幻想と彷徨と2
白と黒の奇妙な存在が姿を消したあと、部屋をぐるりと見渡してみたが、特に変わった様子もなく、部屋の扉も問題なく開閉した。
流石に不可思議な出来事に遭遇したせいか、一人でいるのが怖くなり、男性陣の部屋に向かうことにした。
だが、部屋の扉を開いたところで "真っ白な三毛猫" に遭遇した。
三毛猫なのに真っ白とはいったいなんなんだと思わずに入られないのだが、私がそう感じ、そう思ってしまったのだから否定しようもない。
その猫は確かに三毛猫なのだが、印象が真っ白なのだ。
「どうしたの?」
この宿の猫だろうかと首をかしげつつ、こちらをじっと見上げてくる猫を見つめていると、その三毛猫は隣の部屋の扉の前に移動しひと鳴きしたのち、扉の中に飛び込んだ。
「えっ?」
驚きのあまり、ノックもせずにその扉を勢いよくあけてしまう。
そして気づけば私は土砂降りの雨が降る町の中に一人立っていた。
「今度は何!?」
自分の声すら雨音でよく聞こえない状態の中、自分の意思の範疇外で起きる事柄に若干苛立ちを覚えて叫ぶも、それは何の意味も為さない。
とにかく宿に戻ろうと歩き出そうとしたところで、そもそも宿に戻る方法はあるのかと気づいて踏み出す足を留めた。
しばらく悩んでいると、猫の鳴き声が聞こえたのでハッとする。
あの三毛猫の姿はこの大雨の中でもはっきりと見えた。
だから私はその姿を追うように足を踏み出した。
しかし、気づけば三毛猫の姿は掻き消え、この場所は私の知っている町なのかすらわからないほど、大雨の中の路上に一人立ち尽くしている状態となってしまった。
「いったいなんなの……?」
わけのわからないことが立て続けに起こり、なかなか頭がまともに動いてくれない。
しばらく立ち尽くして頭の中を必死に整理することしばし、かなり長い間大雨に打たれ続けている体がまるで冷えないことに気づきはっとした。
「もしかして、精霊が関係してる?」
まるでそれが正解だとでも言うように、姿が見えないのに、あの三毛猫のものであろう鳴き声がどこからか聞こえた。
だが、たとえ今現在の事柄に精霊が関係していたとして、だからといってその精霊がいったい何がしたくて私をこの状況に置いたのかがさっぱりわからないので、結局どうすればこの状態から脱することができるのか見当がつかない。
本当にどうすればいいのだろうか。
仕方なく、少し歩いて周囲を見てみるしかないかと自分の足音すら聞こえない大雨の中歩きだした。
目印は置いたところで見えないだろうからと諦めた。
そもそも目印になるようなものが手持ちに無いのでしるしをつける術が無かっただけとも言うけど。
しばらく歩いてみたが、壁はないし物もない。
人の気配もしないし、あの三毛猫も見つからない。
本当にどうすればこの現状を打破できるのかわからなくなり途方にくれそうになったその時だった。
突如として眩い光が点滅したかと思うと、天を切り裂くような音とともに、己の真後ろを把握しきれない巨大な力が降り注いだ。
唐突で思わぬ大きな衝撃を背後から受けてたたらを踏んで転びそうになった私は、なんとか倒れこまずに踏みとどまれたのはよかったのだが、強烈な光に目はちかちかし、巨大すぎる音に激しい耳鳴りがして雨音すら聞こえなくなっていた。
キーンとする耳鳴りに顔をしかめながらも、つい今しがた起きた現象を見ようと振り向けば、私が立っていた場所にほど近い石畳が黒ずんでいたのが目に入る。
それがわかった途端、一気に冷や汗が噴き出した。心臓も恐ろしいほどの早鐘を打っている。
これ、やばくない?
