第1話
三三三×二四二ミリの四号キャンパスを見つめて亜香里はうーんとうなりながら足元に置いた水筒を手に取った。
下書き用の鉛筆を脇に置き身を引いて書きかけの作品を眺め、うんうんと満足げにうなずいてちびりとお茶を一口。
大分イメージが固まってきた、そろそろ本書きに入ってもいいかな、ここは暗めの青でこっちは逆に明るめにしてこっちは――。
下書きを見つめながらこれからの事に思いを馳せる。絵を描いている時、一番楽しいのはこうやって完成を想像しながらあれこれ考えている時間だと思う。
実際に書き出してみたらイメージと違ったなんて良くあることだけど、頭の中でだけならどんな大傑作だって書き上げることができるからだ。
そんな風にワクワクしながらもう一度お茶を飲もうとするが水筒の中はすでに空っぽだった。時間を確認してみれば時計はもう午後の五時を回ろうとしている。
これ以上作業をしていたら夕食を作る時間が無くなってしまう、ちょうど切りもいいし今日はこの辺でやめておこうと亜香里は決めた。
正直に言えばもう少し作業をしたい欲はあったが、あんまり夕食が遅くなるとルームメイトがおなかを空かせてしまう。
亜香里は作品制作に取り組むほかの学生たちの間を縫うように油絵科の共用アトリエ奥にある物置へと向かう。
画材を片付けがてら物陰に隠れすっかりカラフルに汚れてしまった作業用のツナギを勢いよく脱いで、鞄に突っ込んである着替えを引っ張り出して人が来る前に手早く着替える。
着替え用の更衣室が無いわけでもないが距離もあって行くのが面倒なので殆ど使われていないのが実情だ。
実際学生の殆どは絵の具でベタベタに汚れた作業着姿だろうが平気で歩き回るし、中には学外への買い物でさえ着替えずそのまま行く剛の者までいる
亜香里だって普段はそうしているが、寮に帰る時はなるべく着替えるようにしている、ルームメイトには汚れた姿をあまり見られたくない。
着替えた私服姿でもう一度生徒の間を抜けて出入口からアトリエの外に出た瞬間、湿気とほのかな熱を帯びた粘っこいそよ風に顔を撫でられてうへぇと亜香里の表情が苦る、季節は七月も半ばでもうすっかり夏模様だ。
大学に隣接された寮は亜香里が入学する少し前に改修されてパッと見は綺麗なマンションに見えるが築三十年は超えているらしい、中身は相応に年季を感じる部分もあるが住み心地は案外悪くない。
そんな寮の三階角部屋が亜香里とルームメイトが暮らす家だ。
エレベーターで三階へ向かい廊下にでた所で亜香里はギョッとした。部屋の扉に誰かが寄りかかるように座り込んでいたからだ。
いったい何者かと警戒する亜香里だったが、近づくにつれてすぐにそれが誰なのか分かって今度は逆に力が抜けた。
「あっ! お帰り、亜香里」
少し低い、秋風のような涼やかな声に名前を呼ばれて亜香里の力は益々抜けた。
「いったい何をしてたのさ。危うく蒸し焼きになって死ぬかと思った」
額にうっすら汗を浮かべて部屋の前でへたりこんでいるその人物はちょっと怒ったようにそう言うが亜香里としてはそんな事言われる筋合いはない。
「何してたって絵を描いてたに決まってるでしょう美大生なんだから。黎こそ、鍵なら持っているはずでしょう」
「忘れちゃった、だからこうして亜香里が帰ってくるのを待ってたんだ」
そういうことなら電話してくれればよかったじゃない、と言おうかと思ったがその言葉は口から出るころにはあきらめのため息へと変わっていた。
どうせ鍵と一緒に携帯電話も部屋に忘れていったのだろう、このルームメイトが携帯電話を不携帯することは何も今回が初めてというわけじゃない。
亜香里が代わりに部屋の鍵を開けると黎は靴を乱雑に脱いで我先にと部屋へと上がっていった。
哀れにも脱ぎ捨てられた靴を整えてから自分も部屋に入ると案の定、黎の携帯はテーブルの足元に転がっている。
「スマホ、床に置いてたら踏んじゃうよ」
もう何度行ったか分からない注意を口にしてみるけれど、当の本人は冷房の電源を入れながら「ごめん、ごめん」とあまり響いている気はしない、暖簾に腕押しとは多分こういうことを言う。
「じゃあ夕ご飯準備しちゃうから、その間にお風呂入っちゃってよ、お湯はもう沸いてると思うから」
はーい、とちょっと面倒臭そうに返事をしてお風呂場へ歩いていく黎を見送りやれやれとまた小さく息をつく。
でもしょうがない、面倒くさがりの黎は言っておかないと一日くらい平気でお風呂に入らないこともあるのだ。
まぁ言えば入るのでお風呂が嫌いというわけではないのだろうけど。
「ねぇ、シャンプーの替えどこ?」
「それならいつもの開きに、ちょっと!」
