9. 修行開始
翌朝、まだ冷たい朝露が草葉を濡らす中、俺は庭の真ん中で硬く立っていた。
顔には昨夜の疲れが残り、体中の筋肉がこわばっている。だが、俺の目は真っ直ぐに前を向いていた。
「これから本格的に始める。お前の魔力回路から、煉獄の魔神の魔力を一時的に切り離す」
レイは淡々と、しかし揺るぎない決意を含んだ声で告げた。
「……そんなことが、できるんですか?」
俺の声は震えた。できるとは思っていなかったからだ。
「できる。しかし、これには“そいつ”の同意が必要だ」
頭の奥で低く響く声。煉獄の魔神の存在感が、体の内側から重くのしかかる。
(ふむ……お主のためなら、回路から少し距離を置くのも悪くない。ただし完全に消えるわけではない。蓋をしても、匂いは漏れ続けるぞ)
「……匂いが問題なんです」
レイはゆっくりと俺の胸元に手をかざし、掌から淡い青の光を放った。
光はまるで生きているかのように揺らめき、俺の身体の内側へと染み込んでいく。
「魔神よ、聞こえるか?」
(聞こえておる)
「これからお前の魔力の流れを一時的に遮断する。抵抗するな」
(ふはは、面白い。やってみるがいい)
胸の奥から“断ち切られる”感覚が襲った。
まるで氷水を浴びたように冷たく、同時に重く縛り付けていた熱がスッと引いていく。
体が急に軽くなり、空気が澄んだような錯覚すら覚えた。
「……静かになったな」
「今、お前の魔力回路と魔神の魔力の流れを切り離した。だが、漏れ出す魔力までは止められん」
レイは地面に精緻な魔法陣を描き、俺をその中心に立たせた。
空気の質が変わる。ひんやりとした透明な力――マナが肌の上を滑るように流れていくのがわかる。
「お前の魔力回路はまだ空っぽだ。だから大気から直接マナを集め、魔力へと変換する。この技術は私と歴代勇者しか扱えなかった」
「そんなレベルのことを、いきなり……?」
声が震える。自分の無力さが身に染みて、口をつぐみたくなった。
「甘えは許さぬ」
(ほう……なかなか興味深い。大気を媒介にするとは)
「まずは息を吸う。肺でなく、魔力回路でだ。胸の奥ではなく、腹の下、もっと深いところから吸い上げるように意識しろ」
必死に集中すると、周囲の空気の一部がざわめいた。
だが、それはまるで見えない壁に弾かれるように俺から離れていく。
「……逃げられてる?」
「当然だ。お前の体内にはまだ魔神の“匂い”が染みついている。大気中のマナは本能的にそれを避ける」
レイの声が厳しく響く。
「それでも、集めろ。無理に奪うのではなく、懐に招き入れるように……」
意識を集中し続けると、汗が額にじわりと浮かび、喉の奥が乾いてくる。
その瞬間、腕の中をかすかな光の粒が流れていった。
「来た!」
「逃がすな。ゆっくりと、回路を満たせ」
しかし、その光は束の間で霧散し、膝に手をついてしまう。
「全然溜まらない……」
「最初はそうだ。だが今日一日、吐きそうになっても気絶するまでやめるな」
(ふふ……なかなかの鬼畜よの、レイ)
「お前も黙って見ていろ」
修行は容赦なく続いた。
日が高く昇り、やがて傾くころには、俺の身体は汗と泥で覆われ、呼吸は荒く、肌はひりひりと痛んだ。
「……こんなに……しんどいとは……」
「それが、魔力がない者の宿命だ。これを乗り越えなければ、強くなれぬ」
俺は泥にまみれた顔を上げ、鋭い目でレイを見据えた。
そこには師匠の厳しさと、しかし確かな期待があった。
「明日も、同じことをやる」
少し間を置き、レイが付け加えた。
「大気中のマナを自在に集められるようになれば、お前は全ての属性の魔術を扱えるようになる。火、水、風、土、光、闇……どんな魔術も可能だ」
その言葉に胸が震えた。
七年という長い年月の最初の一歩が、今、刻まれたのだった。