身の危険を感じて体がこわばり身動きが取れなくなったところで、何故か耳鳴りがしていてもはっきりと聞き取れた神経質そうな声。
『何をそんなところに座り込んでいる。さっさと行け』
周囲を見渡すが、人影もなにもなく、相変わらず激しい雨粒しか見当たらない。
『この私が時間稼ぎをしてやっているのだ。さっさと行って、さっさと帰れ』
「い、行けって言われても……」
『なんだ。見失ったのか? あちらだ。"探し物" はそこにある』
「え?」
あちらってどちらだとツッコミを入れたくなったが、すぐにどこなのかがわかった。
見失ったはずの三毛猫が居る方向が "あちら" だろうと。
「あの、ありがとうっ!」
『……ふんっ』
何故かすごく照れくさそうな反応が返ってきて、それに少し笑ってしまうも、三毛猫がまた歩き出したので慌てて立ち上がりその姿を追った。
しばらく猫の背を追って進むと、ようやく人影を見つけた。
だがその人影はまるで何かを求めて彷徨っているように見える。
三毛猫がその人影の側により、心配そうな視線を向けている。
そして、こちらをちらりと視線を向けると、まるで頼んだぞというようにひと鳴きしてその姿を消した。
もう不思議な事がありすぎて、三毛猫の姿が見えないことくらいでは驚かなかったが、人影が誰かわかれば驚くしかなかった。
「フェル!」
フェルラートは声に反応して一瞬立ち止まっただけで、その歩みは止まらなかった。
フェルラートの姿をした別の何かかかもしれないと思い直し、とにかく確認してみるしかないとフェルラートの腕をとって引き留めた。
だが、彼の顔がこちらに向いた瞬間、早まったかもしれないと後悔した。
彼の氷細工のような美しい顔の左半面の皮膚がひび割れていて、ところどころ剥がれ落ちた皮膚の下からは禍々しさすら感じる赤黒い肌がのぞいていた。
そして、左目は血のように赤く染まりきっていて、まるで魔物のようだった。
そう。
今目の前にいるフェルラートは、魔物に見えた。
人の姿をした魔物に。
本能的に恐怖し足がすくんだ。
けれど、何故か彼をつかんだこの手を放してはいけない。そう思った。
「フェル?」
彼はまっすぐこちらを見据えたまま、何も答えない。
血のように赤い目を、じっと私に向けたまま。
フェルラートがひどく小さくつぶやいた。
だがその言葉が耳鳴りのせいでまったく聴こえず、私は必至で彼の口の動きを見つめ、その言葉を読み取った。
「……見つからない」
彼が言葉を紡ぎだすごとに、彼のひび割れた肌がボロボロと剥がれ落ちてゆく。
「……俺は今どこにいる?」
「え?」
少しずつ戻ってきた聴覚に激しい雨音と彼の静かな声をとらえた。
「喰われたくない」
彼本来の色を持ったままの右目から赤い涙がこぼれだした。
「喰われたら、無くなってしまう!」
悲痛な叫びに反応してか、彼の体から青紫色の炎が噴き出した。
その炎に包まれた直後、私の意識はぷつりと途切れた。
目が覚めれば、私を覗き込む人々の顔が見えた。
「体調の方は大丈夫かな?」
エドガーの問いに少し首をかしげて、ひとまず問題は無いと頷きを返す。
「部屋に入って驚きましたよ。なんせ扉を開けたら倒れていたんですからね」
「倒れてた?」
「さほど高くはなかったんですけどね、結構熱も出ていたので、きっと知らず知らずに疲れがたまってたんでしょう」
熱が出るほど体調が悪くなった覚えがまるでないのだが、事実倒れていたらしいのだから心配させたことには変わりない。
「ま、もう顔色もよくなっていますし、雨もすっかり止みましたらね。明日には出発できそうですね」
言われて気づき、窓の外を見れば、確かに空は見事な青空が広がり、すっかり雨は止んでいた。
「明日の準備は我々で済ませておきますから、カレン殿はもう少しゆっくりしていてください。ということでジャック、買い出しに行くよ」
「いや、俺はカレン殿の様子をもう少しだな……」
「じゃあ、後はよろしく頼むよ、騎士殿」
問答無用でエドガーがジャックの襟首をつかんで引きずるようにして部屋を出ていく様子をあっけにとられて見ていた私は、いまだ一言も発することなく壁に背を預けて立つフェルラートに視線を向けた。
「えっと、ご迷惑おかけしました」
「……ん」
この時、フェルラートの左目が一瞬うっすらと赤みを帯びているように見えたのは気のせい……だろうか?