終わりと始まりと
「走れっ! 死ぬ気で走れ! 遅れるのだけは避けろっ!」
自分でそう言いながらも、パソコンと資料を抱え持って階段を駆け上る。
普段はカジュアルな服でも、客先との打ち合わせとなるとスーツを着る必要があり、今日はそれが災いして階段を駆けのぼるのも一苦労だった。
「先輩、マジで死にそうですっ!」
文句を言いつつも、さすがに荒波にもまれて来ただけあるタフな後輩達は、それぞれ必要な荷物を抱え持って同じく階段を駆け上ってゆく。
日本のシステムエンジニアという職業は不遇だ。
この頃常々そう思うようになってきた。
パソコンを使った仕事をする人でしょう? 的な認知しか世間ではされておらず、機械が苦手な人間に対して無償でパソコンの設定をしてやるのはよくあることで、パソコンだけにとどまらず、インターネットや携帯電話等、機械に関する話の無償の相談相手にされるのだ。
頼られるのは嫌いじゃないから良いのだが、世間ではパソコンのセッティングをするだけで幾らでもお金を取れるご時世。
本来ならお金を取っても良いはずなのだが、相手は身内である事が多いから下手にお金は取れないし、セッティングをしてやるだけで何時間も自分の時間を取られる事はざらで、苦労しても「ありがとう」の一言だけで終わる事も無論のことざらである。
どう考えたっておかしいと思う。
だが、それだけならまだマシで、本業の方は常にギリギリの予算と明らかに不足している人員と明らかにおかしいスケジュールを立てて、それを死に物狂いで期限内にこなさなければならず、残業など馬鹿みたいに増えてゆく。
休日なんて有ったもんじゃない。
久しぶりの休日は寝て体力を回復するだけの作業になることなどしょっちゅうだ。
本当に不遇だ。
世の中世知辛い。
そう思った所で、今この現状をすぐに変えられるかと言うとそうはいかないし。
まったくもって恩恵の少ない職業だ。
完全実力主義という点に魅力はあるんだけども――――。
階段を駆け上り、会議室のセッティングに即座に取りかかる。
今日は大事なプレゼンテーションの日。
これで開発の予算が決まるのだから、必死でやらずにはいられない。
全ては今後の自分と開発部隊全員の懐を少しでも満たすために、全力で開発予算をもぎ取らなければならないのだから。
「気合い入れてくわよ!」
こうして私の一日は始まって、なんとか望んでいたよりも良い方向に予算が出そうだと、家についてソファーに座り、ホッとした所で私の意識は途切れた――――。
『これは余りにも報われない』
どこか遠い所でそんな声がした。
『君は人に与えるだけ与えて、君自身は周りに与えたよりも遥に少ないものしか受け取る事しか出来ていない』
暖かな太陽の光の様な何かが、私に降り注いでいるような感覚がする。
だけど、それが一体何なのかはわからない。
『君が今一番したい事は何だい?』
「一番したい事……?」
『そう。したい事だ』
「恋愛、かな」
『恋愛?』
「働いて。働いて。働いて。そればっかりで、置いてかれちゃったから」
口では偉そうな事言いながら、本気の恋愛なんて出来なかった。
恋愛って、どうやったら出来るのかすらわからない。
何時もどこか遠い所から自分自身を見ているところがあるからだろうか?
本当に、異性を好きだと思った事がなかった。
気付かなかっただけかもしれない。
でも、気付かないほど些細な思いだったら、どうやって気付けばいいんだろう?
本当に、恋愛がわからない。
でも、憧れていた。
凄く凄く憧れていた。
「異性を好きになって、その人と一生愛し合って暮らせる日々って、憧れてるんだ」
恋愛小説に出てくるような恋にあこがれて、本当はそんなドラマティックな恋愛にはならないって頭の隅ではわかっていても、そんな恋にあこがれている自分が居る。
それを否定なんて出来ない。
『愛し合う人生か――――』
「別にたくさんの人と恋愛をしたいわけじゃないんだよね。ただ一人でも良いって言うか、本当に好きだと思える人と、愛し合って生きてみたい。それだけ」
そう。それだけでいい。
いっぱいなんていらない。
憧れはするけど、そんなにいっぱいの恋心に揺れ動くなんて、自分は不器用だから出来っこない気がするから。
『――――そうか』
その言葉の直後、急に体全体がカッと熱くなった。
『ならば。ただ一人。本当に愛し合える者とめぐり逢い、その者と生涯ともにする人生を約束しよう』
何がなんだかわからないうちに、目を開ければ見知らぬ天井を見上げて産声を上げていた。