真実の愛を見つけた、と言われ婚約破棄されましたが、今日のケーキの予約の方が気になります
「リディア、僕は真実の愛を見つけた」
午後の光が差し込む応接室で、エドガーはそう言った。
向かいに座るリディアは、手にしていた紅茶のカップを静かに受け皿へ戻した。
「そうですか」
「……驚かないのか?」
「驚いております」
実際、彼女は驚いていた。
今朝までは、いつもと変わらない一日になると思っていたのだから。
エドガーは少し言いにくそうに視線をそらした。
「彼女と生きていきたいと思っている。だから……君との婚約を解消したい」
彼の言葉がリディアの胸の中へ落ち、意味を持つまでには少し時間が掛かった。
三年間、自分はエドガーの妻になるのだと思って暮らしてきた。
その未来が、たった今なくなった。
悲しいのだろうか。
腹が立っているのだろうか。
自分の中を探してみても、感情は霧のように掴めない。
ただ胸の奥だけが重く、息がしづらかった。
何か一つ、考えられることが欲しかった。
そのとき、ふと頭に浮かんだことがあり、口に出すことにする。
「あの」
「なんだ?」
「今日の午後三時ですが」
エドガーが眉を寄せる。
「午後三時?」
「予約していたケーキのお店です」
「……ケーキ?」
「二人分で予約しておりますでしょう?」
「あ、ああ」
リディアは壁の時計を見た。
まだ間に合う。
「では、今日の予約には私一人で行っても構いませんわね?」
「…………」
今度は、エドガーが言葉を失う番だった。
「……リディア」
「はい」
「今、僕は君との婚約を解消したいと言ったんだ」
「ええ」
「なのに、どうしてケーキの話になる?」
どうしてと言われても、今のリディアにはうまく説明できなかった。
婚約が終わると言われた。
悲しい。
苦しい。
けれど、それを考え続けていたら、この場から動けなくなりそうだった。
午後三時の予約だけは、今の自分にも分かる。
行くのか、行かないのか。
それだけなら考えられる。
「本日の予約は、ひと月前に取ったものでしょう?」
「そういう意味ではない」
「では、どのような意味でしょう」
エドガーは額を押さえた。
彼もまた、こんな反応は想像していなかったらしい。
リディア自身、自分がどう振る舞うべきなのか分からなかった。
泣くべきなのだろうか。
怒るべきなのだろうか。
けれど、今すぐそのどちらかを始めろと言われても、うまくできる気がしない。
視線が宙を彷徨う。
「君は……何とも思わないのか?」
その言葉には、胸がはっきりと痛んだ。
「何とも思わないわけではありません」
リディアは膝の上で強く指を組んだ。
「三年間、あなたと結婚するものだと……そう思っておりましたから」
口にすると、ぼんやりしていた痛みが輪郭を持った。
「ですが、悲しいことと、午後三時の予約がなくなることは、別の話ではありませんか?」
自分でも、少しおかしな理屈だとは思った。
それでも今は、その小さな予定に縋っていたかった。
「……別、なのか?」
「少なくとも、今の私はそう思いたいです」
エドガーは何か言おうとして、やめた。
リディアはもう一度時計を見る。
このままここに座っていたら、泣いてしまうかもしれない。
それが嫌なのではない。
ただ、今はまだ泣き方すら分からなかった。
「婚約解消について、両家への説明や、お返しする品の確認も必要ですわね」
「今、それを全部決めるのか?」
「……いいえ」
言いかけて、リディアは首を横に振った。
「今日は、そこまで考えられそうにありません。後日でもよろしいでしょうか」
エドガーが少し驚いたように目を瞬く。
「もちろんだ」
「では、今日は失礼いたします」
「どこへ?」
リディアはゆっくりと立ち上がる。
「ケーキを食べに行きます」
唖然としたままのエドガーを残し、リディアは屋敷を出た。
