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「後ろ盾ができたから頼らない」と切られ、八年の目利きと売り先を取り上げられたので、付け値の札を置いて帰りました——あなたの革、去年の半値ですわね

作者: 真神 慧
掲載日:2026/08/07

【厩前の取引】


「もう君には頼らない」


 胸の奥で、薄い革が裂けたような音がした。けれど、わたくしの親指が止まったのは、痛みのせいではない。


 差し出された鞍革の銀面に、もう細い罅が入りかけていたからだ。


「オルグレン。こちら、仕上げを急ぎましたの?」


「話を逸らさないでくれ、ヴィルマ」


 逸らしてなどおりません。『頼らない』というお話より、そちらのほうがよほど心臓に悪うございますわ。


 秋口に鞣した背側、油は多いのに乾燥が浅い。王都まで幌なしの荷車で運べば、冷たい風を一晩浴びたあたりで罅が育つ。鞍に張れば三年、いえ、騎手が大柄なら二年半。二年半は短い。伯爵家の晩餐で出される仔牛の煮込みを二百七十回ほど我慢して買う品なのに。許されません、主に仔牛へ申し訳が立ちません。


 わたくしは革から指を離した。隣には、親指ほどの試し革片を収めた木箱がある。牧、季節、部位、鞣しの日、最初につけた値、売り先。八年ぶんを覚えるには指が足りないので、革に覚えてもらっていた。


「新しく王都の商会と話がついた。向こうは僕の腕を高く買ってくれている。もう、君にあれこれ口を挟まれなくても売れるんだ」


 オルグレンは強く言い切ってから、新しい商会の規模と、先方が褒めた艶と、予定されている注文数を続けた。断言したい人ほど理由が増える。厚い革を薄く見せるときにも、油を塗る回数が増えますものね。


 取り巻きたちは顔を見合わせ、ちょうどよいところで揃って笑った。


「ようやく独り立ちだな、オルグレン」


「腕のある鞣し師に、伯爵令嬢の口添えなんて必要ないさ」


「そういうことだ」


 オルグレンの肩がひとつ高くなった。わたくしに向ける声も、それにつれて立派になる。


「だから今後は、試し革を取らなくていい。買い手を選ぶ必要もない。付け値の札も、僕たちで書く」


「承知いたしましたわ」


 それだけで済ませると、彼は少し口を開けた。反論でも、昔話でも、せめて先ほどの罅への助言でも待っていたらしい。


 頼らないと告げた人へ、頼まれもしない手当てを差し出すほど、わたくしの作法は自由ではない。親指はもう一度、罅の手前まで伸びた。けれど触れず、手袋の中へ戻した。


    *    *    *


【十日後・革棚】


 十日後、オルグレンは革棚の前で付け値の札を摘まみ、蝿でも払うように振った。札には革一枚の値しか書かれていない。誰へ、何に、どの部位を売るかは空白だった。たいへん風通しのよい札でございますこと。お財布の中まで風通しがよくなりそうですわ。


「これ、去年より高くしてもいいと思うか」


 呼ばれた覚えはなかった。父の使いで厩へ寄ったわたくしを、彼が棚の前へ連れてきただけである。


「新しい商会へお尋ねになればよろしいのではなくて?」


「値だけだよ。君は札を書くのが得意だっただろう」


「誰でも書けるものだと伺いましたわ」


「だから確認だ。金額を書くくらい、助言には入らない」


 頼らない宣言には、値札の但し書きがついていたらしい。『ただし便利なところは随時使用可』。その札だけは八年前に見落としましたわ。わたくし、一生の不覚!


