あたしはスパイである。中編
「イーパス、イーパス!」
あたしのここでの名前を呼んで、結った長い黒髪を揺らしながらぱたぱたと駆けてきたのは、侍女服を着た一人の少女。
「見よ、これは妾が刺繍したのであるぞ?」
シーツの山を抱えたまま振り返ったあたしに、少し垂れめの大きな目を輝かせて、その手に持った布をあたしに誇示するように広げて見せる。
ひと月ほど前からここで働くようになったこの娘は、口調が少し変わってはいるけれど、なかなか愛らしい顔立ちをしている。
その顔立ちから少し幼くは見えるものの、貧しい農家の娘だったと言うわりには、所作に気品がにじみ出ているし、話をしている限り頭の回転も早い。時折驚くような鋭い言葉を吐くこともある。
本当はどこかの貴族の落胤なのだとあたしは見当をつけている。
そうであれば、いずれは貴族の相手をする女官のような仕事に就くだろうと最初は思っていたのだが。
如何せん、彼女は恐ろしく不器用だった。
「……これ、なあに?」
「分かっているであろう、薔薇ではないか!」
いや、どうみても蛙にしか見えない。
あたしが布に描いた薔薇をなぞって縫ったはずが、なぜこうなったのか、それは本人にも分かっていないらしい。というか、本人はその赤いヌぺっとした生物が、彼女の愛する薔薇の花に見えているらしい。
あたしは引きつった笑顔を浮かべた。
「ま、まあ上達はしたんじゃない?」
1週間前に比べれば。
「うむ、そうであろう。以前から解れを縫うことは良くしておったのだ、慣れれば容易い。」
布の穴を塞ぐのと、刺繍をするのとでは要領がまるで違う。
(自分で身をもってそれを証明しているじゃないの。)
でも、あたしはそれを口にしなかった。
満足そうに微笑んで自分の刺繍を眺めるその顔は、年の割には大人びた彼女が、年相応に幼く見えたから。
「ほら、後ろを向きなさい。エプロンが歪んでいるわよ。また適当に結んだのでしょう。」
「……すまない、努力はしてみたのだが…。」
あたしは手に持ったシーツを脇の台に置き、少しうつむいて後ろを向いた彼女のエプロンの紐に手をかける。健闘した跡が見える固結びを、爪とヘアピンで引っかけてほどいていく。
名前すら知らなかったらしい彼女は、一月経っても自分の背中で“蝶々結び”をすることができなかった。
あたしが手本を見せると、『ああ、マリがよくしておったの。それが蝶々結びというだな…。』と、寂しげに呟いていたので、周りの誰かは知っていたのに、教えてもらえなかったのだろう。
何もかも使用人任せで自分は何もしなくて良いほどの権力者なら別だけど、孤児としてこんな王宮で働かなければならないような境遇の娘に教えないなんて、信じられない。
そのマリという誰かに怒りを覚えるほど、あたしはこの子を気に入っている。
人一倍、いや、数倍警戒心をもつと自覚しているこのあたしが。
背筋をピンとのばし、邪魔にならないように黒髪を少し荒れた手で抑えている少女。
その姿に妙な色気を感じ、少しどきりとした。
この子は不思議だ。
水仕事も厭わず、農業を手伝っていたという割には、食事の仕方も歩く姿も美しすぎる。
粗野な言葉を知らないわけではないようだが、古いが美しい文法で言葉を話す。
一般的な常識を知らないかと思えば、驚くほど昔の歴史上人物の名前を引き合いに出すこともある。
なぞ、なぞ、なぞだらけ。
敬語もろくに話せず、どちらかというと上からの物言い。
でも、その黒い瞳は澄んでいて、誰もが惹き寄せられるように彼女にかまっている。
なぜか、この少女に見て欲しくて、話しかけて欲しくて、笑って欲しくて、何かをしてあげたいと思ってしまう。
まるで、彼女が自分たちが仕えるべき至高の存在であるかのように。