通りかかった馬車を止めようとして、手を上げかける。
けれど、その手を下ろした。
午後の風が思ったより暖かい。
菓子店までは歩いて二十分ほどだ。
今は馬車の中で一人になるより、人のいる通りを歩いていたかった。
大通りへ出ても、いつもの賑わいが遠く感じられた。
焼きたてのパンの匂いも、花屋の色も、誰かの笑い声も、薄い膜の向こうにあるようだった。
そんな中で、露店に並んだ青いリボンだけが妙にはっきり目に入った。
リディアは足を止める。
「お嬢さん、よくお似合いになりますよ」
店主が一本を持ち上げた。
「綺麗な色ね」
口にしたあと、自分でも少し驚いた。
自分は青が好きだったのだろうか。
最近は黄色や薄い橙色ばかり選んでいた。
エドガーが、明るい色の方が似合うと言ったからだ。
嫌だったわけではない。
褒めてもらえるのなら、その方がいいと思っていた。
甘い菓子を控えたのもそうだった。
エドガーは甘い物をあまり好まない。
二人で出掛けるなら、彼が楽しめる場所の方がいいと思っていた。
リディアは青いリボンを見つめた。
買ってどうするのだろう。
明日になれば、こんなことをしている場合ではなかったと思うかもしれない。
それでも。
「これをください」
「はい、青ですね」
受け取ったリボンを手の中で眺める。
大きな決断をした気はしなかった。
ただ今日は、これくらいなら自分で決めてもいいような気がした。
丁寧に畳み、鞄へしまう。
しばらく歩いてから、リディアは気づいた。
エドガーに青を着るなと言われたことはない。
甘い物を食べるなと言われたこともない。
自分が勝手に、婚約者なら相手に合わせるものだと思い込んでいた。
「……私、何も言っていなかったわね」
気づいたところで、三年間をやり直せるわけではない。
胸がまた痛んだ。
足を止めたくなる。
けれど、この先には予約していたケーキがある。
今はそこまで行こう。
それだけを考えて、再び歩き出した。
「いらっしゃいませ!」
菓子店の扉を開けると、甘いバターと紅茶の香りが鼻をくすぐった。
「ベルフォード様! お待ちしておりました!」
顔なじみの店員が笑顔で迎え、それからリディアの後ろへ視線を向ける。
「本日はお二人でご予約でしたよね?」
「……ええ。その予定だったのですけれど」
ほんの少し迷ってから、正直に答えた。
「一人になりました」
「まあ……」
店員の表情が曇る。
気を遣わせたくなくて、リディアは慌てて続けた。
「ですが、ケーキは二人分いただきます」
「二人分を?」
「はい」
言ってから、自分でも少し無謀な気がした。
三年間控えていたからといって、突然二人分を食べられる胃袋になるわけではない。
そんなことを考えていると、横から声がした。
「それはさすがに多いと思いますよ」
「あなたは……アルベルト様?」
視線を向けると、騎士服姿の青年が立っていた。
アルベルト・レイン。
父同士に付き合いがあり、夜会や食事会で何度か顔を合わせたことがある。
王都の騎士団に勤めていたはずだ。
「こんにちは、リディア嬢」
「こんにちは。こちらにはよく?」
「勤務帰りに時々。妹への土産を頼まれるんです」
そう言って、小さな紙包みを見せた。
「それより、二人分をお一人でと耳にしましたが」
「そのつもりでした」
「勇敢ですね」
「騎士様にそう言っていただけると、自信が出ます」
自分でも不思議なくらい、少しだけ冗談を言う余裕が戻っていた。
アルベルトが笑う。
店員も口元を緩めた。
「もしよろしければ、私が一つお手伝いしましょうか」
「ケーキを?」
「ええ。昼食を軽く済ませたくらいなので、まだお腹に余裕があります」
「では……お願いしてもよろしいですか」
「もちろん」
二人で席につく。
ほどなくして、色とりどりの小さなケーキが運ばれてきた。
苺。
栗。
洋梨。
そして、淡い黄色のクリームをまとったレモンのケーキ。
