私が書いたという不貞の恋文、偽物ですよ? ~婚約破棄された王宮筆記官は、三秒で筆跡を見破る~
「セシリア・フォード。君との婚約を破棄する」
伯爵家の夜会で、婚約者のレナードは高らかに宣言した。
彼の腕には、淡い桃色のドレスをまとった令嬢が寄り添っている。近頃レナードが親しくしているという男爵令嬢、ミレーヌだ。
居合わせた貴族たちが、期待に満ちた顔で私たちを囲んだ。
どうやら今夜の余興は、私の婚約破棄らしい。
「理由を伺っても?」
私が尋ねると、レナードは一通の手紙を掲げた。
「まだしらを切るつもりか。これは君が別の男に宛てた恋文だ!」
会場がざわめいた。
レナードは勝ち誇った顔で手紙を読み上げる。
「愛しいあなたへ。私の心は婚約者ではなく、あなたのもの。次の満月の夜、いつもの噴水で待っています――だそうだ」
朗読を終えると、彼は手紙をテーブルに叩きつけた。
「筆跡を見れば、君が書いたものだと誰にでも分かる!」
私は手紙へ目を落とした。
そして、三秒で結論を出した。
「偽物ですね」
「なに?」
「これは私が書いた手紙ではありません」
「言い逃れをするな!」
レナードの怒声が響く。
私は手紙を手に取った。
王宮筆記局に勤めて七年。
国王陛下の親書、条約の写本、貴族から提出される嘆願書。私は毎日、数十人分の筆跡を見ている。
偽造された署名を見分けることも、筆記官の仕事だった。
そして何より、私は自分の文字を見間違えない。
「ずいぶん努力したようですね。文字の形だけは似せてあります」
私は最初の一行を指で示した。
「ですが、私が使う文字とは書き順が違います。ここをご覧ください。“愛”という文字の最後の払いが、下から上へ戻っているでしょう?」
「そんなもの、書き方の癖が変わっただけかもしれない!」
「では、次です」
私は紙を明かりへ透かした。
王冠と三羽の鳥を組み合わせた透かし模様が浮かぶ。
「この紙は王室製紙工房の製品です。王宮内の公文書にしか使用されません」
「だったら、王宮で働く君が持ち出したのだろう!」
「不可能です」
私が答えるより先に、落ち着いた男性の声が割って入った。
「王室用紙は一枚ごとに管理番号が記録されている」
人垣が左右に分かれた。
姿を現したのは、王宮文書院副院長のユリウス・クロフォード侯爵令息だった。
私の上司であり、王国内で最も偽造を嫌う人物である。
「ク、クロフォード卿……」
レナードの顔から血の気が引いた。
ユリウス様は私の隣へ立つと、手紙を受け取った。
紙の右下を光に透かし、小さく刻まれた番号を確認する。
「第九工房、製造番号二六八四。三日前、外務局へ二十枚納品された一組だ」
「なぜ、そのようなことが分かるのです?」
ミレーヌが震える声で尋ねる。
「私が納品記録を承認したからだ」
ユリウス様は淡々と答えた。
「セシリアが勤務する筆記局へ、この番号の紙は一枚も渡っていない」
会場の視線がレナードへ集まる。
レナードは額に汗を浮かべながら首を振った。
「ま、待て。手紙を見つけたのは私だ。誰が書いたのかまでは知らない!」
「先ほど、筆跡を見ればセシリアが書いたと誰にでも分かるとおっしゃいましたね」
ユリウス様が指摘する。
「それは……」
「それに、まだ問題があります」
私は手紙から微かに漂う香りを嗅いだ。
甘い薔薇と蜂蜜を混ぜたような香り。
そして紙の端には、桃色の粉が付着している。
私はミレーヌを見た。
彼女のドレスと手袋にも、同じ色の化粧粉が使われていた。
「この香料は、南部のリュネ商会が扱う《春の庭》ですね。王都で購入できるのは一店舗だけです」
ミレーヌが、とっさに手袋を背中へ隠した。
「そ、それが何だというのです。人気の香りですわ。使っている女性など大勢います」
「ええ。香りだけなら」
私は手紙を裏返した。
「でも、こちらに指の跡が残っています」
桃色の粉でできた、小さな指紋。
「その手紙に触ったときに付いたのでしょう。ミレーヌ様、右手の手袋を見せていただけますか?」
「嫌です!」
即答だった。
会場が静まり返る。
ミレーヌ自身も失言に気づいたらしい。唇を震わせ、レナードの腕にしがみついた。
「レナード様。わたくし、怖いです」
「セシリア! ミレーヌを脅すのはやめろ!」
「私は手袋を見せてほしいとお願いしただけです」
「君は昔からそうだ! 細かいことばかり気にして、人の気持ちが分からない!」
レナードの言葉が、胸の奥へ突き刺さった。
細かい。
可愛げがない。
仕事の話ばかり。
婚約してからの三年間、彼に何度も言われた言葉だった。
私は彼の領地の収支を見直した。
間違っていた納税記録を直した。
資金を横領していた管理人も見つけた。
すべて、結婚後に彼が困らないようにと思ってしたことだった。
けれど彼にとって私は、間違いばかり見つける、面倒な婚約者だったのだろう。
「そうですね」
私は静かに息を吐いた。
「あなたのおっしゃるとおり、私は細かいことが気になります」
「ようやく認めたか」
「ですから、その婚約破棄の宣言書も気になっています」
レナードの動きが止まった。
「宣言書?」
「口頭で終わらせるおつもりではありませんよね。伯爵家と子爵家が結んだ正式な婚約ですから、解消には両家の署名と理由を記した書類が必要です」
「そんなものは、あとで用意する!」
