不快では無く、どこか心地が良い。
もう朽ち果てる事しか無い老木が、若い木々を見守るようにして聳える姿はまるで、若人を静かに見守る老人のそれだ。
この空間に安堵感を与え、心地良い空間を作り出しているのは、間違えなくこの老木だろう。
自分も、カイルも、だからこそこの老木に惹かれて来たのかもしれないなと思った。
「昨日ね、カレンが不思議な事を言ってきた。私は何がしたいのだと思う? とね」
「それは……」
「本人でもわからない事を、私がわかるはずもないだろう? だけどね、そうして私に聞いてきた事に意味があると思った。きっと、この子は近いうちにこの村を出ていく。そんな予感がした。むしろ、ついに来たか、とさえ思ったよ」
「何故そうだと?」
「似ているからだろうね。私と。……あの子は一番私に似ている。だからなんとなくわかるんだ」
その一言で、自分も納得出来てしまった。
雰囲気がとても似ているこの親子は、きっとそれぞれ似ている事を自覚しながら接しているに違いない。
だから、何か予感するものがあるのだと。
そう考えていると、カイルの視線が自分に向いている事に気付いた。
「あの子は近いうちに必ずこの村を出ていくだろう。そうすればきっと、ここではない別の場所で君があの子と会うこともあるだろう。その時には、よければあの子を助けてやってほしい」
何故そんな事を自分に? と思った事が、どうやら表情に出ていたらしい。
よく見ていれば意外と分かりやすいのだねと言って微笑んだ彼が言った。
「心配だからね。……それに、あの子の癖は良く知っているんだ。似ているから」
カイルは腰を上げて村に向かって歩き始めた。
そして、一度振り返り、カイルが少し意地の悪そうな表情で言う。
「あの子の人を見る目は確かでね。だから、私はそれを信じる事にするよ」
疑問に思うことばかりを残して置いて行かれたような状態に陥ってしまった自分は、しばらくぼうっとして立ったままでいたが、そろそろ戻らなければならないことを思い出し、疑問に思ったことを一旦考えることを止めて、小屋に向けて歩き出した。