 オルグレンが顎で示したのは、秋鞣しの腹側だった。柔らかく、よくしなる。袋物なら針を受け入れ、馬具の縁飾りなら手になじむ。だが棚の札には大きく『鞍用』とある。


 腹側は伸びる。乗り手の体重を受ける中央へ張れば、雨を二度吸ったころに座面がずれ、鐙へかかる力が片寄る。落馬一回、折れる骨は運がよくて一本、悪ければ数える人がいなくなる。金貨に換算不能。実にお高い革でございます。


 わたくしの口は、いつもの形まで開いた。『これは鞍ではなく』——そこまでの舌を、歯の裏へ戻す。


「どうした?」


「いいえ。値だけでしたわね」


「そうだ。厚みも広さも十分だ。去年の背革と同じでいいだろう?」


 同じ面積なら同じ値。なるほど、お料理も皿の直径が同じなら仔牛と茹で蕪は同じ値段なのでしょう。そんな王都になったら、わたくしは革命側へ参ります。


「わたくしの確認は不要でございましょう」


「妙に意地を張るなよ。僕は君の仕事を取り上げたわけじゃない」


 では、何を取り上げたおつもりなのでしょう。問い返しかけて、やめた。棚に並ぶ革のうち、買い手と用途が合っているものを無意識に数える。七枚中、二枚。数えたこと自体が腹立たしい。


 わたくしは椅子へ通される前に辞去した。どうせ座れば、座面の擦れを見て、あと何年もつか計算してしまう。頼まれておりませんもの。椅子の寿命も、鞍の寿命も、彼の商売の寿命も。


    *    *    *


【一月後・馬具商の店先】


 一月後、王都の馬具商の店先で、オルグレンの声が石畳へ跳ね返っていた。偶然通りかかった——ということにしておきたいが、実際は焼き栗の匂いに釣られて一本裏の道へ入り、揉め声に首を突っ込んだのである。栗は無罪。わたくしの食い意地も、おそらく軽微な罪。


「昨年と同じ革だ。なぜこの値になる」


「昨年と同じだからだ。今季の鞍には使えない」


 馬具商は、付け値の札を裏返した。昨年より三割安い。革そのものが腐ったわけではない。鞍へ張るには腹側が多すぎ、背側には乾きの浅い品が交じり、袋物へ回せる柔らかな部分は厚く裁たれすぎている。良い歌い手を全員厨房へ入れ、料理人を舞台へ上げたようなものだ。才能の置き場所が、盛大に逆。


「相場が下がっただけだろう。王都では地方の革を買いたたくと聞いた」


「なら、ほかへ持っていけばいい」


 馬具商の声には、取引の可否しかなかった。取り巻きたちはオルグレンの背後で頷き、『今年は相場が悪い』と小さく合唱する。十日前には見識だったものが、今日は相場になった。便利な言葉はよく伸びますわね。腹側よりも。


 店の職人が、買い取った一枚を作業台へ広げた。型紙は鞍の座面。わたくしの足が止まる。あれを中央へ張れば、使うのは革ではなく乗り手の運である。


 助言はしない。そう決めていた。けれど、鞍へ乗る人はオルグレンとわたくしの話など知らないし、馬に至っては値札すら読めない。巻き込むにはあまりに無関係だ。


「その腹側は、鞍へ張らず袋物の芯へお回しくださいませ」


 職人が手を止め、銀面を押した。親指の跡がゆっくり戻る。


「……なるほど。座面には伸びすぎるな」


「ええ」


 それ以上は言わなかった。どの部位なら代わりになるかも、何枚を組み替えれば損を減らせるかも。職人が型紙を外し、別の棚へ革を移したのを確かめる。


「ヴィルマ、待て。だったらほかの革も——」


 焼き栗の袋を抱え直し、わたくしは店を出た。振り返らなかったので、オルグレンがどんな顔をしたかは知らない。栗が冷めますもの。今度こそ、冷える前に守る相手を間違えませんわ。


    *    *    *


【その夜・鞣し場】


 その夜、オルグレンの使いが来た。馬具商への助言について、話があるという。鞣し場へ入ると、昼に見た札が作業台へ叩きつけられていた。


「君が中途半端なことを言ったせいで、あの商人はほかの品まで値を下げた」


「わたくしが申し上げたのは、一枚の用途だけでございます」


「なら最後まで説明すればよかっただろう。前なら、売り先ごとに仕分けてくれた。値だって、もっと——」


 言葉が切れた。


 わたくしは持ってきた帳箱を作業台へ置いた。紐を解き、中から付け値の札を出す。最初の年は文字が丸く、三年目から買い手の名が増え、五年目には雨期と乾期で札の色まで分けてある。