「用意できるのでしょうか」
私は彼の前に手紙を戻した。
「婚約解消の理由は、私の不貞だと記載することになります。しかし証拠として提出された手紙は偽造品です」
ユリウス様が引き継いだ。
「王室用紙の不正持ち出しと、公文書用紙を使った偽造。どちらも王宮文書法に抵触する」
「公文書ではない! ただの恋文だ!」
「王室用紙を使った時点で、“ただの恋文”では済まない」
レナードの膝がわずかに曲がった。
私はようやく理解した。
この手紙は、私を傷つけるためだけに作られたのではない。
私を有責にして婚約を破棄すれば、レナード側は慰謝料を払わなくて済む。それどころか、私の家に賠償を請求できる。
彼は私と別れたかった。
けれど、そのために金を失うのは嫌だったのだ。
「レナード様」
ミレーヌが彼の袖を引いた。
「わたくし、あなたに言われたとおり手紙をまねただけです。王宮の紙だなんて知りませんでした」
レナードが目を見開く。
「何を言っている!」
「だって、全部あなたが考えたことでしょう? セシリア様を悪者にすれば、慰謝料で新しい屋敷が買えるって……」
「黙れ!」
レナードが振り上げた手を、ユリウス様がつかんだ。
「女性に罪を着せたうえ、口まで塞ぐおつもりですか」
「離せ!」
「お断りします。王室用紙の流出経路について、お二人には説明していただかなければなりません」
ユリウス様が合図すると、待機していた王宮警備隊員が進み出た。
夜会の主催者である伯爵は、顔を真っ赤にしていた。
「レナード! お前は今夜、いったい何をしでかしたのだ!」
「父上、違います! 私はただ――」
「偽造した証拠で婚約者を陥れようとしたのだろう!」
レナードは何かを訴え続けていたが、警備隊に両脇を抱えられ、別室へ連れていかれた。
ミレーヌも泣きながらその後に続く。
華やかな夜会は、完全に止まっていた。
その場に残された私は、床に落ちた婚約指輪を拾った。
いつ落ちたのかも分からない。
磨き上げられた宝石を見ても、悲しいとは思わなかった。
代わりに浮かんだのは、明日の仕事のことだった。
外務局へ納品された紙が、なぜここにあるのか。
記録をさかのぼり、管理責任者を確認し、残りの十九枚を回収する必要がある。
「セシリア」
ユリウス様に名を呼ばれた。
「明日の調査のことを考えている顔だな」
「どうして分かったのです?」
「私も同じことを考えていた」
初めて、彼が小さく笑った。
張り詰めていた糸が切れ、私も笑ってしまった。
「君には休暇が必要だと思うが」
「偽造に使われた紙が、あと十九枚も残っています」
「そう言うと思った。では、午前中に調査を終わらせよう」
「午後は?」
「婚約破棄の慰謝料について、フォード子爵と相談する」
「そこまでしていただかなくても……」
「上司としてではない」
ユリウス様は、私が拾った指輪を見た。
「君に伝えたいことがある。だが、今日の出来事に付け込むようなことはしたくない」
「伝えたいこと?」
「半年後、それでも私の気持ちが変わっていなければ聞いてほしい」
彼はそれ以上、何も言わなかった。
意味が分からないほど、私は鈍くない。
けれど、今すぐ答えを求めないところが彼らしかった。
半年後。
王室用紙の流出事件は、外務局の職員が借金返済のために用紙を横流ししたものだと判明した。
レナードは偽造文書による詐欺未遂で、伯爵家の継承権を失った。
ミレーヌは捜査への協力が認められ、刑罰こそ免れたものの、社交界を去った。
私は伯爵家から正式な謝罪と慰謝料を受け取った。
そして王宮文書院では、新しい用紙管理制度を作った功績により、上級筆記官へ昇進した。
約束の日。
仕事を終えた私を、ユリウス様が王宮の噴水前で待っていた。
あの偽造された恋文に書かれていた場所だ。
「どうして、ここなのです?」
「偽物の思い出を、本物で上書きしようと思った」
彼は一通の手紙を差し出した。
王室用紙ではなく、街で売られている普通の便箋だった。
「その場で読んでも?」
「できれば、私が逃げられない場所で読んでほしい」
手紙を開く。
整然としているのに、最後の一画だけが少し震えていた。
愛しいセシリアへ。
あなたが文字を見るときの真剣な横顔を、ずっと見ていました。
誰よりも細かく、誰よりも誠実に仕事をするあなたを尊敬しています。
これから先の人生を、あなたと並んで歩く許可をいただけないでしょうか。
読み終えた私は、ユリウス様を見上げた。
「本物です」
「手紙が?」
「はい。筆跡も、言葉も、気持ちも」
「返事を聞いてもいいだろうか」
私は便箋を丁寧に折り畳んだ。
これは保存箱へ入れておこう。
光と湿気を避ければ、百年は残せる。
「まず、一つ訂正があります」
ユリウス様の顔が強張った。
「愛しいセシリアへ、ではありません」
「では、何と?」
「愛する妻へ、と書けるようになってください」
彼はしばらく瞬きを繰り返した。
やがて意味を理解すると、普段の彼からは想像できないほど無邪気に笑った。
偽物の恋文によって、私は婚約者を失った。
けれど同時に、私の細かさを欠点ではなく、誠実さだと言ってくれる人を見つけた。
だから偽造されたあの手紙にも、一つだけ感謝している。
あれがなければ、本物の恋文を受け取る日は来なかったのだから。




