標的と隙と3
ミスティレイの街は、深い霧に覆われた。
精霊ミスティレイの力によってつくりだされた霧が、街のいたるところを通る川やむき出しになった水路をたどって、街全体に広がってゆく。
少し風を起こして霧が覆う範囲を広げて欲しいと駄目もとで頼んだところ、ミスティレイのそばに居た他の精霊達がはりきって力をかしてくれたために、街が霧に覆われるほどの規模になったのだ。
恐らく最初に訪れるであろうレオノールの店に向かって歩く私とフェルラートは、まるで街を喰らうようにゆっくりと街を覆ってゆく霧を目にして思わず息をのんだのはつい先ほどのこと。
原因がわかっている自分たちはいいが、何も知らずにこの光景を見た人は恐ろしい光景だと思っても不思議ではない。
街の人には申し訳ない事をしているなと思いつつも、それでも必要な事だからと、心の中でだけ謝罪をしつつ歩みを進める。
そばに居るはずのフェルラートの姿は、ほとんど影にしか見えなくなっていた。
響く足音は奇妙なほどによく響くため、彼がどれ程の距離にいるのかは、気配をたどらなければ良くわかったものではない。
「これほどの濃い霧に、街の者は奇妙に思って外出は控えてくれるはず。これなら気配をたどりやすい」
場数の違いなのか、あるいは性格からなのか、フェルラートの声はひどく落ち着いている。
表情は見えなくても、その落ち着いた声が、知らず知らずに力んでいた自分から、程良く力を抜いて心を落ちつかせてくれた。
『ひどく不快な気配が街に入ったわ。きっとあなた方の相手でしょう。気をつけて』
精霊ミスティレイからの声に緊張が走る。
いつの間にか隣にやってきていたフェルラートが、私を背に守る様にして周囲の気配を探りながら言った。
「まだここまでは来ていない。店の前に付いたところで、カレン殿は壁際で準備を」
「わかったわ」
無意識に彼から貰ったブローチを握りしめていたら、急に彼の動きが止まり、こんなに驚きを表情に出す人だろうかと思うほどに驚いた表情を私にむけた。
「申し訳ないが、その手を少し緩めてみてほしい」
「え? あ、えっと、はい」
ブローチを握っていた手の力を緩めると、彼は深く息をつき、私の肩に手を置いて、実に真剣な表情で言った。
「いざとなったらそのブローチを握ってくれればいいようだ。あなたの居場所はそれでわかる」
そんな効果がこれにあったの?
思わずまじまじと掌にあるブローチを見つめる。
確かに彼が創り出したものだから、そういった効果があってもおかしく無さそうではある。
だが、反応を見る限り、つくりだした本人が今の今まで知らなかったような状態だったようなので、もしかすると魔石の効果と言うものを正確に知っている者は、この世界にあまり多くないのかもしれないとふと思った。
つい先日魔石から聴こえた彼の声の意味も、近いうちにわかればいいのだが――――。
霧に覆われる前に見えていたレオノールの店の前までたどり着くと、私はレオノールの店の正面にある別の店の壁側に寄る。
「店から出て来たところで仕掛けます。可能な範囲で構わないので、援護を」
フェルラートの言葉に無言で頷く。
レオノールの店の入り口に向かって歩き出す彼の背があっという間に離れれば、また不安が襲ってくる。
相手が獣ならばまだいい。けれど今回の相手は人だ。
捕える事が目的だと言っても、人に剣を向けなければならないという事実に、自分の体が震えるのを感じていた。
私が出来るのは遠くから弓で足止めをする事だけ。
魔法は身を守る程度にしか発動出来ないので論外だ。
見えない敵の気配だけをたどって弓を引くのは怖い。
フェルラートに向けて引いてしまっていたらと考えると尚の事。
(それでもやると言ったんだから、自分を信じてやるしかないのよね)
魔石に魔力を流して弓を手に取る。
徐々に近づいてくる複数の足音に耳を澄ませて、私は生きを潜めて小さく息を吐いた。
(どうか、上手くいきますように――――)
荒々しく扉が開かれた音がした。
僅かながら声も聴こえてくるが、はっきりとした内容としては聞き取れなかった。
足音を聞く限りだと、数は十人には満たない数のようで、店の前に人を残して入った雰囲気はまるでない。
かりにも近衛兵として働いているはずなのに、かなり隙の多い行動に少しばかり安堵はしたが、こちらが同じように油断していいわけではないので気を引き締める。
「ごちゃごちゃと五月蠅いぞ下っ端風情が!」
そんな声がしたところで一気に気配が騒々しくなる。
――――キンッ!