リディアの目が最後の一つで止まった。
「やはり、それがお好きなんですね」
「え?」
「レモンのケーキです」
「どうしてそれを?」
アルベルトは少し考えるように首を傾けた。
「去年のレイン家の食事会で出た時のことを覚えていたんです。皆がチョコレートのケーキを取っている中で、あなたは何度もレモンの方を見ていらした」
「そんなことを覚えていらしたのですか?」
「はい。結局、一つも取られませんでしたから」
リディアは去年の食事会を思い出した。
確かにレモンのケーキがあった。
けれどエドガーが「ここのチョコレートは有名なんだ」と言ったから、同じものを選んだ。
「本当はこちらがお好きだったのでしょう?」
アルベルトは何でもないことのように尋ねた。
リディアは黄色いケーキを見る。
すぐに答えようとして、少し迷う。
本当に好きだったのだろうか。
ただ食べられなかったから、今になって気になっているだけではないだろうか。
フォークで小さく切り、一口食べる。
酸味のあとから、やわらかな甘さが広がった。
「……好きです」
口に出した途端、少しだけ胸が軽くなった。
「私は、レモンのケーキが好きみたいです」
「では、それはリディア嬢のものですね」
ただ、それだけだった。
好きなら選べばいい。
アルベルトにとっては、それほど大げさなことではないらしい。
「おいしい……」
思わず声が出る。
「それは何よりです」
「もっと早く食べればよかったですわ」
そう言った瞬間、胸の奥にエドガーの顔が浮かんだ。
楽しかった日も確かにあった。
それを全部間違いだったことにしてしまうのも違う。
リディアはフォークを置いた。
「……変ですね」
「何がです?」
「さっきまで、もう何も考えたくないと思っていたのに。ケーキはおいしいんです」
「そういうこともあるのでは?」
「婚約を失った日の午後なのに、笑ってもいいのでしょうか」
アルベルトは少し考えた。
「それを私が決めるのは、おかしいでしょう」
リディアは彼を見る。
「悲しいなら悲しんでもいいでしょうし、ケーキがおいしいなら、おいしいと思ってもいいのではありませんか」
励ますというより、本当にそう思っている口調だった。
「……そうですね」
リディアは小さく笑った。
「でも、今日はこれ以上何かを決めるのはやめておきます」
「賛成です」
「賛成なさるのですね」
「二人分のケーキと戦っている最中ですから」
今度は、少しだけ素直に笑えた。
それから二人は、菓子の話や店の話をした。
婚約について、アルベルトは聞かなかった。
リディアも詳しく話さなかった。
それがありがたかった。
店を出るころには、胸の痛みが消えたわけではなかった。
ただ、家へ帰れる程度には息がしやすくなっていた。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ。ケーキをご馳走になってしまいました」
「半分助けていただいたので、おあいこです」
「では、またどこかで」
「はい」
アルベルトと別れ、リディアは一人で家へ帰った。
帰宅すると、部屋の机に青いリボンを置いた。
すぐに髪へ結ぶ気にはなれなかった。
ただ、捨てる気にもならなかった。
三日後、リディアは婚約中にエドガーから贈られた品を整理していた。
首飾りや手袋、何冊かの本。
どれにも三年間の記憶が残っている。
楽しかった日もあった。
喧嘩らしい喧嘩をしなかったのも、仲が良かったからだけではなく、自分が言わずに済ませていたからなのかもしれない。
考えていると、胸がまた重くなった。
「お嬢様、クロウリー様がお見えです」
「エドガー様が?」
「はい。お返しになる品について、直接確認したいと」
会いたくない。
そう思った。
以前なら、その気持ちを飲み込んで即座に会いに行ったかもしれない。
リディアは少し考えた。