 一枚ずつ、端を揃えた。革の持ちも、売れた値も、褒められた艶も、返品されなかった理由も、ここにある。八年ぶん。持ち出さず、破らず、書き換えず、ただ彼の前へ残す。


「こんなものを置いて、どうするつもりだ」


「お返しするのでございます」


「返す? 君が勝手に書いていた札だろう」


「ええ。頼まれたことは、一度もございませんでしたわ」


 札を見下ろした。


 値も、枚数も、耐用年数も浮かばなかった。指を伸ばせば届く距離に、八年前から今日までが重なっている。初めて褒めた一枚、最初に売れた一枚、雨に濡れて二人で運び直した束。彼の革が良い値で誰かの手へ渡るたび、わたくしは自分のことのように誇らしかった。


「わたくしはこの札に、八年、あなたの革の値を書いてまいりました」


 オルグレンの指が、いちばん古い札へ伸びた。触れる寸前で止まる。


「ですから、明日からも札だけは——」


「いいえ」


 声は揺れなかった。揺れなかったことが、少しだけ痛かった。


「あなたがご自分で売れる日までお手伝いすることが、わたくしの役目だと思っておりました。あなたはもう、わたくしを必要となさらない。それなら、役目は終わりでございます」


「ヴィルマ。僕は、そこまでの意味で言ったんじゃない」


 そこまでとは、どこまででしょう。革を選ぶところまで。値をつけるところまで。失敗を拾うところまで。称賛だけは今までどおり、彼のものになるところまで。


 わたくしは答えず、帳箱の蓋を閉じた。空になった箱は驚くほど軽い。八年とは、持ち上げてみればこんな重さだったのか。


「値を決めるのは、わたくしの務めではございません」


 礼をして、鞣し場を出た。背中へ名を呼ぶ声が届いたが、足は止めなかった。


 空の帳箱の金具だけが、夜気を吸って冷たかった。


    *    *    *


【十日後・革商の帳場前】


 十日後、王都の革商の帳場前で、わたくしは椅子の手すりを見つめていた。右だけ艶が薄い。帳簿を持ったまま立ち上がる人が多く、右手へ体重を預けるのだろう。あと一年半。張り替えるなら冬前。——いけません、今日は椅子に雇われに来たのではございませんわ。


「座らないのか」


 帳場の向こうから、リーデルさんが尋ねた。短い。世辞も前置きもない。


「手すりの革が気になりまして」


「あと、どれくらいだ」


「一年半でございます。冬に暖炉の近くへ移すなら一年。乾燥を避けて左側から立つ方を増やせば二年ですが、お客様へ立ち方を命じる店は評判が割れますので、素直に張り替えるのがよろしいかと」


「そうか」


 リーデルさんは札へ何か書いた。椅子にまで値をつけられたかと思ったが、こちらへは見せない。


 机には試し革片が四つ並んでいた。彼が一つを指で押す。


「持ちは?」


「表面だけなら五年。ですが冬毛の残る時期の皮で、繊維が密なわりに油が抜けきっておりません。旅行鞄なら四年目から角が白くなります。内張りへ麻を重ねれば七年、けれど金具を重くすると縫い目から先に負けますので、軽い留め具がよろしいですわ。色を濃くして白みを味と言い張る手もございますが、わたくし、その手の『味』にはだいたい塩を振りたくなります」


「革の値は?」


「金貨九枚。金具を選ぶ店へなら十枚半」


 リーデルさんは一枚目の札へ書くと、二枚目にも数字を記した。次の革片を差し出す。


「用途は?」


「手袋には厚く、靴底には惜しい。猟犬の首輪ですわ。雨を吸っても戻りが早く、引かれても縁が丸まりにくい。大型犬用なら二本、小型犬用なら五本取れますが、五本売るあいだにお菓子を三度出される店なら大型犬二本のほうが利益は残ります。茶菓子は経費を食べます。わたくしなら食べ返しますけれど」