返事をしながら何気なく振り返った瞬間、亜香里は慌てて目をそらした。ワイシャツ一枚のあられもない姿をした黎がそこに立っていたからだ。
「裸で動き回らないでっていつも言ってるじゃん!」
「裸じゃないよ、ほら上はちゃんと着てる」
「そうだけど、そういう事じゃなくて!」
そっと横目で見てみると、濡れて顔に張り付いた髪をうっとうしそうに耳に掛けながら、黎はふてくされたような表情をしていてた。
シャワーを浴びて碌に体を拭かずに出てきたのか上気してほんのり薄紅色に染まった体からは水滴が滴り、濡れた白いワイシャツが黎の肌に張り付いてところどころ透けてしまっている。
そんな黎の姿は下手な裸よりもずっと扇情的で亜香里は彼女の事をまともに見ることができなくなった。
「とにかく、そんな恰好で部屋の中を歩き回らないの!」
「いいじゃん別にさ、女の子同士なんだし」
何気ない一言だった。実際、黎はなんて事のない当たり前なことしか言ってない。
でもそんな何気ない言葉が小さな棘になって亜香里の胸の奥をチクリと刺した。
結局替えのシャンプーがどこにあるのかわからないと黎が言うので、亜香里はあまり彼女の事を見ないようにしながら風呂場からすぐにある洗面台の開きから替えのシャンプーを取り出しそれを渡した。
黎は「ありがとう」と言って風呂場の中へと戻っていくが、その声は少し不満げだった気がする。
なるべく黎の事を見ないようにと顔を逸らしていたから不機嫌になったと勘違いされたのかもしれない。
ごめんね、別に怒ったわけじゃないよ。心の中で言い訳するがそれを口に出すことはできない。
このまま喧嘩みたいになったらどうしようと心配したが、お風呂から上がってきた黎は亜香里が用意した料理を見て「おいしそー」とけろっとした様子で少しホッとした。
適当なバラエティー番組を見ながら夕食を済ませ、亜香里が二人分の食器を片付けているとふいに後ろからのしかかられるような重みを感じた。
細くて白い手が、目の前で交差しているのを見て黎から抱きしめられているのだということにようやく理解した瞬間、亜香里の体はガチリと固まった。
「……どうしたの急に」
動揺を悟られまいとするその声は自分でもわかってしまうほど勢いがない。
「んーん、なんとなく。いつもありがとーって、わたしなりのお礼?」
声は頭の上のから聞こえてくる。黎は亜香里より背が高く抱き着くと自然と上からしなだれかかるような体制になる。
サラサラの長い黒髪がほほを撫でる、吐息が耳元をなぶり、お風呂に入ったからだろうかほんのりと花の香りがする。
黎が甘える猫みたいに自身の頬を亜香里の頬に押し付ける。人より体温が少し低い彼女の肌は亜香里からすると少しヒンヤリしている。
「あっ、わ、私そろそろお風呂入りたいんだけど」
めいいっぱい平静を装ったつもりだったけれど、果たしてその声は震えずにいてくれただろうか。
「……そっ」
黎が一言だけ言ってゆっくりと亜香里を捕まえていた手を解いた。
逃げる様にお風呂場へと向かい脱衣所にたどり着くなり亜香里はその場でへたり込んでしまった。
……ああいうことされるのはすごく困る。
心臓が飛び出るんじゃないかと思えるくらいドキドキして、もう限界だった。血が上って頬が赤くなっているのが見なくても分かる。
黎は時々ああいうことをする。
抱き着いたり、寄りかかったり、手を握ったり、そんなことが好きみたいでふとした拍子に何気なくそういうことをしてくる。
それは特に意味のある行動じゃなくて同性同士の気安さからくる軽いスキンシップでしかない、そんな事は分かってる。
でも亜香里からしたらそれは何気ない事なんかじゃなくて、そんなことをされるたび動揺してドキドキしてしまう。
どうしてこんなにも動揺してしまうのか、そのことを意識するたび亜香里の胸はキュウと切なく締まると同時に少しの罪悪感。
スキンシップに動揺してしまうのも、彼女の裸に必要以上に反応してしまうのも、要は亜香里が黎の事をそういう対象として意識しているということなわけで。
つまるところ、亜香里は黎の事をどうしようもないくらい。
「……好きなの」
零れたつぶやきは儚く、今にも消えてしまいそうだった。
――あとがき――
【美術大学に入学したら天才女子彫刻家のお世話をすることになりました】を読んでいただいてありがとうございます、いかがだったでしょうか?
もし気に入っていただけたのであれば最後までこの物語にお付き合い頂けたら嬉しいです。
それではまた、次のお話しでもあなたにこうしてお会いできることを楽しみにしています。
ご拝読ありがとうございました。