けれど、これを終わらせなければ先へ進めないことも分かっている。
「……少しだけ待っていただいて。準備ができたらお会いします」
それが今の自分にできる答えだった。
応接室へ向かうと、エドガーは一人で待っていた。
「急に来てすまない」
「構いません」
贈られた品について一通り確認したあと、エドガーがふいに言った。
「レイン卿と菓子店にいたそうだね」
「あの日、偶然お会いしました」
「随分楽しそうだったと聞いた」
リディアの胸がざわつく。
「……そう見えたのかもしれません」
「君が、そんなにすぐ普通に過ごせるとは思っていなかった」
「私もです」
エドガーは少し苛立ったように眉を寄せた。
「僕との婚約は、君にとってその程度だったのか?」
予想していたより、その言葉は深く刺さった。
リディアはすぐに答えられなかった。
腹も立った。
悲しくもなった。
それと同時に、自分でも同じことを疑っていたのだと気づく。
ケーキがおいしかったこと。
アルベルトと笑ったこと。
それは三年間を軽くすることなのだろうか。
「……いいえ」
ようやく言葉が出た。
「傷つきました」
エドガーが顔を上げる。
「三年間、あなたと結婚すると思っておりました。今でも、考えると苦しいです」
「なら、どうしてあんなふうに笑っていられる?」
その問いに、リディアは一瞬言葉を失った。
エドガーは続ける。
「僕は君なら分かってくれると思っていたんだ。マリアンヌを好きになったことも、僕が彼女を選んだことも」
「……分かってくれる?」
「君は昔から物分かりがよかっただろう。僕を責め立てたり、騒ぎにしたりするような人じゃない」
リディアは彼を見つめた。
胸の痛みとは別のものが、ゆっくりと形になっていく。
「つまり、あなたは別の女性を選ぶけれど、私は静かに受け入れて、あなたを想い続けていると思っていたのですか?」
「そんな言い方はしていない」
「では、どういう意味です?」
エドガーは答えなかった。
答えられないのだと、リディアには分かった。
彼は自分が婚約を破棄することには理由があると思っている。
けれど、捨てられた側のリディアが自分の時間を過ごし、別の男性と笑うことには納得できない。
それは愛情というより、自分が傷つけた相手に、いつまでも傷ついていてほしいという身勝手さだった。
「私がケーキを食べて笑ったことが、そんなにいけませんか?」
「そういうことじゃない。ただ……あまりにも早すぎるだろう」
「あなたは婚約している間に、別の方を好きになられたのでしょう?」
エドガーの顔が強張った。
「それとこれとは違う」
「私には、違いがよく分かりません」
静かに返すと、エドガーは視線をそらした。
リディアの胸はまだ痛んでいた。
けれど、先ほどまでとは痛みの意味が少し変わっていた。
「それから、婚約していた間、私はあなたに合わせていたことにも気づきました」
「合わせていた?」
「甘い物も、服も、休日の過ごし方も」
エドガーの顔に驚きが浮かぶ。
「僕は、そんなことを頼んだ覚えはない」
「はい。そこは私も悪かったと思います。何も言わず、自分から合わせていましたから」
「だったら、僕だけが悪いように言うのは――」
「ですが」
リディアは彼の言葉を遮った。
こんなふうに相手の言葉を途中で止めたのは、初めてかもしれない。
「私が自分の好みを言わなかったことと、あなたが婚約中に別の方を選び、婚約を終わらせたことは別の話です」
エドガーが黙る。
「私は私の悪かったところを考えます。ですが、あなたのしたことまで私の責任にはできません」
言葉にすると、手が少し震えた。
怖くないわけではない。
それでも、言わずに飲み込むよりはよかった。
「君は……変わったな」
「まだ、変わっている途中です」
リディアは一度息を整える。
「食べたいものも、行きたい場所も。嫌だと思ったことも。これからは少しずつ言えるようになりたいと思っています」