「金貨六枚」


「七枚でございます」


「六枚半」


「では、栗菓子をつけてくださいませ」


「金貨七枚」


 恐ろしい商人である。わたくしの弱点を一往復で把握なさいましたわ。


 四つ目まで答えると、リーデルさんは二枚の札をこちらへ向けた。一枚には革ごとの付け値。もう一枚には『目利き料、本日分、銀貨十二枚』とある。


「これは?」


「革の値と、値を見抜いた人間の働きは別だ」


 銀貨十二枚。革一枚にも満たない額なのに、指先が札の上で止まった。わたくしが見て、触れて、考えた時間に、初めて誰かが数字を書いた。


「徒弟のころ、俺も目だけを無償で使われた」


 リーデルさんはそれ以上話さず、もう一枚、新しい札を引き寄せた。月ごとの数字を書く欄がある。


「君の目利きに、うちは月いくら払えばいい?」


 胸の中で、八年ぶんの革棚が一斉に開いた。牧も季節も部位も用途も、全部こちらを向く。まあ。まあまあまあ! 値をつけてよいのですか、今度はわたくし自身へ!


「仕事の量を先に拝見いたします。あと、昼食は出ますの?」


「出る」


「煮込みは?」


「冬は」


「では、冬季手当込みで交渉いたしましょう」


 リーデルさんは頷き、数字を書くための余白をわたくしの側へ向けた。


    *    *    *


【三月後・王都の馬具市】


 三月後、王都の馬具市へ、使い込む前から形を崩した鞍が戻ってきた。オルグレンの革を張った品だった。馬具商が鞍頭を押すと、座面の片側だけが指二本ぶん沈み、戻らない。


「二度、雨に当たった」


 馬具商の言葉はそれだけだった。怒鳴りもしない。取引を続ける相手には直し方を話すが、続けない相手には品だけ返す。商売人の静けさは、ときどき怒声よりよく切れる。


 わたくしはリーデルさんの仕入れ札を持ち、少し離れた棚から見ていた。革そのものは悪くない。柔らかな腹側は袋物へ回せば形を沿わせ、乾きの浅い背側も油を入れ直して荷紐にすれば長く使える。ただ、鞍の座面へ張られた瞬間、長所がまとめて欠点へ着替えてしまう。


「去年の品は、こんなふうにはならなかった」


「去年は同じ束から、鞍へ回す部位を分けていた娘がいたそうだな」


「この一枚だけは無事です」


 職人が奥から別の鞍を出した。わたくしが店先で一度だけ用途を告げ、腹側を外させた品である。背の中央は沈まず、銀面にも罅がない。


 馬具商は二つの鞍を見比べ、オルグレンへ返す革の束を積み上げた。


「次の仕入れは外す。靴屋にも袋物屋にも、こちらからは回せない」


「待ってくれ。用途なら今から分ける。値も下げる」


「分けられるなら、最初から分けている」


 その一言で、取り巻きたちの肩が揃って縮んだ。厩の前で独り立ちを囃した口が、今度は小さく相場を唱え始める。


「今年はどこも値が厳しいからな」


「王都の買い手は流行にうるさい」


「革の出来とは別だ」


 銀面の罅も、伸びた座面も、流行にされた。流行とは便利ですこと。雨も部位も乾燥も、全部ひとつの袋へ詰めて口を縛れる。もっとも、その袋を作る革さえ、今の彼らには選べそうにないけれど。


 オルグレンは返された鞍を抱えたまま、無事だった一つへ目を移した。その鞍についた札には、馬具商の手で『用途助言あり』と書かれている。


(革の値なんて、厚みと広さで決まるものだろう——)


 彼の唇が同じ形に動き、声にはならなかった。代わりに、八年ぶんの札がない革棚を振り返る。そこには値の書かれていない革が並び、買い手の名も用途もない。


「ヴィルマは、どの店へ行った」


 誰も答えなかった。取り巻きたちは互いの顔を見たが、今度は笑いが揃わない。


 わたくしはリーデルさんへ仕入れ札を渡した。彼は無事だった鞍を一度見て、短く尋ねる。


「あれは?」


「一度だけ、腹側を外すよう申し上げました」


「そうか。なら、ほかは買わない」


 リーデルさんの札から、オルグレンの名が一本の線で消えた。わたくしはその手元を見届け、新しい仕入れ先の革へ指を置く。今度こそ、罅が入る前に届く場所で働けますわ。


    *    *    *


【翌春・新しい革棚】


 翌春、わたくしは新しい革棚の前で、親指ほどの試し革片を切った。春鞣しの背側。刃を寝かせると銀面だけが薄く光り、切り口には詰まった繊維がまっすぐ並ぶ。


 札のいちばん上へ、『ヴィルマ・ケストレル』と書いた。売り先も、用途も、見込みの耐用年数も、その下へ続ける。誰かの革に添えるだけだった名が、今日は仕事をした者の欄にある。文字は八年前より少し細く、ずっと遠慮がない。


