日本という遠い世界の匂い
暖炉の火がぱちぱちと小さく弾け、塔の居間には木の香りと、煮出した茶葉の匂いが満ちていた。
窓の外では、森の梢の影が夜風に揺れている。いつも通りの静かな夜――のはずだった。
「日本ってね、冬になるとこたつっていうのが出てくるんだよ」
エマが、膝を抱えながら楽しそうに話す。
紫がかった夜空の下、彼女の瞳は暖炉の光を映して、どこか遠いものを見ていた。
「机の下に布をはさんで、中に火の魔法みたいな温かい箱が入っててさ。
一度入ると二度と出たくなくなる、悪魔の家具なんだよ」
「悪魔……?」
「そう。あったかすぎて動きたくなくなるの。
そのまま寝ちゃって、風邪引いて、『何やってるんだ私~!』ってなるやつ」
そう言って笑う顔が、やけに生き生きしている。
前の世界の話をするとき、エマの表情は少しだけ違う。
懐かしさと、少しの寂しさと、それでも大事に抱きしめている何かが混ざっている。
「夜中でも人が歩いてるの。明るくて、コンビニっていうお店があって、
ふら~っと行って、ホットスナック買って、ジュース買って……」
エマの言葉の中で、見たこともない街の光景がゆっくり形になっていく。
高くそびえる建物、白い光の通り、線路を走る鉄の箱。
俺の知らない世界で、エマは四十年近く生きていた。
「……楽しそうだな」
気づけば、そうこぼしていた。
「楽しかったよ。大変なことだらけだったけど……。
でも、こっちの世界の方が、私は好きかな」
「なぜだ」
「空が、ちゃんと暗くなるから」
エマは窓の外を見上げた。
森の向こう、星の瞬く夜空を。
街の明かりに奪われない、深い暗さを。
「夜なのに明るい場所って、便利だけどね。
本当の夜がちょっと恋しくなるんだよ。
……だから、ここ、落ち着く」
胸の奥で、何かが静かに満たされていく。
俺の知らない世界で、
俺のいない場所で積み上がった記憶たちが、
今こうして、少しずつ“ここ”に移されていく。
気に入らない、と最初は思っていた。
日本も、会社も、コンビニも、こたつも。
エマの笑顔を知っていたのなら、全員まとめて敵だとすら思った。
けれど今は――
その街を経験してもなお、エマが「こっちが好き」と言ってくれたことの方が、
何倍も甘く重く、胸に響いた。
「リュカ?」
「なんでもない」
エマの視線を受け止める。
日本という世界が、彼女の半生を作ったのなら。
この世界の残りの人生は、全部、俺が塗り替えてやればいい。
彼女が「日本も良かったけれど、ここが一番」と笑うように。
そのためなら……