「レイン卿にも?」
そこにわずかな嫉妬が混じっていることに気づき、リディアは目を伏せなかった。
「相手が誰であっても、です」
「まさか、本気で彼と――」
「まだ何も決めていません」
今度は迷わず答えた。
「でも、それを決めるのは私です」
エドガーはしばらく黙っていた。
やがて、苦々しそうに息を吐く。
「僕は真実の愛を選んだだけだ」
その言葉を聞いて、リディアは不思議なくらい冷静になった。
「ええ。あなたは選ばれたのでしょう」
「なら――」
「ですから、私もこれから自分で選びます」
エドガーは何も言わなかった。
リディアはテーブルの上に最後の箱を置いた。
「お返しする品は、これですべてです」
「……そうか」
「はい」
それ以上、彼に言ってほしい言葉はなかった。
謝罪も。
理解も。
後悔も。
それらを待ち続けることも、もうしたくなかった。
「これで、私たちの婚約について私からお話しすることはありません」
エドガーは何か言いかけたが、結局口を閉じた。
リディアは席を立つ。
胸はまだ痛んでいる。
それでも、先ほどより少しだけ息がしやすかった。
贈られた品の確認を終え、リディアは父の部屋へ向かった。
婚約を解消することを伝えると、父は何か言いたそうに口を開きかけた。
けれど娘の顔を見て、結局「そうか」とだけ答えた。
こうして婚約は正式に解消された。
一週間ほど経ったある日、アルベルトから手紙が届いた。
――妹に予定が入り、劇場の昼公演の券が一枚余ってしまいました。もしご迷惑でなければ、ご一緒しませんか。
リディアは手紙をしばらく眺めた。
嬉しい。
けれど、すぐ返事を書く手は動かなかった。
婚約を解消して一週間。
もう誰かと出掛けてもよいのだろうか。
そんな考えが浮かび、苦笑する。
また「正しい答え」を誰かに決めてもらおうとしている。
それでも今回は、すぐに答えを出そうとはしなかった。
窓辺に座り、少し考えた。
劇場には行ってみたい。
アルベルトと話すのも嫌ではない。
むしろ、もう一度会いたいと思っている。
そこまで確かめてから、ようやくペンを取った。
――ぜひ、ご一緒させてください。
劇場へ行く約束の日は、よく晴れていた。
リディアは鏡の前で、机に置いたままだった青いリボンを手に取る。
一度髪へ当て、外した。
もう一度当てる。
「……今日は、これにしようかしら」
ようやく結んで家を出た。
劇場の前では、アルベルトが先に待っていた。
「お待たせしました」
「いいえ。私が早く来ただけです」
アルベルトの視線がリボンで止まる。
「青ですね。よくお似合いです」
一瞬、以前の癖で「では、この色を選んでよかった」と思いかけた。
けれど今日は、それだけではない。
「ありがとうございます。私も、この色が好きなんです」
「それなら何よりです」
昼の公演は、思っていた以上に楽しかった。
劇場を出ても、リディアは興奮したまま舞台の話を続ける。
「あの最後の場面、まさかあちらを選ぶとは思いませんでした」
「私は途中からそうなると思っていました」
「本当ですか?」
「ええ」
「では次は、先に言わないでくださいね」
「次もあるんですね」
アルベルトが何気なく言った。
リディアは足を止める。
「……ありませんか?」
「いえ。あるなら、私は嬉しいです」
ほんの少しだけ空気が変わった。
二人は劇場近くの公園へ入り、並木の下を歩く。
しばらくして、アルベルトが口を開いた。
「菓子店で、聞かれませんでしたか」
「何をでしょう?」
「どうして私が、あなたの好みを覚えているのか」
リディアも覚えていた。
「はい」
「答えるべきか迷っていました」
「なぜです?」
「あなたには婚約者がいましたから」
リディアの足が少し遅くなる。
アルベルトも歩調を合わせた。
「私は以前から、あなたが好きでした」
