あたしはスパイである。後編
音を立てないように鍵を回し、他の人間の気配がないことを確認して部屋にはいる。
執務室の合い鍵は、協力者からすでに得ていた。
今まで潜り込まなかったのは、それほど必要性を感じていなかったから。
でも、あの黒髪の少女のせいでスパイとしての自信をなくしかけたあたしは、こうすることによって自信を取り戻す必要があった。
軍備の予算と、開発中の武器の設計図。
山のように積まれた紙の中にはないだろう。
おそらく、見つかりにくい場所に隠してあるに違いない。
(あたしに見つけられないものなど無いけどね。)
執務机の引き出しの鍵を、ヘアピンと針金で加工した道具で傷一つ付けずに解除する。
そこにある王者のはんこも捨てがたいけれど、欲張るのは得策ではない。
中の全てを机の上にのせ、引き出しの底にある小さな穴にドライバーを差し込む。
あっけなく板がはずれ、その下から数枚の紙が出てきた。
(ちょろいものね。)
あの王の性格から、軍備に関する書類をたまに眺めてにやにやするだろうと思っていた。
だから、執務室にあるのならば机か椅子のわかりにくい場所に隠してあるだろうことはわかりきったことだった。
(資源が豊かで、平和ボケした国など、敵ではないわ。)
あたしはふっと笑ってその中身を完璧に覚え込んで要点だけメモし、全て元通りに1ミリもずらさずに直すと、来たときと同じように警戒しながら部屋を出た。
(やっぱり、あたしほど優秀なスパイはいないわね。)
他に何人あたしのようなスパイが潜り込んでいるのかは知らない。一人が捕まって芋づる式に露見するのを防ぐためだ。
でも、その中で最もうまく仕事をこなしているのはあたしだろう。
鼻歌でも歌いたいような気分で巡回兵を警戒しながら部屋に戻ったあたしは、自分のベッドの上で腰掛けている少女を見て唖然とした。
(なぜ、ここにいるの――――?)
ここの侍女は粗末だが、一人部屋を与えられている。そして夜の部屋の行き来をすると、その者は問答無用で解雇される。
夜中に自分以外の人間が部屋にいることなど、まずありえないと言って良い。
それなのに、暗闇の中ベッドに座って静かにあたしを見つめているのは、あたしが唯一気に入っている、あの黒髪の少女だった。
「おかえり。」
少女がふんわりと笑う。月の光に照らされているせいなのか、見慣れぬ夜着姿のためか、何故か別人のように見えて、少しどきりとする。
「なにを、しているの?」
「見舞いにきたのだ。」
そう言って手に持った袋を揺らす彼女の様子に、口の中にたまっていたつばを飲み下した。
風邪だと言って寝ているはずの人間の部屋に来てみれば、部屋の主はいなくて、夜中に外からかえってきた。少女は今何を思っているのだろう。
あたしはどう説明すればいいのだろう。
戸惑い黙り込んだあたしに、少女はゆっくりと近づき、手を取った。
「座った方がよいのではないか。」
頭をひっしに巡らせながら、あたしは大人しく彼女についてベッドの上に腰掛けた。
まだ、病人だと信じてくれているようだ。
あたしは胸の中でこっそり安堵の息を吐き、目の前に立つ彼女に微笑みかけた。
「喉が渇いて、水を飲みに行ったところだったのよ。人恋しかったから嬉しいわ。」
「そうか。」
目を細めて口角をあげた少女。
だというのに、笑っているように見えないのは、あたしの中で嘘をついた罪悪感があるからだろうか。
今更良心も何も持っていないと思っていたのだけれど。
少女は手に持った袋をあたしに手渡すと、窓の方へ行き、外を眺めた。
そのどこか大人びた横顔をぼうっとして眺めていると、彼女は小さく嘆息して振り返った。
表情は、光の影になっていて見えない。
「なあ、イーパス。権力というものはやっかいだとは思わぬか。」
どくり、と心臓が脈打つ。
この少女はとつぜん何を言い出したのだろう。
何が言いたいのだろう。
やはり、あたしの正体に感づいているとでも言うのだろうか。
困惑しながら見上げていると、少女がゆっくりと近づいてきた。
何故かわき上がる恐怖を抑え必死にじっとしているあたしの前に立つ。
ようやく顔が見えるようになった彼女が、あたしの手の中にある袋を見ているのに気づいて視線を落とし、あたしはひっ、と小さく叫んだ。
「どうしたのだ、開けられぬか。」
感情の見えない、淡々とした声。
「―――いいえ…。」
あたしは震える手でその結び目の右下から伸びる紐を引っ張った。次に右上、左上。あたしが解けないはずはない。
これは昼間、あたしが彼女のエプロンの紐を結ぶとき、蝶々結びをする前に間違って結んだ、あの結び目なのだから。