金属がぶつかる音が聴こえたのは、その声がしたほんの少し後だった。
激しくぶつかり合う音がして、直後にくぐもった声と共に何かが倒れる音も聴こえてくる。
少なくとも、争う様な音が聴こえる限り、フェルラートは無事である事がわかる。
だが、一人対複数人であるため、店から離れようとする者を全て相手取るわけにもいかない。
(させないよっ)
逃げ出そうとする気配に向けて弓を引く。
放たれた弓は予想通りの働きをしてくれたのか、派手に何かが倒れる音と男の悲鳴が聴こえた。
また一つ、離れようとする気配に向けて弓を引く。
こちらも同じように派手な音を立てて何かが倒れる音がした。
「くそっ! 何なんだ!?」
まだ私に気付いた者はいないようで、争う気配はまだ遠い。
「貴様! 間男風情が何故ここに居る!?」
どうやら接近戦をしているフェルラートの存在は相手に気付かれたようだが、その発言は近衛らしからぬ品性のかけたものだった。
こんな近衛を持つ王女の品性もまた、なんとなくだが窺えるというもので、思わず成る程と無意識に納得をする自分がいた。
「我々に剣を向けるとは何事だ! 貴様、逆族にでもなったか!」
「騎士の職務を忘れてただの下僕になっているお前らに咎めを言われる筋合いは無い」
フェルラートの声は単に騒々しい相手の声とは違って静かなものなのに、その声はやけによく通る。
「正騎士風情がっ!!」
一層激しい音がする中、逃げ出そうとする気配がまたしたので、そちらに向けて弓を引く。
「うぐっ!」
足元を狙ったはずだが、今回は何処かに中ってしまったのだろうか。
鈍い音とくぐもった声が聴こえて来た。
「こいつの他に誰か居る! 探して仕留めろ!」
その言葉を聞いて背筋に冷たい汗が流れ落ちた。
けれど、下手に動けば危ないため、必死に気配をたどって相手の動きを止めるように弓を引く。
(一人……二人……三人かしら)
矢の飛んできた方向がわかったのだろう。私に向かってくる気配は三つあった。
だが、それは連携しての動きでは無いし、足取りも慎重なものなので、距離は思ったよりも詰るのが遅い。
(どうすればいい? どうすればこの場をしのぎ切れる?)
すぐにでも逃げ出そうとする気持ちを必死で押さえて、向かってくる相手に向けて弓を引く。
今度は本当に人に向けて放たねばしのぎ切れないと、頭の中で出た答えに動揺したせいか、放たれた矢はやや軌道がずれてしまい、相手に居場所をよりはっきりと分からせてしまった。
(落ち着つけ、落ち着け!)
だが、運が悪い事に、濃かった霧が徐々に薄くなってきていて、相手の影が見えるようになってきてしまっていた。
何処からか、香ばしい香りが漂ってきたことで、霧が薄くなってきた事の意味を悟った。
(ぬかったわ。早朝というのを忘れてたっ)
早朝と言えば、各家々で朝食の支度がはじまる時間である。
煙突から熱が放出され、その熱で空気が温められて霧を薄くしてしまうのだ。
必死で動揺する心を鎮めようとするも、そう簡単に鎮まるものではない。
「そこかっ!」
相手がこちらの影をとらえたようで、一気に離れていた距離が詰る。
言葉にならない声をあげて、私は無意識に弓を引いていた。
その直後に、三つの叫び声が聴こえ、視界がかなりひらけてしまった事によって見えたその結果が、うずくまった三人の男の腕と足に矢が深々と突き刺さって倒れている光景だった。
自分の心臓の音が耳にうるさかった。
目に映った光景に呆然として立ちつくしていた私に、突然恐ろしいほどの速さで殺気が込められた何かが向かってくるのに気づい居た頃にはもう遅かった。
「そこの女! 死ねえええええ!」
向けられていたのはひと振りの剣。
決して軽いものではないはずなのに、その剣は恐ろしい勢いで私に向かって飛んでくる。
避けようと思ったところでもう避けられるほどの距離は無く、私はただただ向かってくる剣を見つめているしかなかった。
だが剣が私に刺さるであろう直前に、持っていた弓が輝きを放って、青紫色の炎が現れたと思うと、その炎が剣を瞬時に消炭に変えていた。
「……ふざけるなっ!!」
どこかで聞き覚えのあるフェルラートの声がして、剣を投げたと思われる唯一まだ立っていた男が地に倒れる音がした。