「値は?」


 帳場からリーデルさんが聞く。相変わらず短い。


「革は金貨十四枚。旅行用の鞍へ張るなら、雨の多い南回りを避ける店に限ります。北の騎士団なら十五枚半まで。試し革の戻りを夏にもう一度見せていただければ、次季は十六枚を狙えますわ」


「目利きは?」


「本日分は銀貨十五枚でございます」


「十二枚」


「わたくしの名を書いた最初の一枚ですのよ。祝儀相場という美しい言葉をご存じなくて?」


「十三枚」


「煮込みのお肉を二切れ増やして、十四枚」


「銀貨十四枚。肉は一切れ」


「成立でございます!」


 リーデルさんは二枚の札を書いた。革の値を示す札と、わたくしの目利きへ支払う札。並べても、もう片方が小さく見えない。


 昼になると、帳場の奥で大鍋の蓋が開いた。豆と根菜と牛肉の匂いが、冷えた指のあいだへ入り込んでくる。以前の鞣し場では、札を書き終えるころには食事が冷えていた。冷めた脂というものは革用の蝋より強情で、淑女の顎へ地味な戦いを挑んでくる。あれは夕食ではなく鍛錬でしたわ。


「肉、一切れ増やした」


 リーデルさんが椀を置いた。大きな肉が二つ入っている。


「一切れとおっしゃいましたのに」


「最初から一つ入っている」


「商人の数え方!」


「嫌なら戻せ」


「もうわたくしの椀へ入った品でございます。返品は承っておりませんわ」


 湯気が立っている。ええ、これです。鞣し場にも人にも、温みは必要でございますもの。


 帳場の皆と鍋を囲み、次の革の話をした。北から届く皮、雨期前の注文、張り替えを待つ椅子。わたくしの意見が帳簿へ入り、その横に金額が入る。空腹まできちんと満たされる職場とは、なんと恐ろしいのでしょう。もう戻れる気がまったくいたしません。


 午後、表の門が叩かれた。戸口に立っていたのはオルグレンだった。両腕には革の束があり、銀面は悪くない。けれど札には、去年の半値が書かれている。


「ヴィルマ」


 呼ばれても、わたくしの手は新しい試し革片から離れなかった。親指で切り口をこすり、戻りを見る。こちらは五年。油を足せば六年半。よろしい、実に働き者。


「また値をつけてくれ」


 オルグレンは革を差し出した。以前より低い声で、言葉を重ねていく。わたくしは一つも拾わなかった。


 わたくしは彼の革を見た。去年の半値。袋物へ回せばもう少し上がるし、乾燥をやり直せば罅も遅らせられる。買い手の顔まで三つ浮かぶ。困ったものですわ。目というのは、閉じないかぎり勝手に働く。


 けれど、その働きには値がある。今日の札が、それを知っている。


「今度は払う。必要なだけ払うから。昔みたいに、君が売り先を——」


 わたくしは言い訳の途中で、門へ手をかけた。責める言葉も、去年の値を教える言葉も、もう必要ない。


「値を決めるのは、わたくしの務めではございません」


 門を閉じた。革の束も、オルグレンも、外側に残った。


 帳場へ戻ると、リーデルさんが別の試し革片を二つ並べていた。わたくしは自分の名が書かれた札を一枚取り、椅子へ座る。座面の革は、予定より少し早く張り替えられている。右の手すりまで新品だ。


「こちらは、どなたの依頼でございますの?」


「君の目を買う客だ」


「まあ。それでは、お高くつきましてよ」


 わたくしは笑って、最初の一片へ親指を置いた。

ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。

「悪くなかったな」と思われたら、★や感想を残していってもらえると、とても励みになります。

作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。

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