やっと固結びがほどき終わって、ふうと小さく息を吐いた。ヘアピンをポケットに戻し、もう一度紐をつかむと、小さく少女が嘆息したのが分かる。
「いつも、すまぬな。」
「ああ、気にしなくて良いのよ。」
気配で少女が安堵するように息を吐いたのが分かった。
あたしの頬も自然とゆるむ。
この子が至高の存在なんて、ただの妄想だ。
権力者はこんな風に本当に申し訳なさそうに謝罪を言わないし、手だって傷一つ付けることを許さない。
この娘は、名前だけの馬鹿ではない。
誇示できる名前を持たないが、誇示できる中身を持つ、権力者なんかとは比べものにならない素晴らしい存在だ。
「あっ、出来たのか?」
「ええ……、あ、いいえ、ちょっと待って!」
確かめるように結び目をまさぐっていた少女の手をつかんで慌てて紐をほどいた。
考え事をしていたせいで、順番通り引かなければ解けない結び方をしてしまっていた。
捕虜などを縛るときに役に立つこれは、あの方に直々に何度も教え込まれたものだ。
(この子みたいな無害な子を…、あたし、ぼうっとしすぎだわ。)
少し苦笑しながらも、手際よく蝶々結びをし終わり、ぽんっと彼女の背をたたいた。
「できたわよ、次は厨房で芋剥きでしょう。それが終わったら、また刺繍を教えてあげるわ。」
微笑むあたしに、少女はくるりと振り返った。
その顔を見て、あたしは、ひゅっと息を呑んだ。
彼女は―――――無表情だった。
大きなたれ目も、小さな鼻も、ぽってりとした唇も、いつもの幼気な少女。
なのに、その目は、彼女ではなかった。
何もかも見透かすような、深い闇の色。
その瞳が、あたしを貫いていた。
身長差ではあたしを見上げているはずなのに、何故かこちらが見下ろされているような感覚。
背中にひやりと汗が伝う。
(あたし、あたしは――――)
あたしは、なんの弁解をしようとしているのだろう。
「イーパス、ありがとう。」
その瞬間、少女がにっこりと微笑み、体から一気に力が抜けた。
先ほどの威圧など、全く感じさせない無邪気な笑顔。
そのときになって、自分の体が微かに震えていたのが分かった。
(何だったの、さっきの………。)
「大丈夫か?顔色が悪いぞ。」
心配そうな少女の声に、あたしは軽く首を振ってうっすらと汗ばんだ手のひらを額にあてた。
「…そうね、風邪引いたのかも知れないわ。」
こんな少女に、怯えるなんて。いえ、このあたしが誰かに怯えるなんて。
そんなこと、いつもならありえないはずだもの。
「なに、そうだったのか。今日は刺繍など、もう良い。妾にはまだ代わってやることは出来ぬが、これが終わったらゆっくり休むのだぞ。」
そう言って気遣わしげにシーツを渡してくる少女。
よく見れば、前髪が寝癖で少しはねている。
彼女にシーツの洗濯など任せたら、足を引っかけて転んで大惨事になるに違いない。
そう、彼女は導いてあげるべき存在なのだ。
顔色などうかがう相手ではない。
いつもは表情豊かな彼女が、少し表情を無くしていた、それだけのこと。
あたしは何とか感情を整理すると、少し辛そうな顔を作り、弱々しく微笑んだ。
「大丈夫だとは思うけれど…。でもそうね、今日はゆっくり寝かせてもらおうかな。刺繍は明日か、他の侍女達に聞いてくれる?」
「うむ、妾はいつもイーパスに頼んでばかりであったからな。たまには他の者に頼んでみるとしよう。」
思案顔で頷く少女。
あたしでなくても、彼女を助ける者など、他にいくらでもいるのだ。
その事実を今更意識し、胸がなぜかちくりと痛んだ。
何度も裏切ってきた優秀なスパイであるあたしが…、この娘に執着しているとでも言うの?
(ばかな。)
あたしはその気持ちを振り切るようにシーツの山を抱え直すと、未だあたしを心配そうに見つめているであろう少女に背を向け、洗濯場へと歩いていった。