(どういうこと、どういうことなの。)
一般人が、それも、蝶々結びさえ知らないようなこの少女が、なぜこのような高度の技術を要する結び方を完璧にこなしているのだろうか。
しかも、あたしにこれを見せに来たと言うことは、あのとき触った一瞬でこの結び方だと悟ったと言うことだ。あたしにでさえ、あんな短時間で突然の事態で把握できたとは思えない。
袋の中には、のど飴がたっぷりと入っていた。
あたしは、呆然と少女を見上げた。
彼女は、あの目で、あたしを見ていた。
「権力者は、どんなに自分が嫌だとしても、非情な決断を下さねばならぬことが多い。
たとえ、どんなに相手が親しい相手だろうとも、見逃すことが出来ぬのだ。」
目の前の少女は、昼間の、いつもの少女ではなかった。
そこに立つのは、まさしく、至高の存在。
彼女の足下に平伏せと、血が、本能があたしに訴えてくる。
顔から血の気が引く。
足が、床の上に跪こうとした時。
「だが―――。」
彼女が動いた。
「妾は今、権力をかざす名を持っていない。
そのことが、妾にとっては、この上なく嬉しい。」
大事にな、と言って彼女は音もなく部屋を出て行った。
その瞬間、金縛りが解けたかのようにどっと汗が吹き出た。
(死ね、と言われたら、躊躇することなく、あたしは首を掻き切っていた。)
手の中にあった袋が床に落ち、中から透明ののど飴が転がり出た。
あたしは一晩中、それを見つめていた。
(あれは何だったのだろう。)
あたしは昨日から水につけていたシーツを一枚一枚干しながら、昨日の夜のことを思い出していた。
今朝、あの黒髪の少女は何事もなかったかのように蝶々結びをねだってきた。
ポケットに入ったのど飴だけが、あれが夢ではなかったことを教えている。
彼女は、どういう存在なのだろう。
考えに没頭していたけれど、あの方の存在にはすぐに気づいていた。
建物の影に隠れるようにしているが、ちゃんと気配を感じさせてくれている。
「―――報告は。」
彼は、定期的に手の者の元に訪れ、直接でしか話せないような重要な情報を聞きに来る。
黙ったままポケットに手を入れたあたしは、はっとした。
(メモが、ない……!)
昨日忍び込んだ時に書いたメモ。
確かに、自室に入るまではあった。
それは確認していた。ならば、どこで……!
そのとき、ある可能性を思いつき、あたしは息を呑んだ。
ただ一瞬、あの少女があたしの手を引いたあの瞬間だけ、あたし以外の者がポケットの近くに手をやった。
あれから一晩中座ったままだったのだから、それ以外はありえない。
「特には……ありません。」
情報をとられたなど、言えるはずがない。
「そうか。」
あの方は興味なさげに呟いた。
もともと、指令はなかったのだから、期待はしていなかったのだろう。
「では、何か変わったことはなかったか。」
あたしはこくりと喉を鳴らした。
すべきことは分かっていた。
あの少女のことを報告し、必要ならば殺してもらう。
そのくらいのことは、今まで何度も経験してきた。
(だけど―――)
ちらりとシーツの入っていた桶に目をやった。
紛れ込んでいた小さな布。
あの少女が薔薇と主張していた蛙がこちらを見上げている。
「―――ありません。」
「………そうか。」
気配が消え、あの方が一瞬のうちに去ったのが分かった。
自分がスパイとして失格なことをしでかしたのは分かっている。
けれど、今気持ちはとても晴れやかだった。
あのメモは祖国の古代文字で書かれている。
あたしが尊敬する女王、アメーリア1世が、暗号に代わるものとして考案したという複雑な文字。
今それがつかえる者は、ほとんどいない。
あの少女はもちろん、この国では誰も読むことは出来ないだろう。
たとえ、彼女のせいであたしが追いつめられることになっても、かまわない。
それは、このイーパスとしてのあたしの決意。
名前が変われば、この決意も捨てることにはなるだろうけど。
この王宮にいる限りは、決してかわらない。
あたしはポケットの中から飴を取りだし、口の中に放り投げた。
それは少しレモン味で、鼻と喉の奥がすうっと通った。
あの黒髪の少女は、きっと本当の名前を他に持っているのだろう。
でも、それを突き止めたいとは思えない。
(イーパスはやっぱりスパイ失格みたいね。)
あたしは微笑み、すがすがしい気分で再びシーツを干し始めた。
薔薇の刺繍の入った布と一緒に。
お気づきいただけました?
そう、妾の名前をまだ出していないのです!
ちょっとこだわってみました。