静かな声だった。
大げさな告白ではない。
それなのに、リディアの心臓は急に速くなった。
「……以前から?」
「はい」
「いつからですか?」
「そこまで聞きますか?」
「気になります」
アルベルトが苦笑する。
「二年ほど前でしょうか」
「そんなに」
「でも、あなたは婚約していました。だから何もしませんでした」
恨みも悔しさもない声だった。
「夜会で話せれば嬉しかったですし、たまたま同じ席になれば、その日のことを覚えていた。それだけです」
レモンのケーキ。
自分でも忘れていた小さなこと。
「それで、覚えていたのですね」
「おそらく」
アルベルトは少し視線をそらした。
「好きな人のことは、案外覚えているものです」
リディアはすぐには答えられなかった。
嬉しかった。
それは間違いない。
けれど、婚約が終わってまだ日が浅い。
この嬉しさが、そのまま恋なのかも分からない。
「アルベルト様」
「はい」
「私、まだあなたを好きなのか分かりません」
言った瞬間、怖くなった。
せっかく向けてもらった好意を失うかもしれない。
けれどアルベルトは顔を曇らせなかった。
「ええ」
「……それだけですか?」
「他に何を?」
「もっと、残念そうになさるかと」
「残念ではあります」
アルベルトは笑った。
「ですが、分からないものを分かると言ってもらっても仕方がありません」
その言葉に、リディアは肩から少し力を抜いた。
「答えを急いでいただくつもりもありません」
「では、待ってくださるのですか?」
「必要なら。ただ、待つという言い方も少し違いますね」
「違う?」
「私が勝手に好きなのです。あなたに何か義務が生まれるわけではありません」
リディアはしばらく彼を見つめた。
この人とケーキを食べたのは楽しかった。
今日の劇場も楽しかった。
もっと話してみたい。
けれど、ここですぐ何か大きな答えを出すのは違う気がした。
「……一つ、お願いしてもよろしいですか」
「何でしょう」
「また、お会いしていただけますか」
アルベルトが目を見開く。
「私はまだ、自分の気持ちが分かりません。でも、あなたのことをもう少し知りたいです」
アルベルトは、ゆっくり笑った。
「喜んで」
「では……次は、どこへ行きましょう」
言ってから、リディアは少しだけ考えた。
また相手に決めてもらおうとしている。
けれど、だからといって今すぐ答えを出す必要もない。
「次までに、私も考えてみます」
「ええ。楽しみにしています」
さらに一週間後。
待ち合わせた広場で、アルベルトが尋ねた。
「今日は、どこへ行きましょうか」
リディアはすぐには答えなかった。
以前なら「どこでも構いません」と言っていただろう。
少し前なら、無理にでも即答しなければいけないと思ったかもしれない。
今は、そのどちらでもなかった。
「少し考えてもよろしいですか?」
「もちろん」
二人で歩きながら、リディアは考える。
行きたい場所。
見てみたいもの。
誰かが喜ぶ場所ではなく、自分が行ってみたい場所。
やがて、先日の菓子店で食べたレモンの香りを思い出した。
「王立植物園へ行ってみたいです」
アルベルトが振り向く。
「植物園?」
「はい。温室にレモンの木があるそうなんです。一度見てみたくて」
言ってから、少し照れくさくなった。
「それから、帰りにあの菓子店にも寄りたいです」
「レモンのケーキですね」
「……はい」
アルベルトが笑う。
「では、植物園へ行きましょう」
リディアも笑った。
まだ迷う。
まだ立ち止まる。
それでも、考えたあとには自分の言葉で答えられる。
今日はそれで十分だった。
二人は並んで、植物園へ向かって歩き出した。
読んでくださってありがとうございます。
面白いと感じていただけましたら、評価をいただけると嬉しいです。
少しでも楽しんでいただけましたら幸いです。




